第5話 奪われる恐怖
宿へ戻るころには、町の空気が少し変わっていた。
通りを歩く人の数は変わらない。パン屋は客を呼び、荷車は石畳を軋ませて進んでいる。見た目はいつも通りだ。
けれど、ときどき向けられる視線が妙だった。
見て、すぐ逸らす。
気づかれないように、でも確かめるように。
エドは気づかないふりをした。
水路沿いでのことを、誰かが見ていたのかもしれない。あるいは、ミレナがどこかに話したのかもしれない。どちらでも大差はなかった。
「おとうさん」
「ん?」
「また、みられてる」
リリアが服の裾を握ったまま、小さく言う。
「ああ」
「わるいこと、した?」
「してない」
即答すると、リリアは少しだけ黙った。
「……ほんと?」
「ほんとだ」
それでも不安は消えないらしく、握る力だけは強いままだった。
宿の前まで戻ると、扉の脇に二人の衛兵が立っていた。見張りというより、待っていたのだろう。ひとりは年嵩の男、もうひとりは若い女だ。二人とも槍を持っているが、露骨に構えてはいない。
その隣には、灰色の法衣を着た女がいた。教会の人間らしい。柔らかい顔をしているが、目だけは妙に冷静だった。
嫌な予感がする。
宿の女将は入口の内側で困った顔をしていた。エドと目が合うと、申し訳なさそうに視線を伏せる。
「あなたがエドさんですね」
法衣の女が一歩前へ出た。
「少し、お話を」
「断ると言ったら?」
「できれば穏便に済ませたいんです」
穏便、という言葉を使う時点で、たいてい穏便では終わらない。
エドはリリアを背に寄せた。
「何の話だ」
「娘さんのことです」
予想通りだった。
「町で少し騒ぎがあったと聞きました。人混みで具合を悪くされたとか」
「それだけなら、よくある話だろ」
「ええ。でも、少し珍しい“起き方”だったそうで」
法衣の女はそこで言葉を切り、リリアを見る。
その視線に、娘の肩がぴくりと揺れた。
「この子は疲れてる。話なら俺にしろ」
「もちろんです。ただ――」
女は穏やかな声のまま言った。
「お子さんだけでも、いったん教会でお預かりしたほうがいいかもしれません」
その一言で、リリアの指先に力が入った。
エドの顔から表情が消える。
「……なんだって?」
「怯えが強いようですし、落ち着ける場所で休ませるべきです。親御さんも、ひどくお疲れのようですから」
「つまり、俺から離すってことか」
「保護です」
法衣の女は言った。
「誤解しないでください。傷つけるつもりはありません」
その横で、年嵩の衛兵が口を開く。
「昨日から目立ってるんだ。子どもが不安定なら、親元から少し離したほうがいいこともある」
「余計なお世話だ」
エドが言うと、若い女衛兵が少しだけ眉をひそめた。
「あなたが悪いと言ってるわけじゃない。ただ、このまま何か起きてからじゃ遅いの」
「何か、ね」
それを決めるのはお前たちか、と言いかけて、やめた。
リリアが、もうかなり限界に近い。
知らない大人が三人。全員が自分を見ている。そして“連れていく”という話をしている。これ以上長引かせるのはまずい。
「帰ってくれ」
エドは短く言った。
「この子はどこにも行かない」
「エドさん」
法衣の女がまだ穏やかな声で言う。
「お子さんのためでもあるんです」
「違うな」
「……何がです?」
「この子のためじゃない。お前たちが安心したいだけだ」
その言葉に、衛兵たちの空気が少しだけ硬くなった。
法衣の女も、一瞬だけ目を細める。
「それでも必要なことはあります」
そう言って、彼女はリリアのほうへ手を伸ばした。
「大丈夫。少しだけ――」
「やだ」
リリアが、はっきり言った。
小さな声だった。
けれど、その場にいた全員が聞いた。
法衣の女の手が止まる。
「おとうさんといる」
今度はもう少し大きい声だった。
エドの服を握る手が震えている。
目も揺れている。泣く寸前だ。
「リリア」
エドは振り返らずに呼んだ。
「大丈夫だ」
「やだ……」
「うん」
「やだ……っ」
法衣の女がなおも一歩前へ出た。
「怖がらせるつもりはありません。ただ少し――」
若い女衛兵も、子どもをなだめる時みたいな顔を作る。
「すぐ終わるから」
その“すぐ”が、リリアにはいちばん駄目だったのだろう。
空気が、変わった。
宿の前の通りのざわめきが、すっと遠のく。
馬車の車輪の音が消える。風に揺れていた看板の軋みも消える。誰かが落とした金貨の音だけが、鳴る前に吸い込まれたみたいに消えた。
宿の女将が息を呑む。
「な、に……」
年嵩の衛兵が槍を握り直した。だがその動作すら、どこか水の底みたいに遅く見える。
音だけではない。
宿の入口に吊るされた木札の輪郭が、わずかにぶれる。石畳の上の影が薄くなり、法衣の女の袖口が、端から少しだけ滲んだ。
エドは舌打ちしたいのをこらえた。
ここまで早いのはまずい。
「リリア」
すぐに振り返り、娘の肩を抱く。
