第16話 真実
空は、まだ裂けたままだった。
黒い傷みたいな亀裂が空の端を走り、そのまわりだけ景色が薄く歪んでいる。林の一部は消え、詰め所の石壁も半分以上なくなっていた。
風はあるのに、音はまだ不安定だった。聞こえるものと、途中で消えるものがある。
エドはリリアを抱き寄せたまま、その場を動けずにいた。
「……ちゃんと、いる?」
リリアが震える声で聞く。
「いる」
エドはすぐ答える。
「ここにいる」
それだけで、リリアの呼吸がほんの少しだけ落ち着く。
だが、周囲の崩れは止まっていない。遠くで地面が欠け、遅れて馬車の残骸みたいなものが消える。人の悲鳴も上がっているはずだが、半分は音にならなかった。
ユリウスが、崩れた石壁の向こうからゆっくり近づいてくる。
「来るな」
エドが低く言う。
「刺激するな」
「刺激するつもりはありません」
ユリウスの声は、こんな状況でも妙に静かだった。
だが、その静かさが逆に腹立たしい。
ミレナが剣を構えたまま男を睨む。
「今それを言う?」
「今だからです」
ユリウスは空の裂け目を見上げた。
「もう隠しようがない」
観測局の男も、法衣の女も、逃げ遅れた兵を庇いながら離れた場所で立ち尽くしていた。誰も手を出せない。出せば何が消えるかわからないからだ。
ユリウスだけが、まだ見ていた。
恐怖よりも、確信のほうが強い目だった。
「何が言いたい」
エドが問う。
ユリウスは、少しだけ視線を落としてリリアを見る。
「この子は、異常を起こしているわけではない」
「何?」
ミレナが眉をひそめる。
今まさに空が裂け、人が消え、地面まで欠けている。
異常以外の何だというのか。
「少なくとも、本質はそこではありません」
ユリウスは言う。
「起きているのは“破壊”ではない。……修復が、行き過ぎている」
「またそれか」
エドの声が低くなる。
「その言い方をやめろ」
「言い方の問題ではありません」
ユリウスは地面の欠落した場所を指した。
「消えているのは、綻びや境界の不安定な箇所が先です。古い橋、崩れた井戸、曖昧な記憶、ひび割れた空間。今のところ、完全なものからは消えていない」
「だから何」
ミレナが鋭く返す。
「それが、なんでこの子の正体になるの」
ユリウスは一度、空を見た。
裂けた黒い筋の向こうに、何を見ているのかはわからない。
「世界には、もともと綻びがあります」
「急に大きな話をするな」
エドが吐き捨てる。
「事実です」
ユリウスは続けた。
「時間、記憶、因果、空間。人は一枚の布みたいに世界を見ますが、実際はもっと不安定だ。ほころびは常に生まれている。本来なら、ゆっくり均されるはずのものです」
法衣の女が、青ざめたまま呟く。
「……均される?」
「そうです」
ユリウスはリリアを見た。
「この子は、その“均す力”を持っている。あるいは」
そこで、声をひとつ落とす。
「その力そのものが、人の形を取っている」
ミレナが露骨に顔をしかめた。
「ふざけないで」
「ふざけていません」
「子どもひとりを見て、世界そのものだとか、力そのものだとか」
「見たでしょう」
ユリウスは静かに言った。
「父親から引き離された瞬間、この規模で反応した。感情が引き金なのではない。感情によって“修復の方向”が歪むんです」
エドは黙っていた。
怒っているのに、言葉が一瞬出なかった。
理屈として、嫌になるほど筋が通ってしまうからだ。
リリアはエドの服にしがみつきながら、小さく聞いた。
「おとうさん」
「ん?」
「わたし……なに?」
その問いに、エドの胸の奥がひどく重くなる。
ユリウスはすぐに答えようとした。
だが、それより先にエドが言った。
「リリアだ」
短く、はっきり。
「お前はリリアだよ」
リリアの目が揺れる。
「でも……」
「それで充分だ」
エドは娘の頭に手を置く。
「何かがどうだろうが、お前はお前だ」
その言葉に、リリアの指先が少しだけ緩む。
ユリウスはそれを見て、ひどく小さく息を吐いた。
「……安定する」
「だからその見方をやめろ」
ミレナが睨む。
「人の子よ」
「人の子であることと、何であるかは両立します」
ユリウスは答える。
「たとえば、世界が自らの綻びを均そうとするなら、それは“機構”と呼べる。そして今、私はその人格化を見ている」
観測局の男が、遅れてようやく口を開いた。
「……つまり」
声は震えていた。
「対象は、人ではないと?」
ユリウスは首を横に振った。
