第11話 世界の異常
その日の野営地は、古い石祠のそばだった。
林を抜けた先の小さな丘に、半ば崩れた祠がひとつだけ残っている。雨風はしのげないが、背を預ける壁があるだけで少し違う。
リリアは石の台座に腰かけ、毛布を膝にのせていた。
「ここ、きょうのおうち?」
「今日だけのな」
エドが答えると、リリアは少し考えてから聞いた。
「ちゃんと、いる?」
「いるよ」
「よかった」
最近、そればかりだ。
朝起きた時。歩き出す時。水を飲む時。少しでも視界が外れそうになる時。
エドがそこにいるかどうか、それを確かめる回数が目に見えて増えている。
ミレナもそれに気づいていたが、今日はもう何も言わなかった。
言ったところで、急によくなるものでもない。
火を起こしながら、エドはちらりと空を見た。日が沈みきる前の薄青い色が残っている。風は弱い。周囲に人の気配もない。
平穏といえば平穏だった。
だが、その“何もない感じ”が、逆に落ち着かない。
「おとうさん」
「ん?」
「きょう、へんなおと、しない」
リリアがぽつりと言う。
「そうか」
「きのうは、してた」
「ああ」
昨夜のあの泣き声のような音は、結局それきりだった。
エドにもミレナにも、正体はわからない。
ただ、リリアには何かが聞こえている。
それが気のせいではないことだけは、だんだんはっきりしてきていた。
ミレナが水袋を脇に置いて言う。
「聞こえる場所と聞こえない場所があるのかもね」
「音っていうより、兆しみたいなものか?」
「そういうの、いちばん嫌い」
「俺もだ」
そのやり取りを聞きながら、リリアは火のそばへ少し寄った。
少しでもエドに近い場所のほうが落ち着くらしい。
もはや隠す気もない動きだった。
「ほら」
エドが温めた湯を渡すと、リリアは両手で受け取る。
「あつい」
「冷ますなよ。今日は冷える」
「うん」
それから少し迷って、また聞く。
「おとうさんも、のむ?」
「飲むよ」
「いっしょ?」
「いっしょだ」
その返事で、ようやく安心したように湯に口をつけた。
ミレナは火の向こうで、その様子を見ていた。
やはり危うい。だが、それを指摘すればするほど、リリアはエドにしがみつく。そんな気配がある。
「……ねえ」
ミレナが低く言う。
「今日、街道で変な話を聞いた」
エドが視線を上げる。
「変な話ばっかりだな」
「その中でも、わりと嫌なやつ」
ミレナは膝を抱えるようにして座り直した。
「この先の村で、井戸が消えたんだって」
「井戸?」
「正確には、“井戸があった場所だけが空になった”らしい」
エドは少し黙る。
井戸が壊れたのではなく、あった場所ごと空白になった。
それは今まで聞いてきた異常と、嫌になるほどよく似ている。
「納屋の壁が一部だけなくなったとか、名前が思い出せなくなったとか」
ミレナは続けた。
「地方じゃ最近、そういう噂が増えてる」
「噂だろ」
「噂で済んでるうちは、まだいいけどね」
エドは返事をしなかった。
横でリリアが湯を持ったまま、じっと火を見ている。
自分の話だと気づいているのか、いないのか、わからない顔だった。
「おとうさん」
「ん?」
「いどって、みずのやつ?」
「そうだ」
「それ、きえた?」
「らしいな」
リリアはそれきり黙った。
何か考えているようにも見えたが、うまく言葉にできないのかもしれない。
しばらくして、ミレナがぽつりと言う。
「たぶん、もうこの子のまわりだけの話じゃない」
火がぱち、と鳴る。
エドは薪を動かしながら聞いた。
「どういう意味だ」
「わからない。でも、似すぎてる」
ミレナは眉を寄せた。
「物が消える。音が消える。記憶が抜ける。今日聞いた噂、全部この子の近くで起きたことと形が似てる」
「偶然かもしれない」
「そう思いたいけど」
そう言って、ミレナは少し視線を落とした。
「……あの学者も、そこを追ってるんでしょ」
ユリウスの顔が浮かぶ。
冷たい目で“現象と一致している”と言った男。
エドは小さく息を吐いた。
「あいつが正しい顔してるのが気に入らない」
「わかる」
「でも、全部間違ってるとも言い切れない」
「それもわかる」
それがいちばん面倒だった。
正しいことを言っているように見える相手ほど、リリアを“何か”として扱う。
そして実際、今起きていることは、普通の子どもひとりの範囲をもう越え始めている。
そのときだった。
丘の下から、馬の足音が聞こえてきた。
三人が同時に顔を上げる。
日が落ちきる前の道を、二頭立ての小さな伝令馬車が走っていく。祠のある丘のそばを通っただけで止まりはしなかったが、御者席の男の声が風に乗って届いた。
「西の街道も封鎖だとよ!」
「また消失だってさ!」
「今度は橋の一部が――」
最後までは聞き取れなかった。
