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無能な父ですが、世界が壊れても娘だけは手放しません  作者: そらのことのは


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19話 帰る場所

 それから少し経って、季節がひとつ動いた。


 空の傷は、まだ残っている。


 高いところに細く走る黒い筋は、晴れた日ほどよく見えた。初めて見た者は気味悪がり、慣れた者でも、ふと見上げた拍子に少しだけ黙る。

 けれど人は、いつまでも空ばかり見てはいられない。


 腹は減るし、水もいる。壊れた柵は直さなければならないし、消えた橋の代わりに板を渡す者もいる。そうやって、少し壊れた世界の上で、日々は思っていたよりしぶとく続いていった。


 エドたちが落ち着いた家も、相変わらず古かった。


 町はずれの坂の下。半分傾いた石垣のそばに建つ小さな平屋だ。雨の日は屋根のどこかが鳴り、朝は窓の隙間から風が入る。立派とは言えない。

 それでも、帰る場所と呼ぶには十分だった。


「おとうさん」


 朝、台所の椅子の上からリリアが顔を出す。


「パン、まだ?」


「まだだ」


「いいにおいする」


「焦げる前のにおいかもしれん」


 そう言いながらひっくり返した丸パンは、案の定、片面が少し黒かった。


 リリアがじっと見る。


「……こげてる」


「少しだけだ」


「しっぱい?」


「朝から厳しいな」


 エドがそう返すと、リリアは小さく笑った。


 その笑い方は、前よりずっと自然だった。


 もちろん、全部が元通りになったわけではない。夜中に目を覚まして袖を探すことは今でもある。人の多い場所ではまだエドの服を握るし、空の傷を見上げて黙りこむ日もある。

 それでも、前みたいに、それだけで壊れそうになることは減った。


 リリアは焼けたパンを受け取り、両手で持ったまま聞く。


「おとうさん、きょうもいく?」


「ああ。井戸の縁の続きだ」


 町外れには、半分だけ欠けたまま残っている古い井戸がある。水はまだ使えるが、縁の一部が綺麗に消えたままで、皆なんとなく近づきたがらない。だからこそ、人手がいる。


 もっとも、エドは器用ではない。

 荷運びも木組みも、昔と比べて急に上手くなったわけじゃない。相変わらず無能寄りだ。自分でもそう思う。


 けれど今のこの町では、壊れたもののあと始末をする手が足りない。うまくなくても、いるだけで助かる仕事がある。


「ちゃんとかえる?」


 リリアが聞く。


「帰るよ」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


 その返事で、ようやく少し安心したようにパンをかじった。


 勝手口の外から、聞き慣れた声がした。


「朝から確認が多いわね」


 ミレナだった。


 腕を組んで、戸口にもたれている。怪我はもうだいぶ良くなったが、肩を強く回すとまだ少し痛むらしい。今ではこの家に出入りするのも、かなり自然になっていた。


「ノックくらいしろ」


「したわよ。あんたが気づかなかっただけ」


「気づいてないなら同じだろ」


 ミレナは鼻で笑ってから、リリアを見る。


「おはよう」


「おはよう」


 リリアもちゃんと返す。

 少し前までなら、朝いちばんに気配が増えるだけで緊張していた。けれど、ミレナはもうそういう相手ではなくなっていた。


「今日は私と水汲み行く?」


 ミレナが聞くと、リリアは少しだけ考えた。


「……おとうさん、かえってくる?」


「帰ってくるよ」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


 それを聞いて、ようやくこくりとうなずく。


「じゃあ、いく」


 ミレナがほんの少しだけ目を丸くした。


「へえ」


「なんだ」


「いや。前よりちゃんと進んでるんだなって」


 エドは返事をせず、リリアを見る。


 娘はまだ少し不安そうだった。けれど、その不安を抱えたままでも、半歩くらいはエドのそばを離れられるようになっている。


 それで十分だった。


 外へ出ると、町はもう動き始めていた。


 空の高いところには今も傷が残る。

 晴れた日は、あれが少しだけ広がったように見えることがある。

 消えた橋には仮板が渡され、欠けた壁には新しい木材が打たれ、空白のまま残る場所のまわりには柵が立っている。

 元通りではない。

 きっともう、完全には戻らない。


