第73話 誰とでもどう成立させるかの入口くらいには立てた気がいたしますけれど、入口に立てたからといって、その先が急に平坦になるわけではございませんのよね
それは、ほんの少しだけだった。
だが、たしかに前進だった。
だからこそ、その翌朝に学院へ向かう馬車の中で、レオノーラは少しだけ気が緩みそうになっていた。
入口に立てた。
断星は今の剣として落ち着きつつある。
基礎編成班への補助も、思っていたよりは悪くなかった。
なら、少しくらいは穏やかな日があってもよいのではなくて?
「お姉様」
「何かしら」
「今、少しだけ安心した顔をしていました」
向かいの席でクラウスが言う。
「ええ」
「珍しいですね」
「そうかしら」
「ええ。大抵は、次の面倒を先回りしている顔をなさいますので」
大変失礼ですわね。
だが、否定しづらいのが少し癪だった。
「今日は少しだけ、そうでもないのですわ」
「どうして?」
「基礎編成班の件が、思ったよりまともに終わりましたもの」
「なるほど」
「ですから」
レオノーラは窓の外へ目を向ける。
「今日は少しくらい、穏やかでも罰は当たらないと思いますの」
クラウスが、それを聞いて少しだけ黙った。
「お姉様」
「何かしら」
「そういうことを仰る日に限って、だいたい何かあります」
「やめてくださる?」
「経験則です」
学院へ着き、教室へ入る。
そして、空気を一息で吸った時点で、レオノーラはすぐ理解した。
「あら」
これは穏やかではありませんわね。
ざわついているわけではない。
だが、一組の空気が妙に浮いている。
重いわけではない。
むしろ逆だ。
何か少し、落ち着かない。
良くも悪くも、軽い。
「おはようございます」
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはよう」
「おはようございます」
返る挨拶も少しだけ弾んでいる。
アーネストなど、こちらを見るなり妙ににやついた顔をした。
「何ですの、その顔は」
「いや」
「ええ」
「今日はこっちじゃない」
その言い方もだいぶ嫌なのですけれど。
「では、どちらですの?」
「そっち」
そう言って、アーネストは前方を顎で示した。
視線を向ける。
アルベルト。
いつも通り机に着いている。
いつも通り背筋も伸びている。
いつも通り静かだ。
だが、机の横に花束がある。
数秒、レオノーラは何も言わなかった。
そしてようやく、静かに口を開く。
「……何ですの、あれは」
リヒャルトが本を閉じる。
「朝からその話題です」
「でしょうね」
「ええ」
セシリアが少し困ったように笑った。
「騎士科の別クラスの生徒たちが、演習と補助指導のお礼だそうです」
ああ。
なるほど。
なるほどではございませんわね。
なぜ花束になりますの?
「どうして花束なのかしら」
「わたくしに聞かれましても」
セシリアのその返しはもっともだった。
「しかも」
アーネストが愉快そうに言う。
「一つじゃない」
「はい?」
「今朝だけで三つ来た」
レオノーラは、ゆっくりとアルベルトの机を見る。
たしかによく見れば、一つではない。
大きいものが一つ。
小ぶりなものが二つ。
色味まで微妙に違う。
どういう事態ですの、それは。
「殿下」
レオノーラが声をかける。
「何だ」
当人は驚くほど平然としていた。
少しぐらい困惑していただけませんこと?
「その花は何ですの?」
「見ての通りだ」
「それは存じておりますわ」
「なら何だ」
「どうしてそんなに落ち着いておられるのです」
アルベルトはそこで、ようやく少しだけ息を吐いた。
「朝から同じ説明を五回した」
「……ご愁傷さまですわ」
「本当にそう思うなら、その顔をやめろ」
顔に出ていたらしい。
少しだけ可笑しかったのだ。
「事情は把握しましたわ」
「どう把握した」
「演習と補助指導で、別クラスの方々に妙な影響を与えたのですわね」
「妙な、ではない」
セシリアが柔らかく言う。
「たぶん、“きちんと見てくれた”のが嬉しかったのでしょう」
「それで花束ですの?」
「たぶん」
普通科の感性は時々分かりませんわね。
いや、貴族社会でも感謝に花はある。
あるのだが、学院の朝に皇太子の机へ三つ並ぶと、さすがに少し絵面が強い。
「ちなみに」
アーネストがにやにやしたまま言う。
「ルークのところには焼き菓子」
「はい」
「セシリアのところには手紙」
「ええ」
「で、お前のところには」
そこで一度区切るな。
「何ですの」
「何も来てない」
レオノーラは一瞬だけ黙った。
それから、静かに言う。
「よろしいではありませんの」
「即答かよ」
「だって面倒が増えずに済みますもの」
その返しに、一組の空気が少しだけ緩んだ。
アーネストは吹き出し、セシリアも口元を押さえる。
ルークでさえ、窓際でわずかに肩を揺らした。
「何ですの」
「いや」
アーネストが言う。
「そこで寂しいとかじゃないんだなって」
「どうして寂しがる必要があるのかしら」
「普通ちょっとは気にしないか?」
「いたしませんわ」
レオノーラは即答した。
「むしろ助かります」
そこへ、リヒャルトが淡々と挟む。
「理由は単純でしょう」
「何がですの」
「レオノーラ様に贈り物をしようとした場合」
「ええ」
「何を贈ればいいのか分からない」
