第4話 追跡者
町で一番安い宿は、安いなりの部屋だった。
狭い。壁は薄い。窓も小さい。だが、屋根があって、扉に鍵がかかる。それだけで十分だった。昨夜の見張り小屋よりは、ずっとましだ。
リリアは寝台の端にちょこんと座り、毛布を膝に抱えていた。
「ここ、きょうのおうち?」
「今日と、できれば明日の朝までだな」
「ちゃんと、かべある」
「あるな」
「やねもある」
「すごいだろ」
そう言うと、リリアは少しだけ笑った。
その顔を見て、エドはようやく息をつく。町に入ってから何度か危ない場面はあったが、とりあえず今は落ち着いている。パンも食べた。水もある。眠る場所もある。今日はそれで充分だ。
リリアは毛布を握りしめたまま、上目遣いに聞いてきた。
「おとうさんも、ここいる?」
「いるよ」
「ずっと?」
「寝るまでいる」
「ねたあとも?」
「起きたらまだいる」
それで安心したのか、リリアはこくりとうなずいた。
夜は静かに過ぎた。
……いや、正確には、静かすぎた。
宿の廊下を誰かが歩く音。隣室の咳払い。階下で酒を飲む客の笑い声。そういう生活音の向こうに、もうひとつ、意識して隠している気配がある。
窓の外。通りの向こう。
ずっとではないが、ときどきこちらを窺う視線があった。
エドは気づかないふりをした。
ミレナだろう、と思う。
森で魔物が消えるところを見た。町でもリリアの異変を見た。あれで放っておくほど、鈍い人間には見えなかった。
翌朝、宿を出るときも、その気配はまだあった。
「おとうさん」
「ん?」
「また、ひといる」
リリアが小さく言った。
やはり気づいているらしい。
この子は怯えやすいが、そのぶん人の気配には敏感だ。
「見なくていい」
エドは短く言った。
「俺のそばにいろ」
「うん」
通りは朝の買い物客でほどほどに賑わっていた。昨日よりは落ち着いて見えるが、人が多いことに変わりはない。エドは人の少ない道を選びながら、保存食と水袋を買い足すことにした。
店先で干し肉の値段を見ていると、リリアが服を引っ張る。
「……あそこ」
視線の先、路地の入口に、革鎧の女が立っていた。外套を羽織り、腕を組んでいる。こちらを見ているが、隠す気もなさそうだった。
「やっぱり、あのひとか」
エドが呟くと、ミレナは観念したように肩をすくめて、通りのほうへ出てきた。
「気づいてたの」
「わりと最初からな」
「もっと気づかれない自信あったんだけど」
「気配を消すのが上手いやつは、わざわざ目立つ場所に立たない」
「それはそう」
ミレナは軽く言ったが、その目は笑っていなかった。
視線は何度もリリアへ向いている。
リリアはエドの後ろに半分隠れたまま、小さく言った。
「……おはよう」
ミレナは一瞬だけ目を丸くした。
「……おはよう」
返事はしたが、困った顔でもあった。普通の子どもに挨拶を返しているのか、それとも昨夜魔物を消した“何か”に言葉を返しているのか、自分でも整理できていないのだろう。
「何の用だ」
エドが聞くと、ミレナは少しだけ考えてから答えた。
「確認」
「何を」
「その子が本当に危ないのかどうか」
ずいぶん率直だった。
エドは眉をひそめる。
「危ないってのは、誰にとってだ」
「周りにとっても、その子自身にとっても」
ミレナの声は低い。
冗談ではないらしい。
「森で見た。町でも見た。あれが偶然じゃないなら、放っておけない」
「冒険者ってのは、そこまで世話焼きか」
「面倒ごとが大きくなる前に見極めたいだけ」
エドは少しだけ黙った。
ミレナの言い方は気に入らない。だが間違ってもいない。リリアの周りで起きる異常は、もう“気のせい”で片づけられる段階ではなかった。
ただ、それでも。
「見極めるも何も、この子は俺の娘だ」
エドがそう言うと、ミレナはまっすぐこちらを見た。
「……本気でそう思ってるのね」
「当たり前だ」
「昨日のあれを見ても?」
「見た上でだ」
ミレナは言葉を切った。
通りの向こうでは、パン屋が客を呼んでいる。行商人が荷を降ろしている。町はいつも通り動いているのに、この一角だけ妙に静かだった。
「少し、歩かない?」
ミレナが言った。
「人通りの少ないところで話したい」
断る理由もあったが、このまま通りの真ん中で話し込むのもまずい。エドは少し考え、うなずいた。
案内されたのは、町外れの水路沿いだった。洗濯場から少し離れた場所で、人通りは少ない。リリアもさっきよりは落ち着いていた。
ミレナは立ち止まり、振り返る。
