第10話 依存
翌朝、リリアは目を覚ますなり、エドの服の袖を探した。
まだ寝ぼけた顔のまま、毛布の中から手だけ伸ばしてくる。指先がエドの袖を掴んだ瞬間、ようやくほっとしたように息をついた。
「……いた」
「いるよ」
エドが言うと、リリアは目をこすりながら起き上がった。
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
「よかった」
そのやり取りを、少し離れた場所で見張りを代わっていたミレナが黙って見ていた。
昨夜、林の奥で聞こえたあの妙な声は、そのあと近づいてはこなかった。けれど気味が悪いことに変わりはない。エドも眠りは浅かったし、ミレナも何度か剣の柄に手をかけた。
なのに、朝になって最初に確認するのが“敵がいるか”ではなく“父がいるか”なのだから、やはりこの子は少しおかしい。
いや、おかしいのは今さらか、とミレナは思い直す。
「顔洗ってこい」
エドが言うと、リリアは素直に立ち上がった。だが数歩歩いたところで振り返る。
「おとうさん、くる?」
「井戸じゃないんだから、そこまで一緒に行かなくても見えてるだろ」
「でも」
「ここにいる」
そう言われて、リリアは少しだけ迷ってから水場へ向かった。
ほんの数歩だ。
それでも二度、三度と振り返る。
ミレナが小さく息を吐いた。
「増えてるわね」
「何がだ」
「確認の回数」
エドは返事をしなかった。
わかっている。昨日より今日、今日よりたぶん明日。リリアは少しずつ、“そこにいるか”を確かめる回数が増えている。
それは甘えとも違う。
もっと切実で、もっと必死だ。
朝食は残り少ないパンと干し肉だった。食べながらも、リリアは何度かエドを見上げた。
「おとうさん」
「ん?」
「きょうも、いる?」
「いるよ」
「ずっと?」
「少なくとも、お前より先にはどっか行かない」
「……ほんと?」
「ほんとだ」
ようやく安心したのか、リリアはパンをひとかじりした。
ミレナは焚き火の跡を土で埋めながら、ぼそりと言う。
「それ、あんまり軽く約束しないほうがいいんじゃない」
「軽く言ってるつもりはない」
「そうじゃなくて」
ミレナは少しだけ言い淀んだ。
「その子、もう“安心するために聞いてる”感じじゃない」
エドは火の消えた跡を見たまま答える。
「わかってる」
「ほんとに?」
「だから困ってるんだろ」
その返事に、ミレナは何も言えなくなった。
三人は朝のうちに林を抜け、浅い沢に沿って歩いた。街道からは外れているが、水があるぶん野営地は探しやすい。人も少ない。
リリアも最初は落ち着いていた。エドの手を握り、静かについてくる。
だが、少しでも足場が悪くなったり、木々で視界が遮られたりすると、すぐに不安そうな顔になる。
「おとうさん」
「ん?」
「まだ、いる?」
「見えてるだろ」
「でも」
「いるよ」
それで落ち着く。
またしばらくして、同じことを聞く。
昼前には、ミレナがとうとう言った。
「それ、さすがに多くない?」
リリアがびくっとする。
エドはすぐに娘の頭を軽く撫でた。
「責めてるわけじゃない」
「……うん」
「ただ、聞きすぎだとは思う」
ミレナの言葉はきつくなかったが、リリアはそれでも不安そうだった。
「わたし、へん?」
小さな声で聞く。
「変じゃない」
エドは即答する。
「ちょっと心配性なだけだ」
するとミレナが小さく眉をひそめたが、何も言わなかった。
反論したいことはあるのだろう。けれど、ここでそれを言っても意味がないとわかっている顔だった。
昼過ぎ、小さな崖の下に日陰のある場所を見つけて休むことにした。沢も近いし、風も弱い。エドは水袋を補充しようとして立ち上がる。
「リリア、ここで待ってろ」
そう言った瞬間だった。
リリアの顔が強張る。
「……どこいくの」
「水を汲むだけだ。すぐそこ」
「いっしょにいく」
「足場が悪い」
「でも」
エドは少し考え、ミレナを見る。
「見ててくれ」
「見るのはいいけど」
ミレナが言い終わる前に、リリアがエドの服を掴んだ。
「やだ」
はっきりした声だった。
「すぐ戻る」
「やだ」
「リリア」
「やだ……」
まだ泣いてはいない。けれど、その一歩手前の顔だ。
エドはしゃがみ、目線を合わせる。
「水を持ってこないと困る」
「いっしょにいく」
「滑る」
「じゃあ、ここがいい」
「だから、ここにいるだろ」
そう言っても、リリアの指は離れない。
ミレナが低く言う。
「エド」
「ああ」
わかっている。
これを無理に引きはがすのはまずい。
エドは少し考えてから、水袋だけ持って数歩先まで行ってみせた。
「ほら」
振り返る。
「見えてるだろ」
リリアはその場に立ったまま、じっと見ていた。
だがエドがさらに二歩進み、茂みの陰に肩が半分隠れた瞬間、顔色が変わる。
「おとうさん」
「いるよ」
「……ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
その返事で、いったんは止まった。
だが次に、沢の音が少し強くなって声がかき消された。
エドが「すぐ戻る」と言ったのが、届かなかった。
リリアの呼吸が浅くなる。
「おとうさん?」
返事がない。
