第1話 追放
「エド、お前をこの村から追放する」
村長の声が広場に響いた。
その瞬間、エドは服の裾を掴む小さな手に気づいた。娘のリリアが、彼の足元で震えている。白くなるほど強く握りしめた指先が、小さく震えていた。
広場を囲む村人たちの目は冷たかった。
いや、冷たいだけじゃない。怯えていた。
家畜が消えた。道具が消えた。会話の途中で音が途切れることがあった。昨日はついに、村の一部がごっそり消えた。
誰もはっきり言わなかったが、みんな答えは決めている。
異常の中心にいるのは、エドではない。
その後ろに隠れている、小さな娘だと。
「……だいじょうぶ?」
かすれた声で、リリアが聞いた。
エドはしゃがみ、できるだけいつも通りの顔でうなずいた。
「ああ。大丈夫だよ」
本当は大丈夫ではない。
だが、少なくともこの子の前ではそう言うしかなかった。
「最近の異変は、お前たちが来てから始まった」
村長が杖をついた。
「これ以上、村に置いておくことはできん」
「俺たちがやったって証拠はないだろ」
エドが言うと、村人たちがざわつく。
「証拠なんか十分だ!」
「その子が怯えるたびに、おかしなことが起きる!」
「昨日だってそうだっただろ!」
鐘楼の近くに住む男が前に出た。物置を消された家の主だ。目の下に濃い隈がある。
「あの子が泣いたあと、村が消えたんだぞ!」
「見たのは異変だけだ。リリアが何かしたところを見た奴はいない」
「同じことだ!」
怒鳴り声に、リリアの肩がびくっと跳ねた。
まずい、とエドは思う。
広場の空気が急に薄くなった。
風の音が遠のく。ざわめきが沈む。誰かの息遣いだけが妙に大きく耳に残る。
「……まただ」
「静かに……」
「やっぱり、この子……」
怯えた声が広がる。
エドは振り返らず、後ろ手でリリアの頭を撫でた。
「大丈夫」
小さく言う。
「俺だけ見てろ」
裾を掴む力が、ほんの少し緩んだ。
それに合わせて、広場を覆いかけた不自然な静けさも薄れていく。
けれど、もう遅かった。
村人たちの顔から、迷いが消えていた。
「出ていってもらう」
村長が言った。
「今日中にだ」
エドは広場を見回した。目を逸らす者、露骨に怯える者、リリアを見ないようにしている者。助けてくれそうな顔は、ひとつもない。
ただ、目を伏せたまま唇を噛んでいる女が一人だけいた。
まあ、そうだろう。
エドは昔から役立たずだった。力仕事も狩りも駄目で、剣も魔術も使えない。
――守ることだけは、どうしても下手だった。
無能と言われるのには慣れている。
反論できるものを、何ひとつ持っていなかったからだ。
自分ひとりなら、見下されながらでも村の隅で生きてはいけたかもしれない。
だが、リリアがいる。
この子が災いだと思われた時点で、終わりだった。
「……わかった」
エドはそう言った。
「出ていく」
リリアが不安そうに顔を上げる。
「おうち、かえる……?」
「別の場所に行こう」
「べつの……?」
「ああ。もっと静かなところだ」
リリアは少し迷ってから、こくりとうなずいた。
それで話は終わるはずだった。
「待てよ」
さっきの男が、さらに一歩前に出た。手には小石がひとつ握られている。
「お前はともかく、その子は置いていけ」
広場が静まり返った。
エドの目から感情が消える。
「……今、なんて言った」
「その子がいなきゃ、まだ戻れるかもしれねえだろ! 村の外に捨てるなり、教会に渡すなり――」
「やめろ」
低い声だった。
男は一瞬ひるんだが、すぐに叫んだ。
「偉そうにするな、無能が!」
そのまま、小石を投げた。
狙いはエドではなかった。
彼の後ろに隠れたリリアへ、まっすぐ飛ぶ。
リリアが息を呑む。
次の瞬間、小石は消えた。
弾かれたわけでも、落ちたわけでもない。
ただ、そこから消失した。
「ひっ……!」
「消えたぞ!」
「やっぱり化け物じゃないか!」
悲鳴が上がる。
リリアの呼吸が乱れた。小さな肩が震える。
そしてまた、音が消え始めた。
