第74話 たぶん次は学院の外で動く番ですわと申した直後に限って、学院の中でもう一つだけ整えておくべき話が残っているのは、本当にこの世界らしいですわね
たぶん次は、学院の外で動く番ですわ。
そう口にした翌朝。
レオノーラは、やはり少しだけ甘かったかもしれないと思っていた。
学院へ向かう馬車の中で、クラウスが静かに茶器を置く。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は少しだけ、昨日より現実的な顔です」
「どういう意味かしら」
「昨日は、“もう学院は静まる”と思っておられました」
「ええ」
「今日は、“静まる前に一つか二つは残る”と理解した顔です」
嫌ですわね。
その分析、かなり当たっておりますわ。
「だって」
レオノーラは窓の外を見ながら言う。
「終業前というものは、静かになるようでいて」
「ええ」
「最後に細かな整理が増えますもの」
「はい」
「しかも、そういう時ほど人間関係の方が残りやすい」
「なるほど」
学院へ着く。
空気は確かに落ち着いていた。
演習後の熱も、基礎編成班への補助のざわつきも、一段落している。
だが一方で、学期末特有の“まだ終わっていないものを拾う空気”もあった。
「おはようございます」
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはよう」
「おはようございます」
一組の教室も穏やかだ。
そして穏やかだからこそ、逆に小さな変化が見える。
アーネストが少しそわそわしている。
セシリアは何か紙を整えている。
リヒャルトは本を読んでいるが、読むふりの速度ではない。
ルークはいつも通りだが、いつもより早く来ている。
アルベルトは前方で静かに書類を見ている。
つまり、何かございますわね。
「何ですの」
席へ着きながらレオノーラが言うと、アーネストが即座に顔を上げた。
「やっぱ分かるか」
「分かりますわよ」
「どうして?」
「皆さま、穏やかなふりが少し雑ですもの」
それを聞いて、セシリアが小さく笑った。
「たしかに、そうかもしれませんわね」
「では、何かございますの?」
「ございます」
セシリアが紙を差し出す。
「何かしら」
「終業前の、任意提出です」
任意提出。
嫌な響きですわね。
「内容は?」
リヒャルトが静かに答えた。
「今学期の自己整理と、次学期へ持ち越す課題」
「なるほど」
「任意です」
「ええ」
「ですが、出すと教員側の把握が早い」
「ええ」
「そして、出さない自由もある」
つまり、自由だが微妙に出した方が良い類ですわね。
「誰が出しますの?」
レオノーラが問うと、アーネストが手を挙げた。
「俺は出す」
「珍しいですわね」
「失礼だな」
「どうして出そうと思いましたの?」
「一回ちゃんと整理しといた方が、次の学期で楽な気がする」
その理由は、実にまともだった。
「私もですわ」
セシリアが言う。
「わたくしも、今学期の途中から考えることが変わりましたもの」
「そうですわね」
リヒャルトも紙へ目を落とした。
「僕も出します」
「殿下は?」
「出す」
短い。
「先輩は?」
「一応な」
つまり、ほぼ全員出すのですね。
「レオノーラ様は?」
セシリアが穏やかに問う。
そこへ来ますわよね。
「……少し迷いますわね」
レオノーラは素直にそう言った。
「どうして?」
「書くことが、少し多すぎる気がいたしますもの」
それは本音だった。
断星。
森。
第一班。
基礎編成班。
強い個人と共同体。
そして、第二案と第三案。
整理しようと思えば、いくらでも書ける。
だが任意提出の紙一枚に収めるには、むしろ絞り込みの方が難しい。
「一つに絞ればいい」
アルベルトが前方から言う。
「何をですの?」
「今学期、お前が一番変わった点だ」
その問いは、思っていたより重かった。
「一番、ですの」
「そうだ」
レオノーラは、少しだけ考えた。
強くなった。
それは違う。
断星を得た。
それも大きい。
だが、それだけでもない。
「……止まり方、かしら」
「止まり方?」
アーネストが聞き返す。
「ええ」
「今学期の前半のわたくしは」
「ええ」
「前へ出るか、押し切るか、整えるか、だいたいそのあたりで考えておりました」
「ええ」
「ですが今は、どこで止まるか」
「ええ」
「そして、どう他者へ渡すか」
「ええ」
「そこまで考えるようになりましたもの」
数秒、教室の空気が静まる。
それからリヒャルトが言った。
「それで良いと思います」
「ええ」
「今学期の中心でもありました」
セシリアも頷く。
「わたくしもそう思います」
「第一班でも、基礎編成班でも、そこが変わりましたもの」
「つまり」
アーネストが少しだけ首を傾げる。
「前は“自分がどうするか”だったのが」
「ええ」
「今は“どこで止まって、どう回すか”になった?」
「そうですわね」
「何か、だいぶ難しくなってないか?」
「ええ」
「難しくなっておりますわよ」
即答すると、アーネストはなぜか少し安心したような顔になった。
「だよな」
「どうして、そこで安心するのです」
「いや、お前だけ平然と“余裕ですわ”みたいな顔してたら腹立つから」
「失礼ですわね」
そこへ、マグダ教員が入ってきた。
教室が自然と静まる。
「今日は、休暇前の確認と回収物の整理です」
