第14話 分離
その日は、日が落ちる前に隠れ場所を見つけられなかった。
林を抜け、石だらけの細い道を進み、ようやく見つけたのは、崩れかけた街道脇の詰め所だった。昔は見張りに使われていたのだろう。壁は半分崩れ、屋根も穴だらけだが、背を隠すくらいはできる。
「今日はここだ」
エドが言うと、リリアは周囲を見回してから、小さく聞いた。
「ちゃんと、ここいる?」
「いるよ」
「ずっと?」
「見えるところにはいる」
その返事に、リリアはようやく少しだけ肩の力を抜いた。
だが、ミレナの顔はずっと険しいままだった。
「静かすぎる」
「またそれか」
「今度は本気で嫌なやつ」
ミレナは崩れた壁の向こうを見ながら言う。
「鳥もいない。風の音も変」
エドも耳を澄ませる。
たしかに妙だった。山道の夕方にしては、音が少なすぎる。
リリアがエドの袖を掴む。
「おとうさん」
「ん?」
「きょう、へんなおと、しない」
「しないほうがいいだろ」
「うん……でも、こわい」
それはエドにも少しわかった。
何も聞こえない静けさのほうが、かえって嫌な時もある。
火はつけなかった。目立つからだ。
水だけ飲み、硬いパンを少し齧る。今日の夜は、それで済ませるしかない。
「交代で見張る」
ミレナが言った。
「私が先」
「いや、俺が――」
「今日は譲らない」
その言い方が妙に強かったので、エドは言い返すのをやめた。
リリアはパンを両手で持ったまま、何度もエドの顔を見ている。
「おとうさん」
「ん?」
「ねるときも、いる?」
「いるよ」
「ほんと?」
「ほんとだ」
その約束で、ようやくひとくち食べた。
夜は完全に落ちる前に始まった。
最初に気づいたのは、ミレナだった。
「伏せて!」
鋭い声と同時に、崩れた壁へ何本もの短矢が突き刺さる。石が砕け、乾いた音が散った。
エドは反射的にリリアを抱え、床に転がった。
ミレナは剣を抜き、入口側へ飛ぶ。
「囲まれてる!」
外から足音がする。ひとつやふたつではない。崩れた詰め所を半円に囲むように、人が動く気配があった。
「観測局か」
エドが低く言うと、すぐ外から返事が来た。
「観測局、および教会監理部です」
聞き覚えのある、あの法衣の女の声だった。
「抵抗をやめてください。対象の安全を最優先に確保します」
「またそれか」
ミレナが吐き捨てる。
次の瞬間、入口に三人、崩れた壁の向こうに二人。さらに背後にも気配がある。
昼間の三騎どころではない。本気だ。
法衣の女の隣には、黒い軽鎧を着た男が立っていた。昨日の観測局の男だ。今日はさらに後ろに、槍を持った兵もいる。
「父親エド」
男が言う。
「同行を認めます。ただし、対象は分離して保護する」
「断る」
「拒否権はありません」
その言い方で十分だった。
リリアがエドの腕の中で震える。
「おとうさん」
「大丈夫だ」
エドはすぐに答える。
「離れない」
だがその直後、崩れた屋根の上から重い網が落ちてきた。狙いはエドではない。リリアを包むように落ちたそれを、エドは咄嗟に肩で受けて弾く。
網の端についた金具が石床にぶつかり、鈍い音が響いた。
「ちっ」
ミレナが一人目に斬りかかる。相手も素人ではない。短剣で受け、すぐ後ろの兵が間合いを詰める。狭い場所では剣筋が制限される。ミレナは一人倒したが、すぐ次が来る。
「数が多すぎる!」
「わかってる!」
エドはリリアを庇いながら後ろへ下がる。
だが後ろは崩れた壁だ。逃げ道はない。
「お願いです」
法衣の女が言う。
「その子を渡してください。今ならまだ穏便に――」
「穏便に人を奪うな」
エドが低く返した瞬間、横から何かが飛んできた。
短い棒状の矢だった。
エドは避けきれず、脇腹に受ける。刃ではない。だが衝撃が強く、息が詰まった。
「っ……!」
膝がぶれる。
その隙を、相手は待っていたのだろう。
床へ打ち込まれた金具が一斉に光り、詰め所の内側だけ空気が重く沈んだ。音が鈍る。風が止まる。
リリアがびくりと震えた。
「抑制杭……!」
ミレナが顔色を変える。
観測局の男が冷静に言う。
