第15話 暴走
最初に壊れたのは、音だった。
詰め所の入口を塞いだ黒い幕の向こうで、リリアが泣いている。
それはわかる。口が開いて、肩が震えている気配がある。けれど、声だけがひどく遠い。
「ちゃんと、いる!?」
さっきは聞こえたはずのその声すら、次の瞬間には薄く削れていた。
「いる!!」
エドは叫ぶ。
「ここにいる!」
だが、自分の声もちゃんと届いている気がしない。
詰め所の中にいる兵たちが何か叫んでいる。ミレナも剣を振るっている。なのに、全部が水の底みたいに鈍く、半分しか聞こえなかった。
次に壊れたのは、光だった。
幕の隙間から見える外の景色が、熱気の向こうみたいに揺れる。
木々の輪郭がぶれ、地面に落ちる影が薄くなる。空に走った黒い裂け目が、今度は消えずに残っていた。
ひび、というより傷だった。
青白い空の真ん中に、細く黒い線が一本。
それが、じわりと広がっていく。
「……空が」
誰かがそう言った。
たぶん観測局の男だったのだろうが、声は最後まで形にならなかった。
エドは縄を無理やり引きちぎろうとした。
腕に食い込む。皮膚が裂ける。構わない。
「リリア!」
返事はない。
いや、返事の代わりに、幕の向こうで何かが消えた。
最初に消えたのは、馬だった。
外で怯えて暴れていた一頭が、前脚を上げたまま、首から先を失った。血も飛ばない。倒れもしない。ただ、そこだけが世界から抜け落ちたみたいに消え、その次の瞬間には胴体まで崩れるように消失した。
それを見た若い兵が、青ざめて後ずさる。
「う、そだろ……」
その顔の半分が、遅れて薄くなっていた。
完全には消えていない。
だが頬から耳にかけての輪郭が、削り取られかけた壁みたいに曖昧になっている。
兵は悲鳴を上げた、はずだった。
けれどその音も途中で消えた。
「抑制杭がもたない!」
法衣の女が叫ぶ。
地面に打ち込まれた杭の光は、もう安定していなかった。明滅を繰り返し、ひび割れる寸前の灯みたいに震えている。
ミレナが兵をひとり蹴り飛ばし、その隙にエドの縄へ剣を叩きつけた。
「動ける!?」
「動く!」
縄が切れる。
エドはすぐ立ち上がったが、脇腹の痛みで一瞬視界がぶれた。けれど止まる気はない。
黒い幕へ突っ込む。
途中、観測局の男が何か言おうとしたが、もう聞いていなかった。
幕を引き裂いた先には、地獄みたいな光景が広がっていた。
空が裂けている。
ほんの細い傷だったはずのものが、今は空の端から端へ伸びる黒い亀裂になっていた。
その周囲だけ、青空が砕けたガラスみたいに細かく歪んでいる。
地面もおかしかった。
詰め所の前の石畳が一部だけ消え、土の道が途中から途切れている。草は風に揺れているのに、揺れた先から葉の先端だけが消えたり戻ったりしていた。
そして、その中心にリリアがいた。
法衣の女と若い女兵に腕を取られていたはずなのに、今は二人とも手を放して後ずさっている。
近づけないのだ。
リリアの周囲だけ、空気が透明に濁っていた。
そこにあるのに、そこにないみたいな、不安定な歪み。
「おとうさん!!」
今度こそ、声がはっきり届いた。
エドは走る。
「リリア!」
だが、その間にも人が消える。
法衣の女の足元に落ちていた木箱が消え、次にその影が消えた。後ろの兵の槍の穂先が消え、遅れて持ち手の指が一本消えた。
誰かが倒れる。誰かが祈る。誰かが逃げようとして、途中で姿の半分を失った。
もう、誰にも制御できる段階ではなかった。
「下がれ!!」
観測局の男が叫ぶ。
「全員、距離を取れ!」
遅い、とミレナは思った。
いまさら距離を取って何になる。最初からやるべきじゃなかったのだ。
それでも彼女は動いた。
エドの後ろから追い、横から飛び出してきた兵を鞘で殴り倒す。今は敵味方なんてどうでもいい。リリアの近くに余計な人間がいるだけで危ない。
「エド! 早く!」
「わかってる!」
リリアは泣いていた。
ただ泣いているだけではない。
泣きながら、必死に何かをこらえている顔だった。消したいわけじゃない。壊したいわけでもない。ただ怖くて、怖すぎて、世界のほうが勝手に壊れていく。
「やだ……やだ、やだ……!」