風が消える。鳥の声が消える。村人たちの叫びも遠のいて、水の底に沈んだような静寂が広場を包む。
エドはすぐにしゃがみこみ、リリアの頬を両手で包んだ。
「リリア」
揺れる瞳が、ゆっくりと彼を見る。
「見て。俺だ」
「……あ……」
「危ないからやめような」
優しく言う。
「そんなの、しなくていい」
リリアの唇が震えた。
「ご、ごめんなさい……」
「うん」
「わたし……」
「大丈夫だ」
エドは額を軽く合わせた。
「大丈夫だから」
――そう言うしか、今のエドにはできなかった。
しばらくして、少しずつ音が戻ってきた。誰かの荒い息、遠くの犬の声、風に揺れる木の葉の音。
村人たちは完全に怯えきっていた。
村長が青ざめた顔で言う。
「……今すぐ出ていけ」
さっきまでの威厳はもうなかった。
「日暮れまで待たん。すぐにだ」
エドは何も言わず、リリアを抱き上げた。軽い身体が、まだ小さく震えている。
「行こう、リリア」
娘は彼の首に腕を回し、黙ってうなずいた。
誰も引き止めなかった。
広場の真ん中を歩くと、人垣が左右に割れた。腫れ物を避けるみたいに。
家々の前を通り過ぎる。干しかけの洗濯物、積みかけの薪、開いたままの戸。見慣れた村の景色が、もう自分たちとは無関係なものに見えた。
この村での暮らしは長くなかった。
それでも、屋根があって、リリアの眠る場所があった。それだけで十分だったのに。
「おとうさん……」
腕の中で、リリアが小さく呼ぶ。
「ん?」
「みんな、おこってた」
「ああ」
「わたしのせい?」
エドは少しだけ黙った。
この子はまだ、自分が何なのか知らない。
ただ、自分が怖がると何かが起きて、大人たちが怯えることだけは、少しずつ覚えてしまっている。
「お前のせいじゃない」
「ほんと……?」
「ほんとだ」
「でも、いし、きえた……」
「それでも、関係ない」
エドは歩きながら、リリアの頭を撫でた。
「……怖かっただろ」
その一言で、リリアの肩から少しだけ力が抜けた。
「……うん」
「もういい。あとは俺がやる」
「おとうさん、できる?」
「たぶんな」
「たぶん……」
少しだけ、リリアが笑った。
エドもわずかに口元を緩める。
村境の石碑を越えると、人の気配は完全に消えた。草の匂いがして、遠くで川音がする。
エドはリリアを下ろした。
「これから、どこいくの?」
「とりあえず、今日の寝る場所を探そう」
「ごはんも?」
「できれば」
「できれば……」
同じ言い方だ、とでも思ったのか、リリアが少しだけ目を丸くする。
それを見て、エドはようやく息をついた。
道の先には森がある。森を抜ければ街道だ。何とかなるかもしれないし、ならないかもしれない。
それでも、この子が隣にいるなら歩くしかなかった。
「行くか」
「うん」
歩き出そうとしたとき、リリアが服の裾を引いた。
「ん?」
娘は見上げたまま、小さな声で聞いた。
「……えらかった?」
エドは息を止めた。
泣かなかったこと。騒がなかったこと。怖くても、ちゃんと耐えたこと。
たぶん、その全部のことを聞いている。
エドはしゃがみ、リリアと目線を合わせた。
「えらかったよ」
はっきり言う。
「すごくえらかった」
リリアの瞳が揺れた。
「ほんと?」
「ほんとだ。ちゃんと我慢したし、ちゃんと止まれた」
小さな頭に手を置く。
「だから、もう気にしなくていい」
次の瞬間、リリアはぎゅっとエドに抱きついてきた。
エドはその背を抱き返す。
村を失った朝だった。
それでも腕の中には、失ってはいけないものが残っていた。
――だから、立ち止まるわけにはいかなかった。
なら、まだいい。
「行こう、リリア」
「……うん」
親子は道を進む。
追放された無能な父と、怯えた小さな娘。
その背を、森の入口の影から、音もなく誰かが見ていた。
逃がすつもりのない視線だった。
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