第12話 正体の断片
翌朝、丘の祠を出るころには、空が妙に白かった。
曇りというほどでもない。晴れているのに、どこか薄い膜が空一面に張っているみたいな色だ。
風は弱く、鳥の声も少ない。
「へんなそら」
リリアがエドの手を握ったまま言った。
「そうだな」
「ないてるみたい」
昨日の“泣き声みたいな音”と同じ言い方だった。
エドは空を見上げたが、何もわからない。
ミレナも空を見てから、小さく息を吐く。
「嫌な感じはする」
「便利な言い方だな」
「嫌なものはだいたい嫌な感じがするのよ」
その返事に、リリアが少しだけ笑った。
笑えているうちは、まだましだ。
三人は街道を外れたまま、南へ向かっていた。町や村に近づくのは危ない。けれど、完全に人の気配がない場所ばかり歩くのも限界がある。食べ物も水も必要だし、何よりリリアの体力がもたない。
昼前、小さな廃屋の残る野原に出た。
昔は農家だったのだろう。石垣が半分崩れ、壁だけ残った小屋がひとつある。井戸は埋まり、畑は草に飲まれていた。
休むには悪くない。
「ここ、おうち?」
「今日はな」
「また、きょうだけ」
「最近そればっかりだな」
「でも、ちゃんといる?」
「いるよ」
「よかった」
リリアはそれで安心したように、崩れた石垣に腰を下ろした。
エドは周囲を見回し、ミレナは小屋の中を確かめに行く。
そのときだった。
「やはり、ここにいましたか」
聞き覚えのある声に、エドは反射的に振り返った。
草の向こうに立っていたのは、灰色の外套に丸眼鏡の男――ユリウスだった。手には例の分厚い手帳と、革筒に入った巻物を抱えている。
「またお前か」
エドが低く言う。
「観測の続きです」
「断ったはずだ」
「承知しています。ですから今日は、説明をしに来ました」
ミレナが小屋の入口から出てきて、露骨に嫌そうな顔をした。
「帰ってくれない?」
「帰ってもいいですが、その前にひとつだけ確認したい」
ユリウスの視線がリリアに向く。
リリアはすぐエドの後ろへ寄った。
「おとうさん」
「大丈夫だ」
そう言いながらも、エドの表情は硬い。
「何を確認する」
「世界規模で起きている現象と、娘さんの反応の一致率です」
相変わらず言い方が最悪だった。
ミレナがすぐ口を挟む。
「人を記録表みたいに扱うなって言ったはずだけど」
「扱っていません。事象として見ているだけです」
「それが嫌だって言ってるの」
ユリウスは少しだけ黙り、それから巻物を広げた。
古い地図だった。いくつもの赤い印がついている。
「この十日で確認された消失現象です。井戸、橋、納屋、街道沿いの休憩所、会話の欠落、記憶の空白。場所は離れているのに、起き方が似すぎている」
エドは地図を睨んだ。
「それがどうした」
「ここ数日は特に頻度が上がっている。そして、あなたたちが移動した方角と、発生域の偏りが一致している」
「偶然だ」
「そう思いたいのは理解します」
理解していない顔で、ユリウスは言う。
「ですが、もう局地的な偶然では片づけられない」
リリアがエドの服を掴む力を強めた。
「おとうさん」
「聞かなくていい」
エドは短く言う。
だがユリウスは止まらない。
「私は最初、娘さんを“異常の引き金”だと考えていました」
「最初?」
「ええ。ですが、それでは説明が足りない」
ユリウスは地図を指先でなぞる。
「消えているのは、無秩序なようでいて、どこか“綻び”だけなんです」
「綻び?」
ミレナが眉をひそめる。
「壊れかけた井戸。古い橋。記憶の曖昧な部分。境界の不安定なもの。完全なものではなく、ほころびた箇所から先に欠ける」
エドは黙ったまま聞いていた。
「つまり、単なる破壊ではない」
ユリウスははっきり言う。
「むしろ逆です。無理やり均そうとしている」
「……何を」
「世界の“歪み”を」
風が止まったように感じた。
ミレナが露骨に顔をしかめる。
「話が飛びすぎ」
「飛んでいません。各地の記録を追えば、そうとしか思えない」
ユリウスはリリアを見た。
「この子は、世界に生じた綻びに反応している。あるいは」
そこで少しだけ声を落とす。
「その綻びを埋めようとしている」
エドの目が細くなる。
「何が言いたい」
ユリウスは、一度だけ言葉を選ぶように間を置いた。
「仮説です。まだ断定ではない」
「前置きはいい」
「……娘さんは、“壊れた部分だけを消して整える側”に近い」
リリアがぴくりと震えた。
ミレナが即座に言い返す。
「ふざけないで」
「ふざけてはいません」
「子どもひとり捕まえて、世界がどうとか、修復機構がどうとか」
「捕まえてはいない。ただ、現象がそう示している」
ミレナが一歩前へ出る。
だがそれより先に、エドが口を開いた。
「違う」
声は低かったが、妙にはっきりしていた。
ユリウスが視線を向ける。
「何がです?」
「全部だ」
エドは振り返り、リリアの頭に手を置いた。
「この子はそんなものじゃない」
「あなたにとっては娘でしょう。しかし――」
「俺にとって“だけ”じゃない」
エドははっきり言う。