ほんの一瞬、茂みで姿が見えなくなる。
それだけだった。
空気が冷えた。
肺に入る息が、少しだけ軽くなる。
ミレナが即座に立ち上がる。
「リリア、落ち着いて」
「いない……」
「いるわ。すぐそこよ」
「いない……っ」
沢の水面が揺れた。
風もないのに、光の反射だけが不自然に歪む。足元の小石の輪郭がぼやけ、崖の影が端から薄くなる。
ミレナの背筋が冷える。
「エド!」
叫ぶと、すぐに茂みの向こうから足音が返ってきた。
エドが戻る。
「リリア!」
その声を聞いた瞬間、リリアの目が大きく揺れた。
エドはすぐに駆け寄り、娘の前にしゃがみこんだ。
「見ろ。ここにいる」
「おとうさん……」
「いるよ」
両肩を支える。
「どこにも行ってない」
リリアの唇が震えていた。
「みえ、なかった……」
「いなくなったかと、おもった……」
「悪かった」
エドは短く言う。
「でも戻った。ちゃんといる」
歪みかけた空気が、少しずつ戻っていく。沢の反射も、小石の輪郭も、崖の影も元に戻る。
今回は大きくは広がらなかった。だが、それは運がよかっただけだ。
リリアはついに泣き出した。
「やだ……ひとり、やだ……」
「うん」
「いなくなったかと、おもった……」
「いなくならない」
エドは娘を抱き寄せる。
「悪かった。もう少し言い方を考える」
ミレナはその様子を見ていたが、さすがにすぐ口は挟めなかった。
ただ、内心の冷えは消えない。
数歩。
ほんの数歩離れただけで、これだ。
リリアが落ち着くまで少し時間がかかった。泣きやんだあとも、しばらくエドの服に顔を押しつけたまま動かない。
「……ごめんなさい」
ようやく出てきたのは、やっぱりその言葉だった。
「謝るな」
エドが言う。
「怖かったんだろ」
「うん……」
「ちゃんと戻れた」
「おとうさんが、きたから……」
「そうだな」
そこを否定する気にはなれなかった。
結局、水汲みは三人で行くことになった。エドが前、リリアが真ん中、ミレナが後ろ。そこまでしなくても、と思ったが、今はそれがいちばん安全だった。
水を補充し終え、再び日陰に戻ったころには、リリアは疲れたらしく黙ってエドの肩に寄りかかっていた。
ミレナが少し離れた場所から言う。
「ねえ」
「なんだ」
「あんた、本気でどうにかしないとまずいわよ」
エドは眉を上げる。
「どうにか、って?」
「依存」
ミレナははっきり言った。
「前は“落ち着くため”だった。でも今は違う。見えなくなるだけで崩れる」
「……」
「そのうち、眠ってる間も確認し始めるかもしれない」
「もうしてる」
エドが答えると、ミレナは一瞬言葉を失った。
「……冗談で言ったんだけど」
「寝ぼけながら袖を掴んでくる」
「笑えない」
「笑ってない」
ミレナは深く息を吐いた。
「このままだと、あんたが崩れた瞬間、この子も崩れる」
「もうなってるだろ」
「そうじゃない。もっと悪い意味でよ」
風が沢のにおいを運んでくる。
リリアは半分眠りかけていたが、“悪い意味”という言葉に少しだけ眉を寄せた。
エドはその頭を撫でる。
「今は、これで落ち着くならそれでいい」
「またそれ」
「急に離して壊れるよりましだ」
「でも、離れられなくなる」
その言葉は重かった。
エドも、わかってはいる。
今日の数歩で、はっきりした。これはただの甘えではない。リリアの足場が、もうほとんどエドひとりに寄っている。
それが危ないことも。
危ないからこそ、簡単には手を離せないことも。
しばらく黙っていたあと、ミレナが小さく聞いた。
「もし、あんたが本当にいなくなったら、この子どうなるの」
エドはすぐには答えなかった。
答えたくない問いだった。
想像もしたくない。
寄りかかったままのリリアが、眠そうな声で呟く。
「……おとうさん、いるよ」
まるで、自分に言い聞かせるみたいな言い方だった。
エドはその小さな身体を支えながら、沢の流れを見た。
水は何事もなかったように流れている。さっき少し歪んだことなど、最初からなかったみたいに。
「考えない」
ようやく、そう言った。
「今はな」
ミレナはそれ以上追及しなかった。
できなかった、と言ったほうが近い。
日が傾き始める。今日もまた、野営地を探さなければならない。
エドが立ち上がると、リリアもすぐに目を開けた。
「……どこいくの」
「歩くだけだ」
「ちゃんといる?」
「いるよ」
「ずっと?」
エドは少しだけ笑った。
「しつこいな」
「……だめ?」
「だめじゃない」
そう答えると、リリアは少しだけ安心した顔をする。
けれどその表情を見ながら、ミレナの胸の奥には別の冷たさが残っていた。
この子は、父を確かめることでしか自分を保てなくなりつつある。
それが優しさの形で進んでいるぶん、なおさら厄介だった。
そしてエド自身も、その問いに答え続けることをやめられない。
林の先へ歩き出す親子の背を見ながら、ミレナは小さく息を吐く。
これは絆なのか。
それとも、もっと危うい何かなのか。
まだ答えは出ない。
ただ、その“答えを出す猶予”が、どれだけ残っているのかはわからなかった。
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