第2話 消えるもの
村を出てから半日ほど歩いたころには、道はもう道とは呼べないものになっていた。
踏み固められた土は途切れ、木々の根がむき出しになった森道が続いている。人の気配はない。聞こえるのは風と鳥の声、それから、ときおりリリアの小さな足音だけだった。
「つかれたか」
エドが振り返って聞くと、リリアは少し遅れてうなずいた。
「……ちょっとだけ」
その“ちょっとだけ”が、たぶんかなり疲れている時の言い方だと、エドはもう知っている。
「じゃあ、乗るか」
しゃがむと、リリアは素直に背中へしがみついてきた。軽い。いつものことだが、年のわりに軽すぎる気がして、エドは少しだけ眉を寄せる。
朝から何もかも変わった。村を追い出され、行く先も決まっていない。それでも、背中のぬくもりがあるだけで、まだ何とかなる気がした。
「寝ていいぞ」
「ねない」
「なんでだ」
「ちゃんと、おきてる」
「そうか」
短いやり取りに、エドは少しだけ笑った。
やがて森の中に、小さく開けた場所が見えてきた。倒木があり、脇には細い沢が流れている。日が落ちる前に休むなら、悪くない。
「今日はここにするか」
リリアを下ろすと、娘はきょろきょろと辺りを見回した。
「ここ、おうち?」
「今日だけのな」
「きょうだけ……」
「明日はもっとましな場所を探す」
リリアは言葉を繰り返してから、倒木の上にちょこんと座った。
エドはその間に、枝を集め、石を寄せ、沢で水を汲んだ。慣れた作業ではなかったが、やるしかない。火打石に少し手こずったものの、どうにか火がつくと、ぱち、と乾いた音がした。
それだけで少し、人のいる場所に戻れた気がした。
「ほら」
温めた干し肉を渡すと、リリアは両手で受け取った。
「たべていい?」
「そのために渡した」
「……そうだった」
少しだけ笑う。
さっきまで、村人たちの怯えた視線に囲まれていたとは思えないほど、焚き火の前の時間は静かだった。リリアは干し肉を少しずつ齧っている。ちゃんと食べているだけで、エドはほっとする。
「おいしいか?」
「かたい」
「そうだな」
「でも、たべられる」
「えらい」
「……えらい?」
「えらい」
即答すると、リリアは少しだけ胸を張った。
その顔は、どこにでもいる子どものものだった。
怖がりで、甘えん坊で、褒められると嬉しそうにする。ただそれだけの、小さな娘。
「おとうさん」
「ん?」
「もう、おわった?」
「何がだ」
「おいだされたの」
エドは少し考えてから答えた。
「終わったよ」
「もう、だいじょうぶ?」
「朝よりはな」
「たぶん?」
「そこは気にするな」
リリアがまた少し笑う。
そのとき、森の奥で低い唸り声がした。
エドの顔から笑みが消える。
草を踏む音が近づいてきた。ひとつではない。重い足音がゆっくり回り込むように動いている。
「リリア」
静かに呼ぶと、娘はすぐに立ち上がってエドの後ろへ隠れた。
次の瞬間、茂みの奥から黒い影が現れた。
狼に似た魔物だった。だが普通の狼より一回り大きく、目が赤い。口元から涎を垂らし、低く唸っている。
一匹。
さらに左。
もう一匹。
右にも、もう一匹。
「三匹か……」
エドは小さく息を吐いた。
剣はない。あるのは腰の小刀と、焚き火の薪くらいだ。まともにやり合えば勝てない。せめて火で怯ませられればいいが、それで逃げてくれる保証もない。
真ん中の一匹が、じり、と前に出た。
「おとうさん……」
「大丈夫だ」
言いながら、エドは燃えている薪を掴んだ。熱い。だが手放せない。
次の瞬間、真ん中の一匹が飛びかかってきた。
――その牙が届く、寸前で。
魔物が消えた。
空中で、音もなく。
血も、骨も、何ひとつ残さず、そこだけ世界から抜け落ちたみたいに消えていた。
エドは一瞬、何が起きたのかわからなかった。
だが、後ろから息を呑む気配がする。
振り返らなくてもわかる。
「……リリア」
二匹目が唸り、後ずさるように動いた。
その身体も、次の瞬間には消えていた。
残る一匹は明らかに怯えていた。獣なりに理解したのかもしれない。ここにいてはいけないと。
