幕間 公爵領騎士団長、ついに公爵騎士団総長服を仕立てて献上し、父はもう諦めるしかなかった件
アルトヴァイス公爵領において、実務とは時に諦めの上に成り立つ。
少なくとも、この日のヴァルターはそう思っていた。
領地内に限り、レオノーラの実務服と完全武装を許可する。
あの第2回家族会議で、そう結論づけた時点で、いずれ何かが起きるとは予想していた。
していたのだが。
「そこまで早いとは思わなかった」
執務室で、ヴァルターは低く言った。
「何がかしら」
母エレオノーラが問う。
「騎士団長が、そこへ食いつく速度だ」
机の上には、一通の正式な願い出が置かれている。
差出人。
アルトヴァイス公爵領騎士団長、ガルム・ベッカー。
内容は、要するにこうだった。
領内でレオノーラ様の実務服着用が許可されたのであれば、半端な形ではなく、公爵領の規律と威を備えた正式な実務服を新たに仕立て、公爵家長女へ献上したい。
しかも最後に、余計な一文まで付いていた。
現実問題として、レオノーラ様は帝国最強であらせられる以上、公爵領最強でもあらせられる。
ならば、公爵領の武を象徴する装いをお召しいただくのは、むしろ自然である。
ヴァルターは、その一文を三度読んで、三度とも同じところで眉間を押さえた。
「理屈が通りすぎている」
「そうね」
母も深く頷く。
「嫌になるくらいに」
そこへクラウスが来た。
「呼ばれましたか」
「ああ」
ヴァルターは紙を差し出す。
「読め」
クラウスは静かに目を通し、数秒後、ごく落ち着いて言った。
「……かなり筋が通っていますね」
「お前までそう言うな」
「ですが、事実でもあります」
「何がだ」
「お姉様が帝国最強であり、公爵領最強でもあることです」
そこを、そんなに静かに肯定しないでいただきたい。
ヴァルターは椅子の背へ深くもたれた。
「問題は、理屈ではない」
「では?」
クラウスが問う。
「似合うことだ」
その瞬間、部屋の空気が少しだけ沈んだ。
誰も否定しない。
それがいちばん嫌だった。
「呼ぶしかないわね」
母が言う。
「ええ」
「本人を?」
「もちろんよ」
数分後。
レオノーラは、たいへん穏やかな顔で執務室へ入ってきた。
穏やかすぎて、逆に不穏だった。
「お父様、お母様、クラウス」
「座れ」
父の声が低い。
「何か問題でも?」
「問題しかない」
ヴァルターは紙を渡した。
「読め」
レオノーラは静かに目を通す。
最初の数行は平然としていた。
だが“公爵騎士団総長服”のあたりで、ほんの少しだけ目が輝いた。
その変化を、父と母とクラウスは見逃さなかった。
「……おい」
「何かしら」
「今、嬉しかったな」
「少しだけ」
「少しではないわね」
母が言う。
「かなりよね」
レオノーラは咳払いを一つした。
「ですが、落ち着いて考えれば」
「ええ」
「公爵領騎士団長が、領内実務の象徴としてそう考えるのは、理解できますわ」
「理解するな」
「どうしてですの」
「理解した上で嬉しそうにするな」
だがレオノーラは止まらなかった。
「だって」
「何だ」
「公爵領騎士団服ではなく」
「ええ」
「公爵騎士団総長服、とわざわざ書いてありますもの」
そこへ食いつくな。
ヴァルターは本気でそう思った。
「お前」
「何かしら」
「そこに一番反応するな」
「どうして?」
「危険だからだ」
クラウスが静かに補足する。
「お姉様」
「何かしら」
「たぶん騎士団長は、“最高位の意匠を与えることで満足していただこう”くらいのつもりです」
「ええ」
「ですがお姉様は、そう書かれると“では着てもよいのですね”へ進みます」
レオノーラは少しだけ首を傾げた。
「違うの?」
「違います」
「かなり」
母が言った。
そこへ、当の騎士団長ガルム・ベッカー本人が通された。
大柄な男である。
五十に届くか届かないか。
古傷の多い顔。
礼は崩さないが、武人らしい直線の気配が強い。
「公爵閣下」
「来たか」
「お呼びとあらば」
ガルムは視線をレオノーラへ向け、深く一礼した。
「レオノーラ様」
「騎士団長」
そのやり取りだけで、ヴァルターは少し嫌な予感を強めた。
妙に空気が合っている。
「さて」
父が言う。
「これはどういうつもりだ」
「書いた通りです」
ガルムは一歩も引かない。
「領内において、レオノーラ様へ実務服着用の許可が下りた以上」
「ええ」
「ならば半端な私物ではなく、公爵領の武を象徴する正式な形があるべきかと」
「正式な形、だと」
「はい」
「しかも総長服?」
「はい」
「なぜそこまで上げる」
ガルムは、実に真顔で答えた。
「事実だからです」
室内が静まる。
「何がだ」
「レオノーラ様は、帝国最強であらせられます」
「……」