その声に合わせて、空の裂け目がさらに広がった。
今度は音が遅れてやってきた。
空そのものが軋むような、聞いたことのないひどい音だった。
詰め所の残っていた壁が、上から三分の一だけ消えた。崩れるのではなく、最初からそこになかったみたいに消失する。
向こうの林でも、木が二本まとめて消え、その向こうの景色がむき出しになる。
「これはもう災害だ……」
観測局の男が、顔を失いかけた兵を支えながら呆然と言った。
誰かの責任とか、保護とか確保とか、そんな段階はとっくに終わっている。
これはもう、止められなければ辺り一帯を飲み込む。
エドは、あと一歩で届く距離まで辿り着いた。
「見ろ!」
両肩を掴む。
リリアの瞳は涙で揺れていた。焦点も危うい。それでも、エドを見た瞬間だけ、ほんの少しだけ色が戻る。
「おとうさん……」
「いる」
エドは息を切らしながら言う。
「ここにいる」
「ほんと……?」
「ほんとだ」
その背後で、空がまた裂ける。
今度は横ではなく、縦に。
黒い筋が落ちるみたいに走り、その下にあった道が十歩ぶんほど、ごっそり消えた。兵がひとり巻き込まれたが、叫び声は最後まで続かなかった。
ミレナが顔をしかめる。
「エド、ここじゃ止まらない!」
「わかってる!」
けれど、今は離れられない。
離れた瞬間に、また崩れる。
リリアはエドの服を両手で掴み、縋るみたいに言った。
「ひとり、やだ……」
「ひとりにしない」
「うそじゃない……?」
「嘘じゃない」
エドは額を娘の額にぶつけるように寄せた。
「いい子だ」
その言葉で、リリアの呼吸が少しだけ戻る。
「お前は、いい子だ」
「……でも、みんな……」
「今は見なくていい」
周囲ではまだ人が逃げていた。
逃げきれた者もいる。消えた者もいる。膝をついたまま動けない者もいる。
法衣の女は地面に手をつき、震えながらリリアを見ていた。
さっきまで“保護”と言っていた顔ではない。理解の外にあるものを前にした、人間の顔だった。
「こんな、はずでは……」
観測局の男も何も答えない。
彼らの理屈では、ここまで一気に崩れる想定ではなかったのだろう。
だがエドには、そんなことはどうでもよかった。
「リリア」
「……うん」
「俺だけ見ろ」
何度も言ってきた言葉だった。
けれど今は、その言葉にすがるしかない。
「ちゃんといる」
リリアの目から、ぽろぽろと涙が落ちる。
「……ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
ほんのわずかだが、周囲の歪みが弱まる。
空の裂け目は消えない。地面の欠落も止まらない。だが、少なくともリリアのすぐ周りだけは、少しだけ輪郭を取り戻した。
それを見て、ミレナが低く言う。
「……一時的には戻せる」
「一時的で充分だ」
「よくない」
「知るか」
その返しに、ミレナはなぜか少しだけ笑いそうになって、すぐやめた。
こんな状況でも、この男は結局そこへ行く。
世界より先に、この子を落ち着かせようとする。
ひどく愚かで、でもたぶんそれしか正解がない。
空の裂け目の向こうで、また何かが鳴いた。
あの“泣き声みたいな音”だった。
今度はエドにも、ミレナにも、はっきり聞こえる。
世界のどこかが、悲鳴を上げているみたいだった。
リリアがびくっと震える。
「……きこえる」
「聞かなくていい」
エドは言う。
「今は俺の声だけ聞け」
そのとき、少し離れた場所に立っていたユリウスが、崩れた石壁の陰から姿を現した。
いつからそこにいたのか、誰も気づいていなかった。
外套は土で汚れ、眼鏡もずれている。それでも目だけは異様に冴えていた。
彼は裂けた空と、泣いているリリアと、娘を抱えるエドを見て、低く呟く。
「……やはり」
ミレナが睨む。
「最悪のタイミングね」
「観測どころじゃないだろ」
エドも吐き捨てる。
だがユリウスは目を離さない。
「もう前段ではない」
その言葉だけが、妙にはっきり聞こえた。
空がまた裂ける。
世界がもう一段、壊れ始める。
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