第3話 普通じゃない日常
見張り小屋で一晩を明かした翌朝、エドとリリアは森を抜けた。
道は少しずつ広くなり、やがて馬車の轍が見えるようになる。人の往来がある証拠だった。さらに進むと、遠くに石壁と門が見えた。小さいが、ちゃんとした町だ。
「まち?」
リリアがエドの手を握ったまま見上げてくる。
「ああ。たぶんな」
「ひと、いる?」
「いるだろうな」
その答えに、リリアは少しだけ黙った。
人が多い場所は苦手だ。知らない声が重なると、この子はすぐに落ち着かなくなる。けれど、だからといって森の中だけで生きていけるわけでもない。食べ物もいるし、寝る場所もいる。何より、ずっと逃げるように歩かせるのは違うとエドは思っていた。
せめて少しは、普通に過ごさせたい。
「無理そうならすぐ出る」
エドが言うと、リリアはこくりとうなずいた。
「……うん」
町の門には、荷車を引いた商人や旅人が何人か並んでいた。朝だからだろう。人の数は多くない。今ならまだましだ。
エドはなるべく端に寄り、リリアを自分の影に入れるようにして列に並んだ。
前の商人が番兵に何か話している。門の向こうからは、人の声や荷の音が流れてきた。村とは違う、ざわついた生活の音だった。
リリアの指先に少し力が入る。
「だいじょうぶか」
「……だいじょうぶ」
声は小さい。
エドは下を向いたままの娘の頭を軽く撫でた。
「今日は買い物だけだ。すぐ終わる」
「かいもの」
「ああ。食べるものとか、水とか、できれば靴も見たい」
リリアは自分の足元を見た。村を出てからずっと歩いてきた靴は、もうかなり傷んでいる。
「くつ、いる?」
「たぶんな」
「たぶん」
「そこはいる」
そう言うと、リリアがほんの少しだけ笑った。
番が回ってきた。門番はエドたちを一瞥し、名前と行き先を聞いただけで通した。荷物も少ないし、親子連れにしか見えないのだろう。
門をくぐった瞬間、町の音が一気に押し寄せてきた。
人の話し声。荷車の軋み。店先で客を呼ぶ声。鍛冶場から響く金属音。どれも大きいわけではないのに、数が多い。四方八方から別々の音が飛んできて、空気がせわしなく揺れている。
リリアの足が止まった。
「おとうさん」
「うん」
「……おおい」
「そうだな」
エドはしゃがみこみ、リリアと目線を合わせる。
「俺から離れるな」
「うん」
「嫌になったらすぐ言え」
「うん」
「無理はするな」
何度も同じことを言うのは、たぶん自分が不安だからだろう。リリアは真面目な顔でうなずくと、またエドの服を掴んだ。
町の通りを歩き出す。まずは安い宿でも見つけたいが、その前に腹を満たしたかった。屋台から焼いた肉の匂いが流れてくる。腹が減っているのを思い出すには十分だった。
「パンでも買うか」
「ぱん」
「好きだろ」
「すき」
少しだけ声が明るくなる。
その調子なら大丈夫かもしれない。そう思った矢先、荷を積んだ馬車がすぐ脇を通り過ぎた。車輪が石を跳ね、馬が鼻を鳴らす。商人が大声で道を空けろと叫んだ。
リリアの肩が跳ねる。
そのまま、通りの向こうから子どもたちが駆けてきた。笑いながら、何人も一気に。ひとりがリリアの肩に軽くぶつかる。
「あっ、ごめ――」
謝る声も最後まで届かなかった。
空気が、わずかに歪む。
――何かが、抜け落ちかけた。
エドはすぐ気づいた。
通りのざわめきが遠のく。人の声が薄くなる。目の前の景色が、熱気の向こうみたいにゆらりと揺れた。石畳の輪郭がぼやけ、通りの端に置かれた木箱が、形を保ったまま少しだけ滲む。
まずい。
「リリア」
エドはすぐに振り向いた。
娘は青い顔で固まっていた。目が揺れている。息が浅い。自分でもどうしていいかわからない時の顔だ。
「こっち見ろ」
エドはその場でしゃがみ、両肩に手を置く。
「俺だ」
「……あ……」
「大丈夫」
通りの音が、さらに遠くなる。周囲の何人かが異変に気づいたのか、不審そうに足を止めた。
だがエドは見ない。
「息、ゆっくり」
リリアの目だけを見て言う。
「大丈夫だ。誰も怒ってない」
「でも、いま……」
「うん」