「怖がりで、すぐ不安になって、褒めると安心して、離れると泣きそうになる。ただの子どもだ」
「ただの子どもが、あんな現象を起こしますか」
「起こしてるから困ってるんだろ」
ユリウスが言葉を詰まらせる。
エドは続けた。
「お前の言い方は全部逆だ。現象があるからこの子が何かになるんじゃない。この子がそこにいて、怖がってるから、俺はまずそっちを見る」
ミレナが横で小さく息をついた。
たぶん、その言い分は嫌いじゃないのだろう。
ユリウスは少しだけ目を伏せた。
「感情としては理解します」
「理解してるなら、その口で“機構”とか言うな」
「ですが事実は――」
「事実でも言うな」
そこで初めて、ユリウスが完全に黙った。
風が草を揺らす。
リリアはエドの後ろで、小さく震えていた。
「おとうさん」
「ん?」
「しゅうふく、ってなに」
聞いてしまったか、とエドは思う。
少し迷ってから、できるだけ簡単に言う。
「壊れたものを直すことだ」
リリアは少しだけ考える。
「わたし、なおすの?」
「違う」
エドは即答した。
「お前はお前だ」
その言葉に、リリアの指先の力が少しだけ緩む。
「……ほんと?」
「ほんとだ」
ユリウスがそれを見て、ひどく小さく呟いた。
「安定化が早すぎる……」
ミレナが睨む。
「今それ言う?」
「失礼」
まったく失礼と思っていない顔だった。
ユリウスは地図を丸め、手帳を閉じた。
「ひとつだけ忠告します」
「いらん」
「必要です」
その言い方に、エドは露骨に嫌そうな顔をした。
「現象の規模は拡大しています。娘さんが原因かどうかはさておき、中心に近いのは間違いない。近いうちに、学術院だけではなく、もっと大きな組織が動く」
「大きな組織?」
ミレナが聞き返す。
「教会、王都の観測局、あるいは軍」
最悪の並びだった。
「……なんでそうなるの」
ミレナの声が冷える。
「“世界規模の異常”だからです。地方の噂なら放置されても、街道や橋が消え始めれば、そうはいかない」
エドは何も言わなかった。
言い返したいことはいくらでもある。
だが、それがただの脅しではないこともわかってしまった。
リリアはエドの袖をぎゅっと握り、かすれた声で聞く。
「また、とられる?」
その一言で、空気がわずかに緊張する。
エドはすぐ振り返った。
「取られない」
短く言う。
「お前はここにいる」
「でも……」
「大丈夫だ」
リリアの目が揺れる。
それでもさっきほどではない。エドの声が先に届いている。
ユリウスはそのやり取りを見てから、最後にひとつだけ言った。
「否定するのは自由です」
エドが睨む。
「ですが、あなたがどう呼ぼうと、世界はもうこの子を放っておきません」
それだけ言い残し、ユリウスは踵を返した。
草を分けて去っていく背中は、相変わらず迷いがない。
嫌な男だった。だが、嫌なだけでは済まない重さも残していく。
しばらく誰も喋らなかった。
最初に口を開いたのは、ミレナだった。
「……信じるの?」
「信じない」
エドは即答した。
「全部はな」
「全部“は”?」
「異常が広がってるのは本当だろ」
「そっちはね」
ミレナは腕を組んで、空を見上げた。
「でも、世界の修復機構はないわ。そんな話、気持ち悪い」
「同感だ」
リリアが不安そうにエドを見上げる。
「おとうさん」
「ん?」
「わたし、へんなの?」
その問いに、エドは少しも迷わなかった。
「変じゃない」
「でも、みんな……」
「みんなは知らないだけだ」
しゃがんで、目線を合わせる。
「お前は俺の娘だよ」
リリアの目が少しだけ潤む。
「……いいこ?」
「そうだ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
それでようやく、娘は少しだけ息をついた。
ミレナはその様子を見てから、小さく言う。
「……たぶん、もう時間がないわね」
エドは立ち上がる。
「わかってる」
「次の町に入るのは危険」
「ああ」
「でも、逃げ続けるだけでも限界がある」
「それもわかってる」
問題は、わかっていることが増えるほど、答えがなくなることだった。
風がまた草を揺らす。
白い空は、朝よりさらに薄く見えた。
そのとき、遠くの空で、何かがひび割れるみたいな音がした。
三人が同時に顔を上げる。
雲ひとつない空の端に、ほんの一瞬だけ、細い黒い筋が走った。
まるで空そのものに爪で傷をつけたみたいに。
次の瞬間には消えていた。
だが、見間違いではない。
ミレナが顔を引きつらせる。
「……今の、見た?」
「見た」
エドも低く答える。
リリアだけが、小さく震えながら空を見ていた。
「……ないてる」
その声は、ひどく怯えていた。
エドはすぐに娘を抱き寄せる。
「大丈夫だ」
言いながら、自分でもわかっていた。
“大丈夫”が、もう少し遅い
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
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