リリアは真っ青だった。呼吸が浅く、目が合っていない。
「見て」
エドはしゃがみこみ、顔を近づける。
「俺だ」
「おとう、さん……」
「大丈夫」
周囲の空気がさらに冷える。
若い衛兵が何か言おうとして、声にならない。法衣の女の顔からも余裕が消えていた。
リリアの唇が震える。
「とられ、る……」
「取られない」
エドはきっぱり言った。
「お前はここにいる」
「でも……」
「大丈夫だ」
それでも止まらない。
音の消失が、じわじわ広がっていく。
通りの向こうにいた馬が不安そうに首を振るのが見えた。宿の看板の文字が、ぼやけて読めなくなりかけている。
このままでは、まずい。
エドは娘の両頬を手で包んだ。
「リリア」
揺れる目を、まっすぐ見返す。
「いい子だ」
その一言で、リリアの目が止まった。
「……え……」
「いい子だよ」
エドは、できるだけいつもの声で言う。
「ちゃんと怖いって言えた。ちゃんと俺のところにいた」
リリアの瞳に、少しずつ焦点が戻ってくる。
「おとう、さん……」
「うん」
「……いいこ?」
「そうだ」
音の消えた世界の中で、その言葉だけがはっきり届いた。
「すごくいい子だ」
数秒。
たったそれだけで、止まりかけていた世界が、ゆっくり動き始める。
風の音が戻る。
馬車の軋みが戻る。
通りの喧騒が、遠くから少しずつ帰ってくる。
ぶれていた看板も、滲んでいた袖口も、何事もなかったように元へ戻った。
――戻りきったのかは、誰にもわからなかった。
誰も、すぐには動けなかった。
法衣の女が最初に息をした。
それから一歩、二歩と後ずさる。
「……いまの、は」
だが最後まで言えない。
年嵩の衛兵の顔は青ざめていた。若い女衛兵も槍を持ったまま硬直している。宿の女将に至っては、扉を握ったまま膝が笑っていた。
そこへ、通りの向こうから聞き覚えのある声がした。
「遅かったか」
ミレナだった。
人混みを抜けてきたらしく、少しだけ息が上がっている。だが目は状況を見た瞬間に全部理解したようだった。
「……やっぱり来たのね」
若い女衛兵がかすれた声で言う。
「止めるつもりで来た」
ミレナは短く返し、エドたちと衛兵たちの間に立った。
「これ以上この子を刺激するなら、町のほうがもたない」
法衣の女がミレナを見る。
「あなた、知っていたのですか」
「少なくとも、さっきまでのあんたたちよりは」
ミレナの言葉は冷たかった。
誰も反論できない。
リリアはまだエドの服を掴んだままだったが、さっきほどではない。呼吸も少しずつ落ち着いてきている。
エドはその頭を撫でながら、衛兵たちを見た。
「もう帰れ」
低い声で言う。
「次は止まる保証がない」
――俺にもな。
脅しではなかった。
だからこそ、重かった。
法衣の女はしばらく黙っていたが、やがて小さくうなずいた。
「……失礼しました」
そう言って引いた。
衛兵たちも、それ以上は何も言わずに後ろへ下がる。
完全に恐怖した目だった。
彼らが去ったあとも、しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは、宿の女将だった。
「ご、ごめんよ……うちは、もう……」
「わかってる」
エドはそれだけで十分だった。
女将も悪いわけではない。むしろ、よくここまで置いてくれたほうだ。
ミレナが横目でエドを見る。
「町を出る?」
「そうなるな」
「たぶん、もう噂が広がる」
「だろうな」
リリアが服を掴んだまま、小さく聞いた。
「また、おいだされる?」
エドは少しだけ笑った。
「追い出される前に出る」
「それ、おなじ?」
「少し違う」
リリアは少し考えてから、「そっか」と呟いた。
そのやり取りを見て、ミレナは何とも言えない顔をする。
あんなものを見せられたあとで、まだ普通の親子みたいに話している。それがいちばん異様だったのかもしれない。
荷物は少ない。まとめるのに時間はかからなかった。
宿の前を離れるとき、エドは一度だけ振り返る。
小さな町だ。半日いただけなのに、また居場所を失った。
だが、仕方ない。
「行くか、リリア」
「うん」
エドが歩き出すと、ミレナも少し遅れてついてきた。
「ついてくるのか」
「途中まで」
「面倒見がいいな」
「違う」
ミレナは少し間を置いてから言った。
「見届けないと、たぶん眠れない」
――放っておける気がしない。
その答えに、エドは何も返さなかった。
町の門へ向かう道の途中、通りの端に立つひとりの男がいた。古びた外套を羽織り、丸眼鏡をかけている。学者じみた細い顔だった。瞬きの少ない目をしていた。
男は去っていく親子を見ていた。
さっき宿の前で起きたことを、最初から最後まで見ていた者の目で。
その目だけが、まばたきを忘れていた。
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