「また、おかしく……」
「いい」
エドははっきり言った。
「いいから、俺だけ見てろ」
リリアの唇が震える。
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
その言葉を、なるべく普段通りの声で返す。
「人が多くてびっくりしただけだろ」
数秒。
長いようで短い沈黙のあと、歪みかけた空気が少しずつ元に戻っていく。遠のいていた音も、ゆっくり町へ帰ってきた。馬のいななき、店の呼び声、通り過ぎる足音。
木箱も石畳も、何事もなかったみたいにそこにあった。
エドは小さく息をつく。
「立てるか」
リリアはこくりとうなずいた。
周囲にいた何人かが怪訝そうに見ていたが、誰も何か言ってはこなかった。
だが、一人だけ、足を止めたままこちらを見ている男がいた。
「……ごめんなさい」
立ち上がったあとも、リリアはまた小さく言った。
「だから謝らなくていい」
「でも」
「怖かったんだろ」
リリアは少しだけ俯いて、うなずく。
「ひと、いっぱいで……」
「そうだな」
「こえも、いっぱいだった」
「うん」
「おとうさん、いなくなるかとおもった」
エドは一瞬、言葉を失った。
この子にとって怖いのは、人混みそのものより、自分を見失うことなのかもしれない。知らない声や知らない顔の中で、唯一の拠り所を見失うことが。
エドはため息の代わりに、リリアの頭を撫でた。
「いなくならない」
できるだけ短く、はっきり言う。
「ちゃんといる」
リリアはゆっくり顔を上げた。
「……ほんと?」
「ほんとだ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
ようやく少しだけ、娘の表情がゆるむ。
「じゃあ、ぱん……たべる」
「食う気はあるんだな」
「ある」
その返事に、エドは少し笑った。
通りの角にあった屋台で、硬めの丸パンをふたつ買う。焼きたてではないが、昨日の干し肉よりはずっとましだ。リリアは両手でパンを持つと、ひとくち食べて、少しだけ目を丸くした。
「おいしい」
「よかったな」
「やわらかい」
「それは大事だ」
パンを食べる娘を見ながら、エドは通りの先を見た。町の奥には宿屋らしい看板が見える。井戸もある。人は多いが、全部が敵というわけでもなさそうだった。
少なくとも今は、追い出される気配はない。
「少し休んだら、宿を探そう」
「やど」
「ああ。ちゃんと壁があって、屋根もあるやつだ」
「きょうだけ?」
「たぶん今日だけじゃない」
「たぶん」
「頑張る」
リリアはくすっと笑ってから、パンをもうひとくち齧った。
その顔を見て、エドは思う。
大勢の中では不安そうでも、こうしてひとつずつ落ち着けば、この子はまだ普通に笑える。
なら、それでいい。
全部を治せなくてもいい。
――そう思うことにした。
「おとうさん」
「ん?」
「いま、えらかった?」
またそれを聞くのか、とエドは思った。
けれど嫌ではなかった。
「えらかったよ」
すぐに答える。
「ちゃんと止まれたし、ちゃんと俺を見た」
リリアの目が少しだけ明るくなる。
「ほんと?」
「ほんとだ」
「……よかった」
その呟きは、ひどく小さかった。
エドはパンをひとくち齧りながら、もう一度通りを見た。さっきまで騒がしく思えた町の音も、今は少しだけ遠く聞こえる。
だが、その平穏は長くは続かなかった。
通りの向こう、荷車の陰から、ひとりの女がこちらを見ていた。
革鎧に外套。腰に剣。
昨夜、森で会った冒険者――ミレナだった。
目が合う。
ミレナはすぐには近づいてこなかった。
ただ、さっきの一瞬を“見逃さなかった者の目”で、リリアを見ている。
普通の子どもみたいにパンを食べている、その小さな姿を。
そして、その周囲の空気が、ほんの一瞬だけ歪んだことを。
エドはパンを持ったまま、わずかに目を細めた。
ミレナは無言のまま踵を返し、人混みの中へ消える。
嫌な予感がした。
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