第9話 父の過去
その日は、街道からかなり離れた林の奥で休むことになった。
休憩所での一件があってから、リリアはずっと静かだった。泣いてはいない。取り乱してもいない。けれど、エドの服を掴む手だけは、歩いているあいだ一度も離れなかった。
人のいない場所を選び、木々に囲まれた少し低い土地で火を起こす。
日が落ちるころには、ようやくリリアの顔色も少し戻っていた。
「ほら」
エドが温めた水を渡すと、リリアは両手で受け取った。
「あつい」
「ゆっくり飲め」
「……うん」
今日は食事も少なめだった。干し肉を少しと、残りの豆。食べているだけましだが、元気があるとは言いがたい。
ミレナは焚き火の向こうに座り、珍しくあまり喋らなかった。
たぶん、昼間のことをまだ引きずっているのだろう。
休憩所の子どもの腕が、消えかけた。
完全には消えなかった。戻った。
けれど、“戻ったからいい”で済ませられるほど軽くもない。
「おとうさん」
不意に、リリアが小さく呼んだ。
「ん?」
「きょう、だめだった?」
やっぱり聞くか、とエドは思う。
「だめじゃない」
いつも通り、すぐに答える。
「でも、あのこ……」
「止まっただろ」
「おとうさんが、とめた」
「お前も止まった」
リリアは木椀を持ったまま、少しだけ俯いた。
「……でも、こわかった」
「知ってる」
「こわいと、だめ?」
その問いに、エドは少しだけ黙った。
怖いこと自体が悪いわけではない。
けれど、この子の場合、怖がるだけで何かが壊れかける。それが普通じゃないのは、エドにもわかっていた。
わかっていたが、それをそのまま返す気にはなれない。
「怖いのは仕方ない」
エドは言う。
「怖いときに、ちゃんと戻ろうとしたのが偉い」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
リリアは少し考えてから、こくりとうなずいた。
それでようやく、水をひとくち飲む。
そのやり取りを聞いていたミレナが、焚き火を見たまま口を開いた。
「毎回ちゃんと答えるのね」
「何がだ」
「その子が、自分は駄目かって聞いた時」
エドは少し眉をひそめる。
「答えない理由がないだろ」
「普通は、もう少し迷うと思う」
「普通って便利だな」
「そういう意味じゃなくて」
ミレナはそこで言葉を切った。
少し迷ってから、続ける。
「……あんた、どうしてそこまで迷わないの」
風が吹いて、火が少し揺れた。
リリアはもう眠そうで、毛布を抱えたままうとうとしている。聞いていないわけではないだろうが、話の意味までは追っていない顔だった。
エドはすぐには答えなかった。
「別に、立派な理由があるわけじゃない」
「でも、あるんでしょ」
ミレナの声は静かだった。
「なければあんなふうに言えない。“それでも娘だ”なんて、簡単には」
エドは焚き火に枝を一本足した。
火がぱち、と鳴る。
「俺は昔から、だいたいいらない側だった」
ぽつりとそう言うと、ミレナが少しだけ目を上げた。
「いらない側?」
「力仕事は駄目。剣も駄目。魔術も使えない。覚えも悪いし、気も利かない」
言いながら、自分でもだいぶひどいなと思う。
だが事実だった。
「何やらせても半端だった。いてもいなくても同じ、って顔をされるのには慣れてる」
ミレナは何も挟まなかった。
エドは少しだけ視線を遠くに向ける。
「兄貴は出来がよくて、俺は何をやらせても半端だった。役に立つやつから先に名前を呼ばれる。そういうのには慣れてる」
「……あんたは?」
「ついでだな」
あっさり言うと、ミレナが少しだけ顔をしかめた。
「笑いごとじゃない」
「笑ってない」
エドは肩をすくめる。
「でも、そういうもんだろ。役に立つやつから先に名前を呼ばれる」
薪を運んでも遅い。狩りに出ても足を引っ張る。剣を持てば怪我をする。
頑張れば頑張るほど、自分が向いていないことだけがよくわかった。
「だから、期待されるのは早めに諦めた」
エドは言った。
「どうせ無理なものは無理だ。なら邪魔をしないようにしてたほうがましだと思った」
そうしているうちに、本当に誰も期待しなくなった。
それは楽でもあったし、たぶん少しだけ寂しくもあったのだろう。
でも、慣れればどうでもよくなる。
少なくとも、自分ではそう思っていた。
「……その生き方でよく今まで折れなかったわね」
ミレナが小さく言う。
エドは少しだけ考えてから答えた。
「折れてたかもしれないな。自覚がないだけで」
その返事に、ミレナは何も言えなくなる。
焚き火のそばで、リリアがこくり、と船を漕いだ。
毛布が落ちそうになったので、エドはそっとかけ直す。
「で、この子が来た」
エドはリリアの頭を見ながら言った。
「最初は、ただの面倒な縁だと思ってた」
「面倒って」
「泣くし、熱は出すし、すぐ不安になるし」
そこまで言うと、うとうとしていたリリアが薄目を開けた。
「……わるくち?」
「違う」
「ほんと?」
「事実だ」
「それ、わるくち」
眠そうなくせに、そこは拾うらしい。
ミレナが思わず吹き出した。
エドも少しだけ口元を緩める。
