第17話 選択
空の裂け目の奥から滲み出した白は、光というより“空白”に近かった。
明るいのに、何も照らさない。
ただ、そこにあるものの輪郭だけを薄くしていく。
裂け目の下にいた草が消えた。
次に石が消えた。
遅れて、詰め所の残っていた壁の端が、粉にもならずに抜け落ちるみたいに消えた。
「……始まる」
ユリウスが低く言った。
「何がだ」
エドが睨む。
ユリウスは白く滲む空を見たまま答えた。
「回帰です」
「わかるように言え」
「この子が“戻される”」
その言葉に、リリアの身体がびくりと震えた。
「もどる……?」
小さな声で聞き返す。
ユリウスは珍しく、少しだけ言葉を選んだ。
「このまま裂け目が開ききる前に、中心を向こうへ返せば、現象は収束します」
「中心?」
ミレナが眉をひそめる。
「まさか……」
「『娘さんです』」
観測局の男が、乾いた顔で言う。
「では、やはり対象を――」
「黙れ」
エドの声は低かった。
男は一瞬言葉を止めたが、すぐ続ける。
「選ぶしかないんです。この子を失うか、被害を広げるか」
リリアの指先に力が入る。
エドの服を握る小さな手が震えていた。
「おとうさん」
「聞かなくていい」
「でも……」
リリアは泣きそうな顔で、空を見上げた。
裂け目の向こうの白は、少しずつ下りてきている。
まるで見えない糸が、リリアの身体をそちらへ引こうとしているみたいだった。
「わたし、いけば、なおる?」
誰もすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分だった。
ミレナが舌打ちする。
「答えないで」
だがユリウスは、静かに言った。
「可能性は高い」
「ユリウス!」
「嘘を言うほうが残酷です」
その言葉に、リリアの顔から血の気が引いた。
「……そっか」
ひどく小さな声だった。
エドはすぐに娘の肩を掴む。
「そっか、じゃない」
リリアが揺れる目で見上げてくる。
「でも、みんなきえる」
「だからって、お前が消える理由にはならない」
「でも、わたしのせいで……」
「違う」
即答だった。
けれど、観測局の男が低く言う。
「もう違うでは済みません」
その一言で、エドの中の何かが完全に切れた。
「そんなの、選ぶまでもない」
全員がそちらを見る。
エドは、裂けた空の下で、はっきりと言った。
「そんなの、選ぶまでもない」
観測局の男が顔をしかめる。
「正気ですか」
「最初から正気じゃないかもしれん」
エドはリリアを抱き寄せる。
「それでも、こいつを差し出す気はない」
白い空白が、また一段下りてきた。
その瞬間、リリアの足元の地面が半歩ぶん消える。
身体がふらつき、エドがすぐに抱え直す。
「おとうさん……」
「大丈夫だ」
「でも、ひっぱられる」
たしかにそうだった。
見えない力が、裂け目のほうへ、じわじわとリリアを引いている。
エドが抱えていなければ、少しずつ身体ごとそちらへ流されそうな感覚がある。
「中心が向こうに定まる前に、決めてください」
ユリウスが言う。
「父親から離せば、たぶん抵抗は弱まる」
「そんなことさせるか」
「逆です」
ユリウスはエドを見た。
「あなたが行くしかない」
ミレナが息を呑む。
「……何?」
「裂け目の中心に近づけば、この子は“戻る”ほうへ引かれる。ですが、父親への依存がそれを止めている」
ユリウスは空白へ目を向けた。
「つまり今、この子の中ではふたつが引っ張り合っている」
「世界と父親って?」
ミレナの言い方は雑だったが、だいたい合っていた。
「そうです」
ユリウスはためらわずに言った。
「だから、父親が中心まで行って、この子を“個”として固定し直すしかない」
「失敗したら」
ミレナが聞く。
「父親ごと消えるでしょう」
さらりと言うな、とエドは思った。
だが、もうそこはどうでもよかった。
