第18話 再定義
最後の泣き声が空に消えたあと、世界はようやく静かになった。
完全な静寂ではない。
風の音が戻る。草が揺れる。遠くで誰かが咳き込む。馬の怯えた鼻息も聞こえる。
音は、ちゃんとこの世界に戻ってきていた。
けれど、何もかもが元通りになったわけではなかった。
空には、まだ傷が残っている。
さっきまで大きく裂けていた黒い亀裂は、今は細い筋になって空の高いところに留まっていた。消えたわけではない。ただ、これ以上広がらなくなっただけだ。
地面の欠けた場所も、消えたままだった。林の一部も戻らない。詰め所の壁も半分なくなったまま、崩れることもなくそこにある。
世界は止まった。
だが、巻き戻りはしなかった。
「……ほんとに、止まった」
少し離れた場所で、ミレナがそう言った。
剣を下ろしている。
けれど油断した顔ではない。目の前の光景が、まだ現実だと飲み込みきれていない顔だった。
観測局の男も、法衣の女も、その場から動けずにいた。
誰かを確保するとか、消すか残すかとか、そういう言葉を口にできる空気ではもうなかった。
エドはリリアを抱えたまま、ゆっくりと裂け目の真下から離れた。
一歩。
また一歩。
土の感触は戻っている。けれど身体は妙に重かった。左手の感覚もまだ少し鈍い。頬に触れれば、皮膚が薄くなったような変な感触がある。
それでも歩ける。なら十分だった。
「おとうさん」
腕の中で、リリアが小さく呼ぶ。
「ん?」
「……いる?」
さっきも聞いた。
何度も聞いた。
たぶんこれからも、また聞くのだろう。
エドは息を整えてから答える。
「いるよ」
「ちゃんと……?」
「ちゃんとだ」
その返事を聞いた瞬間、リリアの顔がぐしゃっと歪んだ。
今までずっと、泣きながらもどこか耐えていたのに。
もう止まったとわかったからだろう。糸が切れたみたいに、声を押し殺して泣き始める。
「……ごめんなさい」
最初に出てきたのは、やっぱりその言葉だった。
「ごめんなさい……っ」
「うん」
エドは否定せずに聞く。
リリアは首を振りながら続けた。
「みんな、きえた……かもしれない」
「うん」
「そらも、こわれた……」
「うん」
「わたし、へん……」
そこまで言って、とうとう声が詰まる。
エドは立ち止まり、ゆっくりリリアを下ろした。
小さな足が、欠けた地面を避けるように土の上に立つ。
「リリア」
しゃがんで、目線を合わせる。
娘の目は赤い。鼻先も真っ赤だ。涙でぐしゃぐしゃの、ひどい顔だった。
それでも、エドにはその顔が一番見慣れていた。
「へんじゃない」
いつも通り、短く言う。
リリアが泣いたまま見上げてくる。
「でも……」
「……へんでも、関係ない」
エドは続けた。
「お前が何でも、関係ない」
風が吹く。
裂けた空の下で、その言葉だけが妙にはっきり落ちた。
「お前は、俺の娘だ」
リリアの唇が震える。
「……いいこ?」
「そうだ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
エドは迷わず言う。
「最初から最後まで、ずっといい子だよ」
その一言で、リリアはまた泣いた。
今度はさっきよりもっと、子どもらしい泣き方だった。怖かったぶん、苦しかったぶん、全部まとめて吐き出すみたいに。
エドはその小さな身体を抱き寄せる。
もう空は裂けない。
少なくとも今は。
ミレナが少し離れた場所から近づいてきた。肩に受けた打撃のせいで、動きは少し重い。
「……終わり?」
誰にともなく聞く。
ユリウスが、崩れた石壁のそばで答えた。
「収束はしています」
「そういう言い方しかできないの」
「たぶん」
珍しく、自分でも少し嫌そうな顔だった。
「ただ、完全な修復は起きていない」
「見ればわかる」
ミレナは空の傷を見上げる。
「元には戻らないのね」
ユリウスは少し黙ってから、うなずいた。
「消えたものの一部は、そのままでしょう」