「まあ、とにかく大変だった」
「うん……」
なぜかリリアも納得したようにうなずく。
「でもな」
エドは続けた。
「この子、俺が何しても、いるだけで喜んだんだよ」
水を持っていけば嬉しそうにする。
熱が下がって目を開ければ、そこにいるだけで安心した顔をする。
上手いことなんて何もしていない。ただ隣にいて、頭を撫でて、飯を食わせて、それだけだ。
「それだけで、“おとうさんすごい”みたいな顔するんだ」
エドは少し困ったように笑う。
「そんなわけないだろって思ってた」
「でも、違った?」
「この子にとっては違わなかったんだろ」
リリアはもう半分以上眠っていたが、その言葉だけは聞こえたらしい。
目を閉じたまま、小さく呟く。
「……すごいよ」
エドの手が少し止まる。
ミレナは黙っていた。
「だからたぶん」
エドは低く言った。
「俺はこの子を、“変なもの”として見られない」
怖いと思うことはある。
おかしいとも思う。
今日みたいに、人が消えかけるのを見れば、背筋も冷える。
それでも、最初に浮かぶのは災厄だの異常だのじゃない。
怖がっている小さい子どもの顔だ。
「役に立たない俺でも、いていいって顔したのは、この子が最初だった」
焚き火の音だけがしばらく続いた。
ミレナは何か言いかけて、やめる。
たぶん、下手な慰めは逆に軽くなると思ったのだろう。
「……なるほどね」
結局、そうとだけ言った。
「だから切れないのか」
「切る気もない」
「そこは強いのね」
「そこだけな」
リリアが完全に眠ったのを確認して、エドはそっと抱き上げ、寝やすいように横にする。毛布をかけると、娘は少しだけ眉を寄せて、エドの袖を掴んだ。
眠っていても、離れるのは嫌らしい。
「……依存されてるわね」
ミレナがぼそりと言う。
「知ってる」
「それ、危ういと思わない?」
エドは一瞬だけ黙った。
思わないわけではない。
最近は特にそうだ。人が増えれば増えるほど、リリアはエドだけを確認するようになる。怖い目にあったあとほど、何度も“ちゃんといる?”と聞いてくる。
普通の甘え方より、ずっと必死だ。
「思ってるよ」
「なら――」
「でも今は、それで落ち着くならそれでいい」
エドは言った。
「急に離してまともになるとも思えない」
ミレナは小さく息を吐く。
「それはそう」
否定はしないらしい。
林の夜は静かだった。
少し前までなら、その静けさにほっとしていた。けれど今は違う。静かすぎると、それはそれで何か起きる前触れみたいに思えてしまう。
しばらくして、リリアが寝返りを打った。
そして薄く目を開けたまま、寝言のように言う。
「おとうさん」
「ん?」
「……ちゃんと、いる?」
エドは苦笑する。
「いるよ」
「……よかった」
それだけ言って、また眠る。
ミレナが火の向こうで低く呟いた。
「ほんとに、それしか見てないのね」
「そういう年頃だろ」
「違う意味で言ってるんだけど」
「わかってる」
エドは焚き火を見ながら答えた。
「でも、今のこの子に必要なのは、たぶん難しい説明じゃない」
大丈夫だとか、いるとか、いい子だとか。
そういう短い言葉のほうが、ずっと届く。
ミレナは何も言わなかった。
夜風が少し強くなったころ、林の奥で鳥が一斉に飛び立つ音がした。
ばさばさ、と大きな羽音が広がって、すぐに遠ざかる。
二人が同時にそちらを見る。
「……何かいる?」
ミレナが低く言う。
「わからん」
エドも目を細めた。
獣の気配ではない。
人とも少し違う。何かがこちらを見て、でも近づかず、林の奥を回るように動いている。
焚き火の向こうで、眠っていたリリアの指先がぴくりと震えた。
「おとうさん……」
寝言とも目覚めともつかない声だった。
エドはすぐにその手を握る。
「いる」
短く答えると、リリアの指から力が抜ける。
けれど林の奥の気配は、消えなかった。
見ている。
確かに見ている。
あの町や休憩所で向けられた人間の視線とは別の、もっと輪郭の曖昧な何かが。
ミレナが剣の柄に手を置いた。
「また面倒ごと?」
「そうかもな」
エドは火のそばから動かずに言った。
「でも、今日はもう寝かせたい」
「無茶言うわね」
「毎日だ」
その返事に、ミレナが小さく笑う。
林の奥で何かがひどく低く、長く鳴いた。
――そのときだった。
焚き火の火が、外側からわずかに欠けた。
ぱち、と鳴るはずの火の縁が、音もなく削られる。
炎が一部だけ消えている。
そこだけ、火が燃えること自体を忘れたみたいに。
ミレナが息を呑んだ。
「……今の、見た?」
「火が、欠けた」
「ああ」
エドは無意識に、眠るリリアを庇うように身体を寄せる。
火よりも先に、そちらを守る形で。
昼間、この子が聞いたと言った“泣き声みたいな音”を、今度はエドも確かに聞いていた。
それは、まだ林の奥にいる。
だが――
――少しずつ近づいていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
面白いと感じていただけましたら、リアクションや評価、
ブックマークで応援していただけると励みになります。




