第77話 休暇初手から工房へ向かうのですから、静かな始まりとは最初から縁がなかったのでしょうね
これはこれで、悪くありませんわ。
そう思えた翌朝、レオノーラは予定通り、工房へ向かう支度を整えていた。
ただし今回は、さすがに最初から完全武装ではない。
父ヴァルターの「完全装備で馬車から降りるな」という指示は、理屈としてはもっともだったからだ。
濃紺の実務服。
革手袋。
長靴。
断星は運ぶが、まだ背負わない。
胸当てや肩当て、小手や脛当ては別にまとめる。
その程度の自制は、今のレオノーラにもある。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は、だいぶ聞き分けの良い格好ですね」
出発前の玄関で、クラウスが静かに言った。
「失礼ですわね」
「いいえ、褒めています」
「どうして?」
「工房へ着く前から閣下になっていないので」
その言い方は少しだけ気に入らなかったが、否定もしづらい。
「今日は、あくまで移動中ですもの」
「では、工房へ着いたら?」
「必要なら整えますわ」
「やはり」
クラウスが小さく息を吐く。
馬車には父も母も同席しなかった。
今回はあくまで工房への顔出しであり、公爵家総出の訪問では大げさすぎるという判断である。
代わりに、家の者が数名。
それとクラウス。
「お父様は?」
馬車へ乗り込んでから、レオノーラが問う。
「執務です」
「お母様は?」
「“帰ってきたら全部聞く”と仰っていました」
それはだいぶ怖いですわね。
帝都へ入る道は、休暇入り直後ということもあって少し緩んだ空気があった。
商人。
職人。
休暇で戻る学生。
荷馬車の行き来。
学院の中とは違う流れだ。
「……やはり、外は外ですわね」
「どういう意味ですか」
クラウスが問う。
「学院の中では、どうしても人の視線が先に立ちましたでしょう?」
「ええ」
「ですが外では、物も道も時間も、先に動いておりますもの」
「なるほど」
「ですから、少しだけ息がしやすい気がいたしますわ」
それは本心だった。
今学期、学院で得たものは大きかった。
だが同時に、学院という場所は常に誰かの視線と判断の中にある。
そこから一度離れるだけで、だいぶ空気が違う。
工房へ着いた時、ゴルドはすでに外で待っていた。
「遅ぇ」
「早すぎるのではなくて?」
レオノーラが言うと、ゴルドは鼻を鳴らした。
「休暇入った直後の顔を見たかったんだよ」
「どうしてですの」
「どうせ妙な格好で来ると思ってたからだ」
言いながら、その視線がレオノーラの服へ落ちる。
そして、まとめられた荷へ移る。
「……ほう」
その一言で、だいたい理解されたらしい。
「今はまだ控えめですわよ」
「その荷に入ってる分まで込みだろ」
「ええ」
「やっぱりな」
ゴルドは妙に楽しそうだった。
「中入れ」
工房の空気は、相変わらず熱と金属と油の匂いに満ちていた。
落ち着く。
少なくともレオノーラには、かなり。
「断星を出せ」
「ええ」
布をほどき、断星を置く。
ゴルドはすぐには触らず、まず全体を見た。
「休暇仕様、ねぇ」
「そう仰っていたでしょう?」
「言った」
「ですから、その通りにいたしましたわ」
「剣だけじゃねえ」
ゴルドは視線を上げる。
「服もだ」
「ええ」
「見たいと仰ったでしょう?」
「言った」
「ですから」
「お前、そういうとこだけ律儀だな」
何だか微妙な評価ですわね。
レオノーラは荷を開いた。
革手袋。
胸当て。
肩当て。
小手。
脛当て。
長靴。
工房の若い職人たちが、明らかに手を止めてこちらを見ている。
「何ですの」
「いや」
一人が口を開く。
「本当に揃えたんだなって」
「必要でしたもの」
「必要、ねえ」
その返しに、ゴルドが笑った。
「おい、坊主ども」
「はい」
「今から見るのは、“変な貴族令嬢の趣味”じゃねえ」
「はい」