だが“消失”と“橋”という言葉だけで十分だった。
ミレナが低く舌打ちする。
「……広がってる」
エドも黙ったまま、去っていく馬車を見た。
西でも。村でも。橋でも――場所を選んでない
各地で同じようなことが起きているなら、もう“この子をどう隠すか”だけでは済まない。
リリアが不安そうにエドを見上げる。
「おとうさん」
「ん?」
「また、きえてるの?」
エドは少しだけ迷ったが、誤魔化しても仕方がないと思った。
「そうらしい」
「……わたしのせい?」
やっぱりそこへ行くのか、とエドは思う。
「違う」
すぐに答える。
「でも、にてる」
「似てる。でも、同じじゃない」
リリアは毛布を握りしめた。
「ほんと?」
「ほんとだ」
エドは言う。
「お前がここにいるのに、遠くの橋まで消すわけないだろ」
それは理屈としてどこまで通るかわからなかった。
けれど、少なくとも今この子に言うべきなのはそっちだった。
リリアは少しだけ考えてから、小さくうなずく。
「……そっか」
その声はまだ不安そうだったが、さっきよりはましだった。
火が安定してくると、夜の冷えが強くなった。
エドは毛布をもう一枚リリアの肩にかける。
「寒いか」
「ちょっとだけ」
「こっち来い」
そう言うと、リリアは素直にエドの隣へ寄った。肩が触れるくらい近くに座る。
最近は、これくらい近くないと落ち着かないらしい。
ミレナがその様子を見て、ふっと息をついた。
「ねえ、エド」
「なんだ」
「もし本当に、各地の異常とこの子がつながってたらどうするの」
焚き火の音だけが少し続いた。
エドはすぐには答えない。
答えられない、というほうが近かった。
「知らん」
ようやく出たのは、それだけだった。
「知らんけど」
火を見たまま続ける。
「それでもまず最初に考えるのは、この子が怯えないようにすることだと思う」
ミレナは苦い顔をした。
「そこは一切ぶれないのね」
「他にできることがない」
「あるかもしれないでしょ」
「あったら考える」
ずいぶん投げやりにも聞こえる言い方だった。
けれどエドにとっては本音だった。
世界がどうとか、現象がどうとか、正直まだ遠い。
目の前で肩を寄せて座っている小さい子どもが、不安そうにこちらを見ている。今はそれが全部だった。
「おとうさん」
リリアが小さく呼ぶ。
「ん?」
「いま、えらい?」
「なんでだ」
「ちゃんと、ないてない」
エドは少し笑った。
「えらいよ」
すぐに答える。
「ちゃんと怖いの我慢してる」
「……うん」
「それに、今はちゃんと座ってる」
「それも、えらい?」
「かなりえらい」
リリアは少しだけ安心したように、エドの腕に頭を預けた。
そのまま、しばらく三人とも黙る。
夜の風。草の匂い。火のはぜる音。
静かな時間だった。けれど、その静けさの向こうに、見えないひびが広がっている気配だけは消えない。
その頃。
西の街道近くの小村では、本当に橋の一部が消えていた。
川にかかる石橋の中央だけが、綺麗に欠け落ちたように空白になっている。崩れたのではない。砕けてもいない。ただ“そこだけない”。
村人たちは橋の手前で立ち尽くし、誰も近づけずにいた。
「昨日まではあった」
「いや、待て、本当に昨日か?」
「渡ったはずだろ」
「誰が?」
「……誰が、だ?」
会話は途中で曖昧になり、互いの顔を見合うばかりになる。
少し離れた場所で、その様子を見ている男がいた。
灰色の外套。丸眼鏡。手には手帳。
ユリウスだった。
彼は欠けた橋を見て、次に空を見た。
まるで何かの方向を確かめるみたいに。
「発生域、拡大」
小さく呟き、手帳に書きつける。
「同期性あり。感情波形の遠隔反応……あるいは」
そこで言葉を止めた。
思考の先を、まだ断定はしない。
だが仮説は確実に形を持ち始めている。
ユリウスは手帳を閉じ、低く呟いた。
「もう局地現象ではない」
その声を聞く者は、誰もいなかった。
夜、丘の祠のそばでは、リリアが眠り始めていた。
エドの袖を握ったまま、浅い呼吸で目を閉じる。
「……ちゃんと、いる?」
眠る前の最後の確認みたいに、かすかに呟く。
「いるよ」
エドは短く答えた。
「ここにいる」
それでようやく、リリアの指から力が抜ける。
ミレナは火の向こうから、そのやり取りを見ていた。
各地で異常が起きている。橋が消え、井戸が消え、記憶が抜ける。もしその中心に、この小さな娘がいるのだとしたら――
それでもこの男は、きっと同じ声で「いるよ」と答えるのだろう。
優しいのか。
愚かなのか。
その境目は、もうミレナにもよくわからなかった。
ただひとつだけ確かなのは、世界のほうが、先に壊れ始めている。
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