 それでも人は起きて、飯を作って、井戸を汲む。子どもは走り、誰かが失敗し、誰かがそれを笑う。そうやって、壊れたままの世界に新しい日常が重ねられていく。


 井戸のそばには、すでに何人か集まっていた。


「遅いぞ、エド」


「朝飯があった」


「また娘に引き留められたのか」


「まあな」


 からかわれても、前ほど嫌ではなかった。

 この町の人間は、何も知らないわけではない。空の傷の夜に何があったか、どこまで正確かはともかく、何かが起きたとは皆知っている。


 それでも今ここで、エドが“娘の父親”として呼ばれているなら、それでいいと思えた。


「板こっちな」


「わかった」


 返事をして持ち上げた木材は、思ったより重い。


「……やっぱり無能では?」


 思わず漏らすと、隣の男が笑った。


「今さらだろ」


「ひどいな」


「でも来てるだけましだ」


 それはたぶん、本音だった。


 昼過ぎ、仕事を終えて家に戻ると、玄関の前に小さな影があった。


 リリアだ。


 石段に座り、膝を抱えている。エドを見つけると、すぐに立ち上がった。


「おとうさん」


「どうした」


「……ちゃんとかえってきた」


「言っただろ」


「うん」


 それだけ言って、少しだけ安心したように息をつく。


 裏手からミレナが出てきた。


「井戸の桶をひっくり返した」


「わざとか」


「ちがう」


 リリアが即座に言い返す。


「すべっただけ」


「それを失敗って言うんだ」


 不安そうに見てくるので、エドは少し笑った。


「失敗してもいい」


「いいの?」


「次に転ばなければな」


 リリアはしばらく考えてから、こくりとうなずいた。


「じゃあ、つぎはがんばる」


「それでいい」


 夕方、三人で少し遅い食事をとった。


 焼いた豆と、薄いスープと、今日の残りのパン。豪華でも何でもない。けれど温かい湯気が上がっているだけで、十分だった。


 食べ終わったあと、家の前の石段に並んで座る。

 空は茜色で、その上に細い傷が一本だけ残っている。


「おとうさん」


「ん?」


「いま、えらい?」


 またそれを聞くのか、とエドは思う。

 けれどもう慣れている。


「えらいよ」


 すぐに答える。


「今日は水汲みに行ったし、失敗しても戻ってきた」


「……うん」


「それに、ちゃんと待てた」


 リリアは少しだけ胸を張る。


「そっか」


 その横顔を見ながら、エドは空を見た。


 世界は壊れた。

 完全には戻らない。

 これから先も、たぶん簡単ではない。


 それでも、ここに娘がいる。自分の隣で、今日も“ちゃんといる?”と聞いてくる。なら、そのたび答えればいいだけだと、今はそう思えた。


「リリア」


「ん?」


「帰ろうって言っただろ」


「うん」


「たぶん、ここがそうだ」


 リリアは少し驚いたように目を丸くして、それからゆっくり家を見た。傾いた屋根。古い扉。小さな窓。どこにでもあるような、少しだけ壊れた家だ。


「……おうち?」


「ああ」


「ちゃんと?」


「ちゃんとだ」


 その返事に、リリアはようやく笑った。


「そっか」


 その“そっか”は、今まででいちばん穏やかだった。


 風が吹く。

 空の傷は消えない。

 それでも、その下で笑う声は、ちゃんと残った。


 だから、今はこれでいい。


 世界が何度あの子を別の名で呼んでも、

 エドにとっては、最後まで娘だった。

ここまで読んでくださって、本当にありがとうございました。


この作品は、追放や最強や世界の異常といった要素がありつつも、いちばん書きたかったのは「娘を最後まで娘として扱う父の話」でした。

どれだけ周りに別の名前で呼ばれても、どれだけ“何かすごいもの”として見られても、父親だけは変わらない。その軸を最後までぶらさずに書けたのは、読んでくださる皆さまのおかげです。


エドは最後まで無能寄りのままでしたし、リリアも最後まで不安定で、世界も少し壊れたままです。

でも、だからこそこの親子には、完璧じゃないまま一緒に生きていってほしいと思っていました。強くて、でも泣き虫で、「ちゃんといる?」と何度も確かめる娘と、それに何度でも答える父。その関係を少しでも好きになっていただけたなら、とても嬉しいです。


ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。



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