表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能な父ですが、世界が壊れても娘だけは手放しません  作者: そらのことのは


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/7

第5話 奪われる恐怖

 宿へ戻るころには、町の空気が少し変わっていた。


 通りを歩く人の数は変わらない。パン屋は客を呼び、荷車は石畳を軋ませて進んでいる。見た目はいつも通りだ。

 けれど、ときどき向けられる視線が妙だった。


 見て、すぐ逸らす。

 気づかれないように、でも確かめるように。


 エドは気づかないふりをした。

 水路沿いでのことを、誰かが見ていたのかもしれない。あるいは、ミレナがどこかに話したのかもしれない。どちらでも大差はなかった。


「おとうさん」


「ん?」


「また、みられてる」


 リリアが服の裾を握ったまま、小さく言う。


「ああ」


「わるいこと、した?」


「してない」


 即答すると、リリアは少しだけ黙った。


「……ほんと?」


「ほんとだ」


 それでも不安は消えないらしく、握る力だけは強いままだった。


 宿の前まで戻ると、扉の脇に二人の衛兵が立っていた。見張りというより、待っていたのだろう。ひとりは年嵩の男、もうひとりは若い女だ。二人とも槍を持っているが、露骨に構えてはいない。


 その隣には、灰色の法衣を着た女がいた。教会の人間らしい。柔らかい顔をしているが、目だけは妙に冷静だった。


 嫌な予感がする。


 宿の女将は入口の内側で困った顔をしていた。エドと目が合うと、申し訳なさそうに視線を伏せる。


「あなたがエドさんですね」


 法衣の女が一歩前へ出た。


「少し、お話を」


「断ると言ったら?」


「できれば穏便に済ませたいんです」


 穏便、という言葉を使う時点で、たいてい穏便では終わらない。


 エドはリリアを背に寄せた。


「何の話だ」


「娘さんのことです」


 予想通りだった。


「町で少し騒ぎがあったと聞きました。人混みで具合を悪くされたとか」


「それだけなら、よくある話だろ」


「ええ。でも、少し珍しい“起き方”だったそうで」


 法衣の女はそこで言葉を切り、リリアを見る。

 その視線に、娘の肩がぴくりと揺れた。


「この子は疲れてる。話なら俺にしろ」


「もちろんです。ただ――」


 女は穏やかな声のまま言った。


「お子さんだけでも、いったん教会でお預かりしたほうがいいかもしれません」


 その一言で、リリアの指先に力が入った。


 エドの顔から表情が消える。


「……なんだって?」


「怯えが強いようですし、落ち着ける場所で休ませるべきです。親御さんも、ひどくお疲れのようですから」


「つまり、俺から離すってことか」


「保護です」


 法衣の女は言った。


「誤解しないでください。傷つけるつもりはありません」


 その横で、年嵩の衛兵が口を開く。


「昨日から目立ってるんだ。子どもが不安定なら、親元から少し離したほうがいいこともある」


「余計なお世話だ」


 エドが言うと、若い女衛兵が少しだけ眉をひそめた。


「あなたが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、このまま何か起きてからじゃ遅いの」


「何か、ね」


 それを決めるのはお前たちか、と言いかけて、やめた。


 リリアが、もうかなり限界に近い。

 知らない大人が三人。全員が自分を見ている。そして“連れていく”という話をしている。これ以上長引かせるのはまずい。


「帰ってくれ」


 エドは短く言った。


「この子はどこにも行かない」


「エドさん」


 法衣の女がまだ穏やかな声で言う。


「お子さんのためでもあるんです」


「違うな」


「……何がです?」


「この子のためじゃない。お前たちが安心したいだけだ」


 その言葉に、衛兵たちの空気が少しだけ硬くなった。


 法衣の女も、一瞬だけ目を細める。


「それでも必要なことはあります」


 そう言って、彼女はリリアのほうへ手を伸ばした。


「大丈夫。少しだけ――」


「やだ」


 リリアが、はっきり言った。


 小さな声だった。

 けれど、その場にいた全員が聞いた。


 法衣の女の手が止まる。


「おとうさんといる」


 今度はもう少し大きい声だった。


 エドの服を握る手が震えている。

 目も揺れている。泣く寸前だ。


「リリア」


 エドは振り返らずに呼んだ。


「大丈夫だ」


「やだ……」


「うん」


「やだ……っ」


 法衣の女がなおも一歩前へ出た。


「怖がらせるつもりはありません。ただ少し――」


 若い女衛兵も、子どもをなだめる時みたいな顔を作る。


「すぐ終わるから」


 その“すぐ”が、リリアにはいちばん駄目だったのだろう。


 空気が、変わった。


 宿の前の通りのざわめきが、すっと遠のく。

 馬車の車輪の音が消える。風に揺れていた看板の軋みも消える。誰かが落とした金貨の音だけが、鳴る前に吸い込まれたみたいに消えた。


 宿の女将が息を呑む。


「な、に……」


 年嵩の衛兵が槍を握り直した。だがその動作すら、どこか水の底みたいに遅く見える。


 音だけではない。

 宿の入口に吊るされた木札の輪郭が、わずかにぶれる。石畳の上の影が薄くなり、法衣の女の袖口が、端から少しだけ滲んだ。


 エドは舌打ちしたいのをこらえた。