「理屈を通した結果、だいぶ危ないところまで来た実例だ」
それはどうなのかしら。
だが、そこまで外れてもいないのが少し嫌だった。
「着ろ」
ゴルドが言う。
「ここで?」
「ここでだ」
「どうして?」
「断星との噛み合わせを見るんだろうが」
それは、たしかにそうだった。
工房の一角、仕切りの向こうで着替え、装備を整える。
肩を回す。
重心を確かめる。
最後に断星を背負う。
仕切りから出た瞬間、工房が少し静かになった。
レオノーラは、それに少しだけ眉を寄せる。
「何ですの」
「いや」
若い職人の一人が呟く。
「やっぱり、だいぶそう見えるなって」
「何にですの」
その問いには、ゴルドが答えた。
「剣聖」
短い。
だが工房の空気は、全員それで通じた顔をした。
大変不本意ですわね。
「見た目の話でしょう?」
レオノーラが言うと、ゴルドは首を振った。
「半分はな」
「残り半分は?」
「お前がその格好を、“必要だから”って顔で着てることだ」
その一言は、少しだけ胸に落ちた。
飾りではない。
仮装でもない。
必要だから着ている。
それが見た目を押し切ってしまうのだろう。
「で」
ゴルドは断星へ顎をしゃくる。
「抜け」
「ええ」
断星を抜く。
工房の中なので、当然大きくは振らない。
構え、重さを乗せ、肩と背、腰と脚との繋がりを確かめる。
数呼吸。
それだけで十分だった。
「どうですの」
「悪くねえ」
ゴルドが言う。
「悪くねえどころか、かなりいい」
「本当?」
「本当だ」
「だが」
やはりただしは来ますのね。
「何かしら」
「肩当て、もう少し逃がせる」
「逃がす?」
「断星の初動で、一瞬だけ線が硬くなる」
レオノーラはすぐにもう一度構えた。
たしかに、ほんのわずかだが右肩の入りが遅れる。
「……本当ですわね」
「だろ」
「直せる?」
「工房を何だと思ってる」
その返しは頼もしかった。
装備はすぐに分解され、当て具の角度や革紐の位置が細かく見直されていく。
その様子を見ながら、レオノーラは少しだけ思う。
これですわね。
学院ではなく、工房。
評価ではなく、調整。
人の視線ではなく、機能の話。
自分にはやはり、こういう空気も必要なのだ。
「顔が戻ったな」
ゴルドが言う。
「何がかしら」
「学院の顔じゃねえ」
「では?」
「今の自分の剣と道具を前にした時の顔だ」
それは少しだけ、嬉しい指摘だった。
「そうかもしれませんわね」
「で、第二案と第三案だが」
来ますのね。
レオノーラは自然と姿勢を正した。
「ええ」
「今すぐどうこうじゃねえ」
「ええ」
「だが、休暇中に一回は頭を整理しとけ」
「何を?」
「お前がどこまでを“今すぐ欲しい力”で、どこからを“まだ背負えない力”と見てるかだ」
その問いは重かった。
だが、今なら少しだけ考えられる気もした。
「……承知しましたわ」
「答えは急がなくていい」
「ええ」
「ただ、森へ行く前に少しは自分で言葉にしろ」
ゴルドがそう言うなら、たぶん必要なのだろう。
装備の微調整が終わる頃には、日も少し傾いていた。
帰り支度を整えながら、レオノーラは断星へ触れる。
今の剣。
今の装備。
今の自分。
少なくとも、それらは少しずつ噛み合ってきている。
「お姉様」
クラウスが低く言う。
「何かしら」
「だいぶ機嫌が良いですね」
「そうかしら」
「ええ」
「工房へ来て、断星と装備の話をして、顔がかなり落ち着きました」
否定はできなかった。
「学院の外で動く番、と申しましたでしょう?」
「ええ」
「たぶん、こういうことですわ」
帰りの馬車へ乗り込む時、ゴルドが最後に言った。
「次は森だろ」
「ええ」
「笑われるなよ」
その一言に、レオノーラは少しだけ口元を緩めた。
「それは、向こう次第ですわね」
少なくとも、休暇の初手は悪くなかった。
静かではない。
だが悪くない。
そう思えた時点で、この夏の始まりとしては十分だった。