リリアは怯えた顔で首を振る。
「やだ」
「リリア」
「やだ……おとうさん、きえたら、やだ」
その声に合わせて、空白がまた広がる。
林の向こうの景色が、端から薄く削られていく。
ミレナが叫ぶ。
「エド、早く決めて!」
「決まってる」
エドはそう言って、リリアの頬に触れた。
「見ろ」
揺れる瞳が、なんとか彼に合う。
「俺が行く」
「やだ……」
「すぐ行って、すぐ戻る」
「うそ」
「たぶん本当だ」
こんな時でもそんな言い方か、とミレナが思ったが、口にはしなかった。
エドはリリアの額に、自分の額を軽くぶつける。
「ちゃんといる」
それから、ゆっくり腕をほどいた。
その瞬間、白い力が強く引く。
リリアの身体が半歩、空の裂け目のほうへ浮く。
「おとうさん!!」
「待ってろ!」
エドは走った。
裂け目の下へ向かう地面は、もうまともではなかった。
一歩踏み出した先の石が消え、次の一歩では足元の土が薄くなる。熱いわけでも冷たいわけでもない。ただ、そこにある感覚だけが削られていく。
腕をかすめた白で、袖が消えた。
血も出ない。ただ布だけがなくなる。
もう一歩。
今度は左手の感覚が少し鈍る。
「エド!!」
ミレナの声が背後から飛ぶ。
「戻れなくなる!」
「その時はその時だ!」
観測局の男が何か叫んでいる。
ユリウスも目を離さない。
だがエドにはもう、前しか見えていなかった。
裂け目の真下で、リリアが泣いている。
足元はほとんど消え、白い空白の中に立っているみたいだった。
「おとうさん……!」
声が遠い。
それでも届く。
エドはさらに一歩踏み込む。
今度は頬を何かが掠めた。
熱くも痛くもないのに、皮膚の感覚だけが一瞬なくなる。
たぶん本当に、削られている。
それでも止まらない。
やっと手が届く距離まで来たところで、リリアが泣きながら言った。
「わたし、いないほうがいい……?」
その問いに、エドは一瞬も迷わなかった。
「違う」
手を伸ばし、小さな身体を掴む。
「いい子だよ」
リリアの瞳が大きく揺れた。
「……え」
「いい子だよ」
エドはもう一度言う。
「ずっとそうだ」
白い空白が二人のまわりで軋む。
空の裂け目が、今にも全部を飲み込みそうに広がっていた。
それでもエドは離さない。
「お前は、俺の娘だ」
その言葉が落ちた瞬間だった。
裂け目の動きが、止まった。
完全ではない。
だが、確かに一瞬、世界が息を止めた。
リリアがぼろぼろ泣きながら、エドにしがみつく。
「おとうさん……っ」
「いる」
エドも息を切らしながら答える。
「ここにいる」
周囲の白が、少しずつ色を失っていく。
戻っているのではない。薄れている。過剰に開きかけた何かが、ようやく閉じ方を思い出したみたいに。
遠くでミレナが、剣を握ったまま呟く。
「……止まった」
ユリウスも、初めてはっきり息を吐いた。
「個として固定した……」
観測局の男は呆然と空を見上げていた。
消すか残すか、その二択しかないと思っていたものが、今、別の形で止まりかけている。
エドはもう立っているのもきつかった。
左手の感覚はまだ薄い。頬もひりつくような、ひりつかないような妙な感覚がある。
それでも、リリアを抱える腕だけは離さなかった。
「……かえろう」
リリアが泣きながら言う。
その言葉に、エドは少しだけ笑った。
「ああ」
まだ世界は完全には戻っていない。
空の傷も残っている。地面の欠けた場所も、そのままだ。だが少なくとも、崩壊の勢いだけは止まり始めていた。
エドは娘を抱いたまま、一歩だけ後ろへ下がる。
その瞬間、足元の白がすっと消えて、土の感触が戻った。
戻れる。
そう思った矢先、空の裂け目の奥から、最後のひときわ大きな泣き声が響いた。
まだ、終わっていなかった。
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