少しだけ、教室が静まった。
「……どういう意味かしら」
「花は似合いますが、軽い」
「ええ」
「菓子は日常的すぎる」
「ええ」
「手紙は距離が近すぎる」
「ええ」
「結果として、何も選べない」
なるほど。
なるほどではございませんわね。
「それは、喜んでよいのかしら」
「評価としては高いのでは?」
セシリアが少し笑いながら言う。
「高いのですか?」
「ええ。少なくとも、“安く何かを贈れない存在”ということですもの」
それはまた、妙な言い方ですわね。
「お前の場合」
アーネストが言う。
「花を渡しても、“どうしてですの?”で終わりそうだし」
「ええ」
「菓子なら、“お気持ちはありがたいですけれど、なぜ?”になりそう」
「ええ」
「手紙はたぶん怖い」
「何ですの、その評価」
だが、否定しきれないのが少し悲しい。
「つまり」
レオノーラは静かにまとめた。
「皆さま、殿下には花を贈れるけれど、わたくしには贈れない、と」
「そういうことだろうな」
アルベルトが言った。
「どうしてそこで殿下は少し偉そうなのです」
「偉そうではない」
「だいぶ他人事の顔をしておられますわよ」
「俺は朝から花束三つだぞ」
それはそれで、かなり面倒そうだった。
「……少しだけ、お気の毒ですわね」
「少しだけか」
「かなり、ですわ」
そこへ、マグダ教員が入ってきた。
空気が締まる。
だが、教員は教壇へ立つ前に、アルベルトの机を一度見た。
そして、ごく短く言う。
「……朝から華やかですね」
駄目ですわ。
少し面白いですわ。
「先生まで」
アーネストが呻く。
「事実でしょう」
マグダ教員は淡々と言い、資料を置いた。
「さて、今日は終業前の整理に入ります」
終業前。
その一言で、教室の空気が少しだけ変わった。
レオノーラもそこで、あらためて思う。
そうだ。
もう学院は、休暇前の空気へ入りつつある。
長めのサマーバケーション。
それが近づいている。
「まず」
マグダ教員が続ける。
「今学期の補助課題と演習は、これで一区切りです」
かなり助かりますわね。
「来週は各自の整理と提出物、そして休暇前の最終確認に使います」
そこまで聞いたところで、レオノーラは少しだけ肩の力を抜いた。
つまり、しばらくは学院全体が大きく動くことはない。
少なくとも、次の大きな行事までは。
その後の授業は、思っていたより穏やかに進んだ。
基礎編成班の補助を受けた者たちが、廊下ですれ違う時に会釈してくることはあった。
だが、変に持ち上げるでもなく、怖がるでもなく、普通に礼をする。
ああ。
このくらいがちょうどよろしいですわね。
昼休み。
窓際の席で茶を飲んでいると、セシリアが静かに近づいてきた。
「レオノーラ様」
「何かしら」
「少しだけ、よろしいですか」
「ええ」
彼女はレオノーラの向かいへ座る。
「今日の空気、だいぶ穏やかですわね」
「ええ」
「どうしてかしら」
「たぶん」
セシリアは少し考えてから言う。
「皆、今学期の中で、レオノーラ様のことを“ただ強い人”としてではなく」
「ええ」
「“ちゃんと見て、ちゃんと止まる人”として認識し始めたのだと思います」
それは、かなり欲しかった位置だった。
「そうだと嬉しいですわね」
「ええ」
「わたくしは、かなりそう思っております」
その言い方に、少しだけ照れくささがあった。
「セシリア様」
「何でしょう」
「その評価、わたくしには少し高すぎませんこと?」
「そうかしら」
「ええ」
「いいえ」
セシリアは静かに笑う。
「少なくとも、最初よりずっと正確ですわ」
放課後。
帰りの馬車へ向かう途中、クラウスがいつもの場所で待っていた。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は、少しだけ柔らかい顔をしています」
「そうかしら」
「ええ」
「どうしてだと思う?」
「終業前の空気が見えてきたからでは?」
そこまで読まれておりますのね。
「ええ」
レオノーラは素直に頷いた。
「やはり、学院全体が一度静まる気配があると助かりますわ」
「サマーバケーションですね」
「ええ」
「休めそうですか」
その問いに、レオノーラは少しだけ考えた。
森。
工房。
断星。
第二案。
第三案。
そして、まだ片づけ切れていない諸々。
「……普通の意味では休めない気がいたしますわね」
「でしょうね」
クラウスがあっさり言う。
「どうして即答するの?」
「お姉様ですので」
その返しに、レオノーラは少しだけ笑った。
たしかに、その通りだった。
サマーバケーションが近い。
だからといって、穏やかに昼寝でもして終わるはずがない。
むしろ、学院の外でしか進まない面倒が、まとめて押し寄せてくる気さえする。
「……ですが」
「何かしら」
「少しだけ、区切りが見えてきたのは助かりますわ」
馬車へ乗り込みながら、そう言う。
学院の面倒。
森の信義。
剣の系譜。
それぞれが、ようやく次の段階へ移るための形を取り始めていた。
その意味では、今学期は無駄ではなかったのだろう。
「では」
クラウスが向かいで言う。
「次は、夏ですか」
レオノーラは窓の外を見た。
夕暮れの光が、学院の尖塔をやわらかく染めている。
「ええ」
静かに答える。
「たぶん次は、学院の外で動く番ですわ」




