プロローグ 音の消えた村
朝は、いつも同じように来るはずだった。
山あいの小さな村には、夜明けとともにいくつもの音が戻ってくる。家畜の鳴き声。井戸を汲む桶のきしみ。薪を割る乾いた音。眠たげな子どもの泣き声と、それを叱る母親の声。
そんな、どこにでもある生活の音が重なって、村の朝は始まる。
なのにその日、ラウは目を覚ました瞬間から、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。
静かすぎた。――音が、戻ってこない。
窓を開けると、朝靄はいつものように畑の上を薄く流れていた。空も白み始めている。鶏小屋の柵も、道端の荷車も、昨日と何ひとつ変わっていないように見えた。
それでもやはり、おかしかった。
音が、欠けている。
「……おい」
隣家の戸口に立っていた男が、通りを見回しながら誰かを呼んだ。だが、その声は妙に頼りなく、途中でふっと薄れて消えた。
まるで最初から、そこまでしか“許されていなかった”みたいに。
ラウは眉をひそめた。
「今の、聞こえたか?」
家の奥から出てきた妻に尋ねる。妻は不思議そうに瞬きをした。
「何が?」
「いや……誰か、呼んでただろ」
「別に」
言われて、ラウは口をつぐんだ。確かに聞いたはずなのに、自信が持てない。呼ばれた名前も、誰の声だったのかも、どうしてかうまく思い出せなかった。
気味が悪い。
村の広場へ向かうと、すでに何人かが集まっていた。だが皆、落ち着かない顔をしている。家畜小屋を見に行ったはずの老人が戻ってこないとか、隣家のかまどに火が入っていないとか、そんな小さな異変を口々にしていた。
「……あれ、誰の家だっけ」
若い女が、広場の端を指さして言った。
そこには一軒分、ぽっかりと空いた場所があった。
家が取り壊された跡地ではない。焼けたわけでも、崩れたわけでもない。ただそこだけ、最初から何もなかったみたいに、土がむき出しになっている。
柵も、井戸も、洗濯物を干す縄も、生活の名残さえ残っていない。
「誰が住んでた?」
誰かがそう聞いた。
けれど、誰も答えられなかった。
住んでいたはずなのだ。毎日顔を合わせていたはずなのだ。なのに名前が出てこない。男だったのか女だったのか、年寄りだったのか子どもだったのか、それすら曖昧だった。
「おかしいだろ……」
広場にざわめきが走る。
「昨日まであった家だ」
「いや、待て、ほんとにあったか?」
「いや、あった、はずだ」
「誰の家だよ」
「だから、それが――」
言い争いは、途中で途切れた。
風が吹いたからではない。誰かが黙らせたわけでもない。
ただ、音だけがすうっと削り取られた。――誰かが、そこだけ切り取ったみたいに。
耳鳴りのような無音だった。
村人たちは一斉に息をのむ。誰かの口がまだ動いているのに、声が聞こえない。子どもが泣き顔で母親の裾を引いているのに、泣き声がしない。
異様な静寂が、朝の村を丸ごと覆っていた。
その沈黙の中で、ラウは広場の外れに二つの影を見つけた。
男と、小さな娘だった。
男は粗末な服を着ていた。痩せて、冴えない顔をしていて、村の誰もが見下していたような、どこにでもいる弱そうな男だ。
その隣で、娘が男の服の裾をきゅっと握っている。年の頃は五つか六つ。淡い髪が朝靄に溶けそうで、妙に輪郭が曖昧に見えた。
娘はうつむいていた。
怯えているようにも、泣くのをこらえているようにも見える。
そして、その子の周りだけ、空気の震え方が違っていた。
広場の端で、誰かが一歩後ずさる。
「……あの子が来てからじゃないか」
小さな呟きだった。けれど、静まり返った空気の中ではやけに鮮明に響いた。
それを皮切りに、村人たちの視線が一斉に父娘へ集まる。
「やめろ、よせ……それ以上、あの子を見るな。目を合わせるな」
ラウは咄嗟にそう言った。だが、自分の声もどこか頼りなかった。
男は責める視線にも、怯えた視線にも慣れているように、ただ娘の頭に手を置いた。娘はさらに裾を握る力を強める。
その指先が、かすかに震えていた。
次の瞬間――誰もが、あの子から目を逸らせなかった。
広場の隅に積まれていた木箱が、娘の視線の先で、音もなく消えた。
壊れたのではない。砕けたのでもない。
ただ、そこに木箱があったという事実ごと、目の前から抜け落ちた。
誰かが悲鳴を上げた。――その“音だけが消えた”。
けれど、その悲鳴も半分ほど形になったところで、すっと消えた。
ラウの喉がひきつった。
おかしい。――いや、もう“おかしい”では済まない。
消えているのは、物だけじゃない。
音がおかしくて、記憶が曖昧で、気づけば“最初からなかったこと”になっていく。
「ねえ……」
娘が、か細い声で言った。
初めて、その顔が上がる。
幼い顔だった。どこにでもいる、ただ父親のそばにいたいだけの、小さな娘の顔だった。
「……わたし、わるい子?」
その一言で、空気が凍りついた。
誰も返せなかった。返してはいけない気がした。
もしここで何かを間違えれば、村そのものが壊れてしまう。そんな確信にも似た恐怖が、理由もなく胸を締めつける。
男はしばらく黙っていた。
やがて、娘の肩を抱き寄せると、何でもないことのように言った。
「大丈夫だ」
その声だけが、不思議なくらいはっきり聞こえた。
まるで、この場でただ一人、何が起きているのか知っているみたいに。
「お前は何も悪くない」
娘がゆっくりと男を見上げる。
その瞬間、広場を覆っていた重苦しい無音が、ほんのわずかだけ遠のいた気がした。
けれど、遅かった。
村の中央に立つ鐘楼の足元から、地面がすっと消えた。
崩れたのではない。沈んだのでもない。
切り取られたように、村の一部がごっそりと世界から失われた。
土煙すら上がらない。
ただ、そこにあったはずのものだけが、綺麗に、残酷なほど綺麗に消えていた。
誰かが膝をつく。誰かが祈る。誰かが泣き出す。
だがラウには、そのどれもが遠く、薄く、現実味を持たないまま揺れて見えた。
男は娘を抱き上げ、背を向けた。
逃げるでもなく、威張るでもなく、ただこの場にいること自体が間違いだったと言わんばかりに。
娘は男の肩越しに、一度だけ振り返った。
その瞳の奥に何があったのか、ラウには最後までわからなかった。
哀しみだったのか、怯えだったのか、それとも――もっと人には理解できない何かだったのか。
朝の光は、もうすっかり村を照らしていた。
なのにその日から、この村の朝を、ラウは二度と思い出せなくなる。
何が消え、誰が消え、どこから壊れ始めたのか。
記憶は曖昧に削れ、ただひとつだけが、傷のように胸に残った。
あの男の声だけが。
――大丈夫だ。
それが――村が“消え始めた日”だった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
この先、消えるのは物や音だけではありません。
見たもの、覚えているはずのもの、そして――“存在そのもの”が、少しずつ削れていきます。
あの子は何なのか。
父は何を知っているのか。
そして、どこまでがまだ“残っている”のか。
続きを読めば、その答えに少しずつ近づきます。