「単刀直入に聞く。その子、何者?」
「娘だって言っただろ」
「そういう意味じゃない」
「俺にとってはそういう意味でしかない」
エドが答えると、ミレナは苛立ったように息を吐いた。
けれど怒鳴りはしなかった。
「……あんた、自分でおかしいと思わないの」
「思ってるよ」
即答すると、ミレナが少しだけ目を見開く。
「思ってる。でも、だから何だ」
「何だって……」
「怖がると何かが消える。人混みだと具合が悪くなる。周りの連中が怯えるのもわかる。全部、見てる」
エドはそこで一度、リリアを見た。
娘は水路のきらめきをぼんやり見ていたが、自分の名前が出ていないからか、まだ緊張はしていない。
「でも、それでこの子が別の何かになるわけじゃない」
エドは言った。
「怖がりで、すぐ不安になって、褒めると少し嬉しそうにする。そういう子だ」
ミレナは黙る。
「あんたは、あれを見て平気なの?」
「平気じゃない」
「じゃあどうして」
「平気じゃなくても、そばにいるしかないだろ」
その答えに、ミレナはしばらく何も言えなかった。
そのときだった。
水路沿いの向こうから、子どもがひとり走ってきた。五つか六つくらいの男の子だ。追いかけっこでもしていたのか、脇目も振らずに駆けてくる。
危ない、と思った時には遅かった。
子どもは足を滑らせ、そのままリリアにぶつかった。
「きゃっ」
リリアがよろめく。
男の子も驚いて尻餅をついた。だが、すぐに周囲の空気が変わる。
音が、引いた。
水の流れる音が薄くなる。遠くの話し声がぼやける。石畳の上の光が、陽炎みたいに揺れた。
ミレナの顔色が変わる。
「っ……!」
リリアは真っ青だった。呼吸が浅い。ぶつかっただけだ。怪我もない。だが、この子にとっては“不意に誰かが近づいた”だけで十分なのだ。
エドはすぐに娘の前にしゃがんだ。
「リリア」
小さな肩に手を置く。
「見て。俺だ」
「……おとうさん……」
「大丈夫」
空気の揺れが、少しずつ強くなる。水路の縁に置かれていた木桶の輪郭が、にじむように歪んだ。
だがエドは慌てない。
「怖かったな」
その一言で、リリアの目が揺れた。
「う、ん……」
「びっくりしただけだ。怒ってない」
「でも……」
「いい」
エドは静かに言う。
「俺だけ見てろ」
数秒。
それだけで十分だった。
歪みかけていた空気が、ゆっくり元に戻る。遠のいていた水音も、町のざわめきも帰ってくる。木桶も石畳も、何事もなかったようにそこにある。
――本当に“なかったこと”になったのかは、わからない。
ぶつかった男の子はきょとんとしていたが、遅れて母親らしい女が駆け寄ってきて、そのまま頭を下げて去っていった。異常に気づいていないのか、気づいても理解できなかったのかはわからない。
残されたのは、エドとリリアと、青ざめたミレナだけだった。
「……今の」
ミレナの声はひどく低かった。
「見ただろ」
エドは立ち上がる。
「だから言った。この子は不安になるとこうなる」
「こうなる、で済ませる話じゃない」
「済ませてない。でも、今は落ち着いた」
ミレナは言葉を失ったように、リリアを見つめていた。
リリアはまだ不安そうだったが、エドの服を掴んでどうにか立っている。涙はこらえていた。
「……えらかったよ」
エドがそう言うと、リリアは驚いたように顔を上げた。
「ちゃんと戻れた」
「ほんと……?」
「ほんとだ」
それだけで、少しだけ娘の肩から力が抜ける。
ミレナはそのやり取りを見ていた。
見れば見るほど、おかしかった。
こんなものは災厄だ。下手をすれば町ごと飲み込む。人の手に余る何かだ。
なのに、目の前の男は、熱を出した子どもでもあやすみたいに、当たり前の顔で頭を撫でている。
理解できない。
だが、ひとつだけ確かだった。
ミレナは、息を吸うのを一瞬忘れた。
「……あんた、いつか後悔するかもしれない」
「その時はその時だ」
――それしか、選べない。
「本気で言ってる?」
「本気だ」
エドは少しも揺れなかった。
「この子をひとりにする気はない」
水路の風が吹いた。
リリアの髪が揺れる。
ミレナはそれを見て、ようやく自分の結論を口の中で固めた。
これは普通の子どもじゃない。
――そう言い切るには、あまりにも普通に見えた。
理解できない。
だが、ひとつだけ確かだった。
ミレナはそれ以上何も言えず、ただ二人を見つめた。
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