 ここまで早いのはまずい。


「リリア」


 すぐに振り返り、娘の肩を抱く。

 リリアは真っ青だった。呼吸が浅く、目が合っていない。


「見て」


 エドはしゃがみこみ、顔を近づける。


「俺だ」


「おとう、さん……」


「大丈夫」


 周囲の空気がさらに冷える。

 若い衛兵が何か言おうとして、声にならない。法衣の女の顔からも余裕が消えていた。


 リリアの唇が震える。


「とられ、る……」


「取られない」


 エドはきっぱり言った。


「お前はここにいる」


「でも……」


「大丈夫だ」


 それでも止まらない。


 音の消失が、じわじわ広がっていく。

 通りの向こうにいた馬が不安そうに首を振るのが見えた。宿の看板の文字が、ぼやけて読めなくなりかけている。


 このままでは、まずい。


 エドは娘の両頬を手で包んだ。


「リリア」


 揺れる目を、まっすぐ見返す。


「いい子だ」


 その一言で、リリアの目が止まった。


「……え……」


「いい子だよ」


 エドは、できるだけいつもの声で言う。


「ちゃんと怖いって言えた。ちゃんと俺のところにいた」


 リリアの瞳に、少しずつ焦点が戻ってくる。


「おとう、さん……」


「うん」


「……いいこ?」


「そうだ」


 音の消えた世界の中で、その言葉だけがはっきり届いた。


「すごくいい子だ」


 数秒。

 たったそれだけで、止まりかけていた世界が、ゆっくり動き始める。


 風の音が戻る。

 馬車の軋みが戻る。

 通りの喧騒が、遠くから少しずつ帰ってくる。


 ぶれていた看板も、滲んでいた袖口も、何事もなかったように元へ戻った。

 ――戻りきったのかは、誰にもわからなかった。


 誰も、すぐには動けなかった。


 法衣の女が最初に息をした。

 それから一歩、二歩と後ずさる。


「……いまの、は」


 だが最後まで言えない。


 年嵩の衛兵の顔は青ざめていた。若い女衛兵も槍を持ったまま硬直している。宿の女将に至っては、扉を握ったまま膝が笑っていた。


 そこへ、通りの向こうから聞き覚えのある声がした。


「遅かったか」


 ミレナだった。


 人混みを抜けてきたらしく、少しだけ息が上がっている。だが目は状況を見た瞬間に全部理解したようだった。


「……やっぱり来たのね」


 若い女衛兵がかすれた声で言う。


「止めるつもりで来た」


 ミレナは短く返し、エドたちと衛兵たちの間に立った。


「これ以上この子を刺激するなら、町のほうがもたない」


 法衣の女がミレナを見る。


「あなた、知っていたのですか」


「少なくとも、さっきまでのあんたたちよりは」


 ミレナの言葉は冷たかった。


 誰も反論できない。


 リリアはまだエドの服を掴んだままだったが、さっきほどではない。呼吸も少しずつ落ち着いてきている。

 エドはその頭を撫でながら、衛兵たちを見た。


「もう帰れ」


 低い声で言う。


「次は止まる保証がない」

 ――俺にもな。


 脅しではなかった。

 だからこそ、重かった。


 法衣の女はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。


「……失礼しました」


 そう言って引いた。

 衛兵たちも、それ以上は何も言わずに後ろへ下がる。


 完全に恐怖した目だった。


 彼らが去ったあとも、しばらく誰も話さなかった。


 最初に口を開いたのは、宿の女将だった。


「ご、ごめんよ……うちは、もう……」


「わかってる」


 エドはそれだけで十分だった。


 女将も悪いわけではない。むしろ、よくここまで置いてくれたほうだ。


 ミレナが横目でエドを見る。


「町を出る?」


「そうなるな」


「たぶん、もう噂が広がる」


「だろうな」


 リリアが服を掴んだまま、小さく聞いた。


「また、おいだされる?」


 エドは少しだけ笑った。


「追い出される前に出る」


「それ、おなじ?」


「少し違う」


 リリアは少し考えてから、「そっか」と呟いた。


 そのやり取りを見て、ミレナは何とも言えない顔をする。

 あんなものを見せられたあとで、まだ普通の親子みたいに話している。それがいちばん異様だったのかもしれない。


 荷物は少ない。まとめるのに時間はかからなかった。


 宿の前を離れるとき、エドは一度だけ振り返る。

 小さな町だ。半日いただけなのに、また居場所を失った。


 だが、仕方ない。


「行くか、リリア」


「うん」


 エドが歩き出すと、ミレナも少し遅れてついてきた。


「ついてくるのか」


「途中まで」


「面倒見がいいな」


「違う」


 ミレナは少し間を置いてから言った。


「見届けないと、たぶん眠れない」

 ――放っておける気がしない。


 その答えに、エドは何も返さなかった。


 町の門へ向かう道の途中、通りの端に立つひとりの男がいた。古びた外套を羽織り、丸眼鏡をかけている。学者じみた細い顔だった。瞬きの少ない目をしていた。


 男は去っていく親子を見ていた。

 さっき宿の前で起きたことを、最初から最後まで見ていた者の目で。


 その目だけが、まばたきを忘れていた。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

面白いと感じていただけましたら、リアクションや評価、

ブックマークで応援していただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