「対象の発現を遅らせるだけです。完全には止まりません。だからこそ早く分離してください」
「ふざけるな!」
エドが怒鳴る。
だが次の瞬間、二人の兵が前に出て、エドだけを狙って組みついてきた。
父親を引きはがす。最初からそれが目的だったのだ。
「リリア、下がれ!」
エドは兵の肩を殴りつけるが、脇腹の痛みで力が入らない。もう一人が腕を抑え、背後から縄を回す。
「おとうさん!」
リリアの声が震える。
「やだ!」
「大丈夫だ!」
エドはもがきながら叫ぶ。
「見ろ、ここにいる!」
だが兵に引かれ、身体が半歩、また半歩と離される。
ほんのそれだけで、リリアの顔色が変わった。
「やだ……」
ミレナが残る一人を蹴り飛ばし、リリアの前に立つ。
「近づくな!」
だが法衣の女が詠唱めいた低い声を紡ぐと、足元の光が強くなり、ミレナの動きが一瞬だけ鈍る。そこへ槍の柄が肩に打ち込まれた。
「っ……!」
ミレナがよろめく。
その隙に、若い女兵がリリアへ手を伸ばした。
「怖がらなくていい。すぐ――」
「やだっ!!」
その叫びと同時に、詰め所の中の音が消えた。
完全な無音だった。
兵の口が動いているのに何も聞こえない。
崩れた壁の向こうの木々が揺れているのに、葉擦れの音ひとつしない。
そして、抑制杭の光が明滅を始める。
法衣の女が青ざめる。
「抑えきれない……!」
観測局の男も初めて余裕を失った。
「父親を前に出せ! 早く!」
兵たちがエドを引き戻そうとする。
だが縄が絡まり、脇腹の痛みでうまく動けない。
「リリア!」
エドは無理やり身体をひねった。
娘は完全に泣き顔だった。
エドが見えているのに、届かない。手を伸ばしても足りない。その距離が、この子にはもう耐えられない。
「おとうさん……!」
「いる!」
エドは叫ぶ。
「ここにいる!」
リリアの目が揺れる。
「ほんと……?」
「ほんとだ!」
兵に肩を押さえつけられながら、それでも前へ出ようとする。
「いい子だ、リリア! 見ろ、俺だ!」
その言葉に、リリアの呼吸が少しだけ止まる。
だが次の瞬間、観測局の男が叫んだ。
「今だ! 対象だけ外へ!」
若い女兵と法衣の女が同時に動く。
リリアの両腕を取った。
「やだ!!」
小さな身体が引かれる。
エドの中で何かが切れた。
「触るな!」
兵をひとり体当たりで弾き飛ばす。だが次の一瞬、背後から棒状の武器で脚を払われ、膝をつく。
視界が低くなる。
その高さから見えたのは、泣きながら腕を伸ばすリリアの顔だった。
「おとうさん! おとうさん!!」
「いる!」
エドは手を伸ばす。
指先が、ほんの少し届かない。
「ちゃんといる! ここだ!」
「やだ……やだ、ひとりやだ!!」
その叫びに合わせて、詰め所の壁の輪郭がぶれた。
石の端が薄くなり、床に落ちた網の金具が半分だけ消えかける。
法衣の女が悲鳴のような声を上げる。
「早く出して!」
次の瞬間、リリアの身体が入口の外へ半分引きずられた。
見える。
けれど遠い。
崩れた壁と人の身体が間に入り、エドからは半分しか見えない。
「おとうさん!!」
「リリア!!」
そこで、誰かが外から厚い布を引いた。
詰め所の入口を塞ぐ、黒い幕みたいなものだった。
視界が、途中で断ち切られた。
一気に、何も見えなくなる。
リリアの呼吸が壊れる音だけが、幕の向こうからかすかに聞こえた。
「ちゃんと、いる!?」
その声が、今まででいちばん小さく、いちばん届かなかった。
エドは縄を引きちぎりそうな勢いでもがく。
「いる!!」
叫ぶ。
「ここにいる! 大丈夫だ!」
だが、その声が本当に届いたかはわからない。
次の瞬間、幕の向こうで、何かが“割れた”音がした。
一拍遅れて、もう一度。
観測局の男の顔から、完全に余裕が消えた。
「……まずい」
ミレナが肩を押さえたまま、低く吐き捨てる。
「だから言ったのよ」
幕の向こうから、リリアの泣き声が聞こえる。
いや、泣き声だけではない。もっと別の何かが混じっていた。
空が、外で、ひび割れ始めていた。
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