「任意提出の紙も、出す者は昼までに」
「なお」
教員の視線が、教室を静かに見渡す。
「これは成績ではなく、把握のためのものです」
「自分を綺麗に書く必要はありません」
「むしろ、曖昧なまま終える課題が何かを、自分で見える形にしなさい」
それは、思っていたより良い言い方だった。
綺麗にまとめる必要はない。
曖昧な課題を見える形にする。
なら、少し書きやすい。
昼休み。
レオノーラは、窓際の席で紙を前にしていた。
珍しく、断星のことではなく、言葉の方で手が止まる。
「進んだこと」
「残ったこと」
「次へ持ち越すこと」
ペン先が紙の上で止まる。
「……意外と面倒ですわね」
「そうでしょうね」
向かいへ座ったのはセシリアだった。
「何かしら」
「レオノーラ様、こういう紙ほど真面目に悩まれそうだと思いまして」
「ええ」
「どうして分かるのです」
「断星や森のことは、もう形が見えておりますでしょう?」
「ええ」
「ですが、言葉で自分を整理するのは、少し違う面倒ですもの」
たいへんよく分かっておられますわね。
「セシリア様は、もうお書きになったの?」
「半分ほど」
「どのように?」
セシリアは自分の紙を少しだけ見た。
「わたくしは、“整理すること”が、必ずしも後ろに下がることではないと分かった、と書きました」
「……ああ」
「今までは」
「ええ」
「見る、整える、まとめる、は一歩引くことだと思っていたのです」
「ええ」
「でも今学期で、それも前へ出る形なのだと分かりました」
その言葉は、かなり綺麗だった。
そして、少しだけ羨ましかった。
「綺麗にお書きになるのね」
「綺麗というより」
セシリアは少し笑った。
「少しだけ、自分でも言葉にしておきたかったのです」
「それは、分かりますわ」
レオノーラは紙へ視線を戻す。
そして、ようやく一行目を書いた。
今学期、わたくしは“前へ出ること”だけでなく、“どこで止まり、どう他者へ役割を渡すか”を考えるようになりました。
そこまで書いて、少しだけ肩の力が抜けた。
「お姉様らしいですね」
いつの間にかクラウスがいた。
「いつから居たの?」
「少し前からです」
「気配を消さないでくださる?」
「消しておりません」
たぶん本当なのだろう。
こちらが考え込みすぎていただけだ。
「見たの?」
「最初の一行だけ」
「どうかしら」
「かなり正しいかと」
クラウスは静かに続ける。
「そこへ、もう一つ足すなら」
「何かしら」
「“強い人の動き方”ではなく、“強い人が共同体へどう入るか”を考えるようになった、でも良いかもしれません」
なるほど。
それも今学期の大きな変化だった。
「採用するかしら」
「お任せします」
レオノーラは少し考え、結局その文も末尾へ足した。
書き終えた紙は、見た目としては簡素だった。
だが、自分の中ではかなり整理が進んだ気がする。
「……思ったより悪くありませんわね」
「でしょう?」
セシリアが笑う。
「ええ」
「少しだけ」
任意提出を出し終えた午後は、驚くほど穏やかだった。
教員側も、終業前の空気をこれ以上乱さないようにしているのだろう。
回収物。
注意事項。
休暇中の過ごし方。
学院としての連絡。
それらが一つずつ淡々と置かれていく。
そして最後に、マグダ教員が言った。
「今学期は、例年より“個人の力量と共同体の関係”がよく見えた学期でした」
教室が静まる。
「強い者が、どう共同体へ入るか」
「見る者が、どう前へ出るか」
「決める者が、どう他者を使うか」
「各自、休暇中も少しだけ考えておきなさい」
考えたくはありませんわね。
そう思ったのは、たぶんレオノーラだけではなかった。
放課後。
帰りの馬車へ向かう途中、アルベルトが短く言った。
「出したか」
「何をですの?」
「任意提出だ」
「ええ」
「殿下も?」
「出した」
「何とお書きになったの?」
「長くない」
「存じておりますわ」
「“一人で決める方が速い場面と、そうでない場面を分ける必要がある”」
短い。
だが、妙に殿下らしかった。
「先輩は?」
レオノーラが問うと、ルークは肩をすくめた。
「“止めるだけではなく、使い方を考える”」
「やはり皆さま、そこへ行き着くのですね」
「今学期はそうだったからな」
セシリアも穏やかに頷く。
「ですから、休暇へ入っても完全には切れませんわね」
「嫌ですわね」
「ええ」
「かなり」
だが、それでも区切りではある。
学院の中で考えるべきことは、いったんここまで。
次は、学院の外で動く番だ。
馬車へ乗り込むと、クラウスが向かいで静かに言った。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は、だいぶ終業前らしい顔です」
「どういう顔かしら」
「一区切りついた顔です」
レオノーラは少しだけ窓の外を見た。
学院。
演習。
第一班。
基礎編成班。
断星。
森。
第二案。
第三案。
全部が綺麗に終わったわけではない。
だが、全部が次へ持ち越せる形にはなった気がする。
「……ええ」
小さく答える。
「それは、少し分かるかもしれませんわ」
「では」
クラウスが言う。
「次はいよいよ、夏ですね」
その言葉に、レオノーラは少しだけ口元を緩めた。
「ええ」
「今度こそ、本当に学院の外で動く番ですわ」




