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無能な父ですが、世界が壊れても娘だけは手放しません  作者: そらのことのは


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1/8

プロローグ 音の消えた村

 朝は、いつも同じように来るはずだった。


 山あいの小さな村には、夜明けとともにいくつもの音が戻ってくる。家畜の鳴き声。井戸を汲む桶のきしみ。薪を割る乾いた音。眠たげな子どもの泣き声と、それを叱る母親の声。

 そんな、どこにでもある生活の音が重なって、村の朝は始まる。


 なのにその日、ラウは目を覚ました瞬間から、胸の奥に小さな違和感を覚えていた。


 静かすぎた。――音が、戻ってこない。


 窓を開けると、朝靄はいつものように畑の上を薄く流れていた。空も白み始めている。鶏小屋の柵も、道端の荷車も、昨日と何ひとつ変わっていないように見えた。

 それでもやはり、おかしかった。


 音が、欠けている。


「……おい」


 隣家の戸口に立っていた男が、通りを見回しながら誰かを呼んだ。だが、その声は妙に頼りなく、途中でふっと薄れて消えた。

 まるで最初から、そこまでしか“許されていなかった”みたいに。


 ラウは眉をひそめた。


「今の、聞こえたか?」


 家の奥から出てきた妻に尋ねる。妻は不思議そうに瞬きをした。


「何が?」


「いや……誰か、呼んでただろ」


「別に」


 言われて、ラウは口をつぐんだ。確かに聞いたはずなのに、自信が持てない。呼ばれた名前も、誰の声だったのかも、どうしてかうまく思い出せなかった。


 気味が悪い。


 村の広場へ向かうと、すでに何人かが集まっていた。だが皆、落ち着かない顔をしている。家畜小屋を見に行ったはずの老人が戻ってこないとか、隣家のかまどに火が入っていないとか、そんな小さな異変を口々にしていた。


「……あれ、誰の家だっけ」


 若い女が、広場の端を指さして言った。


 そこには一軒分、ぽっかりと空いた場所があった。


 家が取り壊された跡地ではない。焼けたわけでも、崩れたわけでもない。ただそこだけ、最初から何もなかったみたいに、土がむき出しになっている。

 柵も、井戸も、洗濯物を干す縄も、生活の名残さえ残っていない。


「誰が住んでた?」


 誰かがそう聞いた。

 けれど、誰も答えられなかった。


 住んでいたはずなのだ。毎日顔を合わせていたはずなのだ。なのに名前が出てこない。男だったのか女だったのか、年寄りだったのか子どもだったのか、それすら曖昧だった。


「おかしいだろ……」


 広場にざわめきが走る。


「昨日まであった家だ」

「いや、待て、ほんとにあったか?」

「いや、あった、はずだ」

「誰の家だよ」

「だから、それが――」


 言い争いは、途中で途切れた。


 風が吹いたからではない。誰かが黙らせたわけでもない。

 ただ、音だけがすうっと削り取られた。――誰かが、そこだけ切り取ったみたいに。


 耳鳴りのような無音だった。


 村人たちは一斉に息をのむ。誰かの口がまだ動いているのに、声が聞こえない。子どもが泣き顔で母親の裾を引いているのに、泣き声がしない。

 異様な静寂が、朝の村を丸ごと覆っていた。


 その沈黙の中で、ラウは広場の外れに二つの影を見つけた。


 男と、小さな娘だった。


 男は粗末な服を着ていた。痩せて、冴えない顔をしていて、村の誰もが見下していたような、どこにでもいる弱そうな男だ。

 その隣で、娘が男の服の裾をきゅっと握っている。年の頃は五つか六つ。淡い髪が朝靄に溶けそうで、妙に輪郭が曖昧に見えた。


 娘はうつむいていた。


 怯えているようにも、泣くのをこらえているようにも見える。

 そして、その子の周りだけ、空気の震え方が違っていた。


 広場の端で、誰かが一歩後ずさる。


「……あの子が来てからじゃないか」


 小さな呟きだった。けれど、静まり返った空気の中ではやけに鮮明に響いた。

 それを皮切りに、村人たちの視線が一斉に父娘へ集まる。


「やめろ、よせ……それ以上、あの子を見るな。目を合わせるな」


 ラウは咄嗟にそう言った。だが、自分の声もどこか頼りなかった。


 男は責める視線にも、怯えた視線にも慣れているように、ただ娘の頭に手を置いた。娘はさらに裾を握る力を強める。

 その指先が、かすかに震えていた。


 次の瞬間――誰もが、あの子から目を逸らせなかった。


 広場の隅に積まれていた木箱が、娘の視線の先で、音もなく消えた。


 壊れたのではない。砕けたのでもない。

 ただ、そこに木箱があったという事実ごと、目の前から抜け落ちた。


 誰かが悲鳴を上げた。――その“音だけが消えた”。

 けれど、その悲鳴も半分ほど形になったところで、すっと消えた。


 ラウの喉がひきつった。

 おかしい。――いや、もう“おかしい”では済まない。


 消えているのは、物だけじゃない。

 音がおかしくて、記憶が曖昧で、気づけば“最初からなかったこと”になっていく。


「ねえ……」


 娘が、か細い声で言った。


 初めて、その顔が上がる。

 幼い顔だった。どこにでもいる、ただ父親のそばにいたいだけの、小さな娘の顔だった。


「……わたし、わるい子?」


 その一言で、空気が凍りついた。


 誰も返せなかった。返してはいけない気がした。

 もしここで何かを間違えれば、村そのものが壊れてしまう。そんな確信にも似た恐怖が、理由もなく胸を締めつける。


 男はしばらく黙っていた。

 やがて、娘の肩を抱き寄せると、何でもないことのように言った。


「大丈夫だ」


 その声だけが、不思議なくらいはっきり聞こえた。

 まるで、この場でただ一人、何が起きているのか知っているみたいに。


「お前は何も悪くない」


 娘がゆっくりと男を見上げる。

 その瞬間、広場を覆っていた重苦しい無音が、ほんのわずかだけ遠のいた気がした。


 けれど、遅かった。


 村の中央に立つ鐘楼の足元から、地面がすっと消えた。


 崩れたのではない。沈んだのでもない。

 切り取られたように、村の一部がごっそりと世界から失われた。


 土煙すら上がらない。

 ただ、そこにあったはずのものだけが、綺麗に、残酷なほど綺麗に消えていた。


 誰かが膝をつく。誰かが祈る。誰かが泣き出す。

 だがラウには、そのどれもが遠く、薄く、現実味を持たないまま揺れて見えた。


 男は娘を抱き上げ、背を向けた。

 逃げるでもなく、威張るでもなく、ただこの場にいること自体が間違いだったと言わんばかりに。


 娘は男の肩越しに、一度だけ振り返った。


 その瞳の奥に何があったのか、ラウには最後までわからなかった。

 哀しみだったのか、怯えだったのか、それとも――もっと人には理解できない何かだったのか。


 朝の光は、もうすっかり村を照らしていた。

 なのにその日から、この村の朝を、ラウは二度と思い出せなくなる。


 何が消え、誰が消え、どこから壊れ始めたのか。

 記憶は曖昧に削れ、ただひとつだけが、傷のように胸に残った。


 あの男の声だけが。


 ――大丈夫だ。


 それが――村が“消え始めた日”だった。

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


この先、消えるのは物や音だけではありません。

見たもの、覚えているはずのもの、そして――“存在そのもの”が、少しずつ削れていきます。


あの子は何なのか。

父は何を知っているのか。

そして、どこまでがまだ“残っている”のか。


続きを読めば、その答えに少しずつ近づきます。


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