法衣の女が、青い顔のまま呟く。
「では、あの兵は……」
誰も答えなかった。
消えた人間が戻る保証はない。
消えた橋も、欠けた記憶も、おそらく同じだ。
それは重い事実だった。
けれど今ここで、それを誰かに背負わせる言葉はなかった。
観測局の男が、ひどく疲れた声で言う。
「……報告を上げる」
「好きにしろ」
エドは振り返らずに返す。
「ただし、また手を出すなら今度こそ許さん」
男は何も返さなかった。
もう強く出られる立場でも気分でもないのだろう。
ミレナがエドの隣まで来る。
「歩ける?」
「なんとか」
「顔、ちょっと消えかけてるけど」
「物騒な言い方するな」
「事実よ」
そう言ってから、ミレナは少しだけ口元を緩めた。
こんな場面で笑うことじゃない。けれど、少しだけ笑わないと息が詰まりそうでもあった。
リリアは泣き疲れたのか、エドの胸に顔を埋めたまま、小さな声で聞いた。
「……おうち、ある?」
その問いに、エドは少しだけ空を見た。
傷の残った空。
欠けた地面。
元には戻らない世界。
今の自分たちに、帰る場所なんてない。
けれど、なかったとしても、答えは決まっている。
「作る」
エドは言った。
「これからだ」
リリアが少しだけ顔を上げる。
「ほんと?」
「ほんとだ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
そこでようやく、リリアが泣き顔のまま少しだけ笑った。
その表情を見て、ミレナが小さく息を吐く。
「……ほんと、そこだけはぶれないのね」
「他に能がないからな」
「そういうところは無能っぽい」
「褒めてないだろ」
「半分くらいは」
そのやり取りに、リリアがかすかに笑う。
笑えるなら、まだ大丈夫だとエドは思った。
ユリウスが、少し離れた場所から静かに言った。
「世界は、この子をもう無視できません」
エドはそちらを見ない。
「お前もな」
「ええ」
ユリウスはあっさり認めた。
「ですが、ひとつ訂正します」
「何を」
「私はさっきまで、この子を“機構”として見ていました」
ミレナが眉をひそめる。
「今さら何」
「たぶん、それだけでは足りない」
ユリウスは、エドの腕の中で泣き疲れているリリアを見る。
「人の形を取っているのではなく、もう人として固定されている」
エドは小さく息を吐いた。
「最初からそう言ってる」
「知っています」
ユリウスは珍しく素直だった。
「だから、あなたが鍵だった」
その言葉に、エドは答えなかった。
認めたくはない。けれど否定もしにくい。
空の傷の向こうでは、もうあの泣き声は聞こえなかった。
代わりに、夜が少しずつ降りてくる。
「もう行く」
エドが言う。
「ここにはいたくない」
ミレナがうなずく。
「賛成」
観測局の連中も止めなかった。
止められないのか、もう触れたくないのかはわからなかった。
エドはリリアを抱き直す。
「行くぞ」
リリアがかすかにうなずく。
「……どこへ?」
泣いたあとの、少し眠たそうな声だった。
エドは歩き出しながら、短く言った。
「帰ろう」
帰る場所なんて、まだない。
けれど今の自分たちに必要なのは、たぶん地名じゃない。
父がいて、娘がいて、眠れる場所がある。
それをこれからまた作り直す。
少し壊れた世界の中で、前とは違う形でもう一度。
リリアはエドの首に腕を回し、小さく呟く。
「……うん」
その返事だけで、十分だった。
空には傷が残る。
消えたものは消えたまま。
世界はもう、元の顔には戻らない。
それでも、エドは歩く。
無能なまま、特別な何かにもなれないまま、それでもただひとりの父親として。
隣には、最強すぎて、泣き虫で、すぐ不安になって、何度でも“ちゃんといる?”と聞いてくる娘がいる。
なら、まだ歩ける。
――それでいいと、もう決めた。
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