「ならば、公爵領最強でもあらせられる」
「……」
「ならば、公爵領騎士団の象徴に最も近い装いをお召しいただくのは、自然かと」
ヴァルターは思った。
だからその理屈が通るのが嫌なのだと。
「騎士団長」
母が穏やかに言う。
「はい」
「あなた、少し楽しんでいないかしら」
「少しは」
認めるな。
だが、その少しが本当に少しなのも分かった。
この男は、本気でそう思っている。
「お前はどう思う」
父がレオノーラへ問う。
レオノーラは、ほんの少しだけ考えた。
だが答えは速かった。
「領内限定なら、理にかなっておりますわね」
終わった。
「どうしてですの?」
レオノーラは続ける。
「領内での鍛錬」
「ええ」
「森や工房への往来」
「ええ」
「領地内実務」
「ええ」
「その際、ただ動きやすいだけの服より」
「ええ」
「公爵領の規律と立場を示せる装いの方が、整っておりますもの」
母が目を閉じた。
クラウスが静かに視線を伏せた。
ヴァルターは、本気で頭痛を覚え始めた。
「見たか」
父が低く言う。
「ええ」
母が答える。
「本人の中では、もう着る理由まで通っているわ」
「お姉様」
クラウスが静かに言う。
「何かしら」
「そこまで自然に受け入れないでください」
「どうして?」
「家族が止めにくくなります」
ガルムがそこで、やや控えめに口を開いた。
「公爵閣下」
「何だ」
「もちろん、帝都や学院へ持ち出す前提ではありません」
「ええ」
「領内限定」
「ええ」
「しかも、実戦装束ではなく、あくまで儀礼と実務の中間に置きます」
「中間?」
母が問う。
「はい。威は示すが、過剰な威圧にはしない」
「動けるが、軍装には見せすぎない」
「しかし見た時に、公爵領の武の中心が誰かは分かる」
その設計思想が、また嫌になるほど上手かった。
「……似合うわね」
母がぽつりと呟く。
「似合うな」
父も認めざるを得なかった。
「やはり」
クラウスも小さく頷く。
「どうして皆さま、そんなに暗いの?」
レオノーラが問う。
「似合うなら、よろしいではありませんの」
「そこだ」
父が言う。
「そこなのだ」
しばし沈黙。
それからヴァルターは、重々しく息を吐いた。
「……もうよい」
「お父様?」
「領地内で実務服を許可した時点で、ここまで来る可能性はあった」
「ええ」
「止め切れる理屈でもない」
「ええ」
「なら、半端に抵抗して妙な私製改造をされるより」
レオノーラが少しだけ目を逸らした。
心当たりがある顔だった。
「正式に仕立てた方がまだましだ」
母が小さく笑った。
「ついに諦めたのね」
「諦めた」
ヴァルターは断言した。
「ただし条件がある」
「伺いますわ」
「領内限定」
「ええ」
「公式の場か、鍛錬か、合理的な実務に限る」
「ええ」
「帝都と学院への持ち出しは禁止」
「ええ」
「そして」
父はガルムを見た。
「総長服、と呼ぶな」
「……では?」
「公爵騎士団特務正装くらいにしておけ」
ガルムが、ほんの少しだけ残念そうな顔をした。
「承知しました」
そこ、残念がるところなの?
だがレオノーラは違った。
「特務正装」
少しだけその響きを口の中で転がし、静かに頷く。
「悪くありませんわね」
「お前はもう少し抵抗しろ」
父が言う。
「どうしてですの?」
「話が進みすぎる」
「ですが、お父様」
「何だ」
「事実、わたくしは帝国最強であり」
「そこで止まれ」
「公爵領最強でもありますでしょう?」
ガルムが、無言で深く頷いた。
やめろ。
そこで頷くな。
ヴァルターは、ついに椅子へ深くもたれた。
「……もういい」
「諦めが早いですわね」
「遅いくらいだ」
その日のうちに、正式な採寸が決まった。
公爵騎士団総長服ではない。
特務正装。
領内限定。
儀礼と実務の中間。
そういう建前のもと、新たな一着が動き始める。
会議が終わり、自室へ戻る途中。
クラウスが静かに言った。
「お姉様」
「何かしら」
「ずいぶん機嫌がよろしいですね」
「そうかしら」
「ええ」
「どうしてだと思う?」
「本当は“総長服”が良かったけれど、“特務正装”でもだいぶ勝った、と思っておられます」
レオノーラは、ほんの少しだけ笑った。
「……かなり鋭いですわね」
「お姉様だからです」
その返しに、レオノーラは否定しなかった。
なぜなら本当に、その通りだったからである。
領地内。
限定運用。
正式仕立て。
公爵領の武の象徴に近い一着。
父は諦めた。
家族も半ば認めた。
騎士団長は本気だった。
ならばもう、整えるしかない。
「……悪くありませんわ」
小さくそう呟く。
壁際の断星は、何も言わずに立っていた。
だが今日ばかりは、少なくとも反対はしていない気がした。
それだけで、今は十分だった。