「人ではない、では足りません。人であることも含んでいる。だから厄介なんです」
法衣の女が唇を震わせる。
「こんなもの……存在させていいはずが……」
その言葉に、空気がまた冷えた。
リリアがびくりと震える。
エドはすぐに抱き寄せた。
「聞くな」
だが遅かった。
「そんざい、しちゃだめ……?」
小さく、かすれた声だった。
エドは振り返る。
法衣の女の顔から血の気が引いた。自分が何を言ったか、遅れて理解したらしい。
「ち、違います、私は――」
「違わないだろ」
エドの声は低かった。
「今そう言った」
観測局の男が前へ出る。
さっきまでの確保だ保護だという調子ではない。もう覚悟を決めた顔だった。
「ユリウス殿」
「何です」
「もしあなたの仮説が正しいなら、選択肢はふたつです」
嫌な予感しかしない言い方だった。
「隔離して制御するか」
男は空の裂け目を見た。
「今ここで……消すしかないかです」
ミレナが息を呑む。
法衣の女も青ざめたまま黙る。
けれど誰も、“そんなことはできない”とは言わなかった。
理屈の上では、もうそこまで来てしまっているのだ。
リリアが、エドの胸に顔を押しつけた。
「おとうさん……」
泣きそうな声だった。
「わたし、けすの……?」
「違う」
エドは即答した。
「誰にも消させない」
観測局の男が鋭く言う。
「世界全体の被害と、ひとりの子どもを秤にかけろと言っているんです」
「秤にかけるな」
「かけるしかない状況だ!」
男の声がひび割れる。
ここへ来て初めて、彼もまた恐怖しているのがわかった。
「橋が消え、人が消え、空まで裂けている! これ以上広がれば国単位で被害が出る!」
「だからって、この子を消していい理由にはならない」
「ではどうする!」
エドは、答えなかった。
答えがないからではない。
最初から、答えは決まっているからだ。
ミレナがゆっくり前へ出る。
「少なくとも、今ここでその話をするのは最悪よ」
剣先はまだ下げない。
「その子に全部聞こえてる」
リリアは震えていた。
だが、さっきみたいな崩れ方ではない。むしろ必死にこらえている顔だった。
「おとうさん」
「ん?」
「……いいこ?」
その問いに、エドは少しも迷わない。
「いい子だよ」
すぐに言う。
「すごくいい子だ」
「ほんと……?」
「ほんとだ」
額を寄せる。
「お前はここにいていい」
その一言で、リリアの呼吸が少しだけ戻る。
ユリウスはその様子を見ていた。
観測の目ではなく、少しだけ苦いものを見る顔で。
「……そこが核心か」
小さく呟く。
「何がだ」
エドが睨む。
「この子の安定条件です」
「またそれか」
「いいえ」
ユリウスは珍しく、少しだけ言葉を選んだ。
「世界にとってこの子が何であれ、この子自身にとっては、あなたが“存在していい”という唯一の証明になっている」
エドは返事をしなかった。
それはもう、たぶんその通りだった。
観測局の男が苦い顔で言う。
「では、父親ごと拘束するしかない」
その言葉に、ミレナがすぐ剣を構え直す。
「やってみなさいよ」
空の裂け目が、また一段大きく軋んだ。
誰も動けなくなる。
今ここでまた刺激すれば、次は本当に止まらない。
それが全員にわかっていた。
風が吹く。
裂けた空の向こうで、あの“泣き声みたいな音”が、今度ははっきりと聞こえた。
リリアが小さく震える。
「……ないてる」
エドは娘を抱きしめる。
「大丈夫だ」
言いながら、自分でもわかっていた。
もう“ただの異常”ではない。もう“ただの娘”として隠しきれる段階でもない。
それでも。
「お前は俺の娘だ」
エドは低く、はっきり言った。
観測局の男も、法衣の女も、ユリウスも、ミレナも、その言葉を聞いた。
世界がどうだろうと。
何の機構だろうと。
壊れるか、救うか、そんな話の前に、この男はそこへ立つ。
裂けた空の下で、リリアは涙をこらえながら、小さくうなずいた。
けれど次の瞬間、空の黒い裂け目の奥から、光のない白がにじんだ。
まるで、空の向こう側が剥き出しになるみたいに。
ユリウスの顔色が変わる。
「……まずい」
「今さら何が」
ミレナが吐き捨てる。
だがユリウスは裂け目から目を離さなかった。
「選択している時間が、もう残っていない」
その言葉の意味を、誰もすぐには聞き返せなかった。
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