けれど遅い。
リリアが背中の服をきゅっと掴む。
最後の一匹も、音もなく消えた。
森が静まり返る。
焚き火の先には、何もなかった。さっきまで三匹の魔物がいたはずなのに、痕跡すら残っていない。
「ごめんなさい……」
先に口を開いたのは、リリアだった。
エドは薪を地面に戻し、しゃがみこんで娘を見る。
「怪我はしてないか」
リリアは目を丸くして、それから小さく首を振った。
「してない……」
「じゃあいい」
「でも、また……きえた」
「消えたな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
リリアの目が揺れる。
「怖かっただろ」
「……うん」
「あんなのが飛びかかってきたら、怖いに決まってる」
「でも、また……」
「またでもだ」
エドはなるべくいつも通りの声で言う。
「助かったんだから、今はそれでいい」
――そう思うしかなかった。
リリアはまだ不安そうだったが、少しだけ肩の力を抜いた。
そのときだった。
「――今の、何」
知らない声がして、エドは反射的にリリアを背に庇った。
木の陰から、ひとりの女が姿を現す。革鎧の上に外套を羽織り、腰には剣。年は二十代後半くらいだろうか。目つきが鋭い。
冒険者だ、とエドは思った。
女は少し距離を取ったまま、焚き火の向こう側に立った。視線はエドではなく、リリアに向いている。
「見てたのか」
「最後だけ」
短く答えてから、女は焚き火の先の空白を見る。
「黒牙狼が、痕跡も残さず消えた」
エドは何も答えなかった。
「私はミレナ。通りすがりの冒険者」
「エドだ」
「その子は」
「リリア」
名を呼ばれたリリアは、エドの背から少しだけ顔を出した。
その仕草を見て、ミレナの目がわずかに揺れる。
たぶん困っているのだろう。目の前にいるのは、どう見ても普通の子どもだ。だが、さっき魔物を消した。
そのふたつが、ひどく噛み合わない。
「……村から出てきたの?」
「そんなところだ」
「追い出された顔をしてる」
「便利だな」
「人を見るのも仕事だから」
ミレナはしばらく黙っていたが、やがてはっきりと言った。
「忠告しておく。その子を見た人間が、みんなあんたみたいだと思わないほうがいい」
エドは眉を上げる。
「俺みたい?」
「普通の子として見てる」
焚き火が、ぱち、と鳴る。
ミレナの視線は変わらない。
「でも、あれは普通じゃない」
リリアの指先に力が入るのがわかった。
エドはすぐにその頭を撫でる。
「大丈夫だ」
娘に向けて言うと、ミレナは小さく息を吐いた。
「この先に古い見張り小屋がある。壁は壊れてるけど、野宿よりはまし」
「教えてくれるのか」
「子どもがいるから」
それから少し間を置いて、ミレナは続けた。
「でも、ここには長居しないほうがいい。あんたたちにとっても、たぶん周りにとっても」
「わかった」
礼を言うと、ミレナは森の奥を顎で示した。
「沢を上れば見える」
そして踵を返し、闇のほうへ歩き出す。だが数歩進んだところで足を止めた。
「エド」
「なんだ」
「その子から、目を離すな。……本当に」
「ああ」
「違う意味でも」
それだけ言い残し、ミレナは森に消えた。
リリアが不安そうに見上げてくる。
「あのひと、こわい?」
「どうだろうな」
「おこってた?」
「怒ってはない」
「じゃあ、だいじょうぶ?」
エドは少しだけ考えてから答えた。
「……たぶんな」
リリアは「たぶん」と繰り返した。
エドは荷袋を持ち上げる。
「移動しよう。今日は小屋を借りる」
「うん」
焚き火を消し、親子は沢沿いを歩き出す。
その背を見送りながら、少し離れた木陰でミレナは立ち止まっていた。
消えた。
あの魔物は、確かに消えた。
剣でも、魔術でもない。
あまりにも静かに、この世から抜け落ちた。
ミレナは無意識に、一歩だけ後ずさった。
「……あれは」
呟いた声は、夜の森に吸い込まれた。
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