第71話 それで十分だと少しだけ思えるようになった時ほど、だいたい次の面倒は“今ある剣”だけではなく“今ある人間関係”の方からやって来るものですわね
それで十分だと、ようやく少しだけ思えるようになっていた。
断星がある。
今の自分がある。
第二案はまだ眠っており、第三案はまだ夢のまま。
ならばしばらくは、この“今ある剣”で、今ある課題を片づけていけばよい。
そう整理できた直後に限って、面倒はだいたい別の方向からやって来る。
翌日。
学院へ着いた時点で、空気は昨日よりさらに落ち着いていた。
演習後の緊張も、噂の熱も、一段低くなっている。
よろしい。
そう思ったのも、教室へ入るまでだった。
「おはようございます」
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはよう」
「おはようございます」
挨拶は普段通りだった。
だが、普段通りすぎた。
何かある時ほど、妙に普段通りを装う空気というものがある。
そして今の一組は、まさにそれだった。
「……何ですの」
席へ向かいながら小さく呟くと、アーネストが半分だけ顔をしかめた。
「分かるか」
「分かりますわよ」
「まだ何も言ってないぞ」
「何も言っていないのに、何かある顔をしていますもの」
リヒャルトが本を閉じる。
「今日は噂ではありません」
「それは少し助かりますわね」
「ですが、面倒ではあります」
やはり面倒ですのね。
セシリアが少し困ったように微笑んだ。
「わたくしから申し上げるべきか迷ったのですけれど」
「その迷い方をされる時点で、だいぶ嫌な予感がいたしますわ」
「でしょうね」
前方から、アルベルトが淡々と告げた。
「学院長から、補助依頼が来ている」
……はい?
「補助依頼、ですの?」
「そうだ」
「何の?」
「来週の基礎編成班への合同指導補助」
レオノーラは、そこでほんの少しだけ目を細めた。
基礎編成班。
合同指導補助。
嫌な単語が、だいぶ理性的な顔をして並んでおりますわね。
「どうしてわたくしですの」
「昨日の講評の流れだろうな」
ルークが短く言う。
「“個人能力を共同体へどう編み込むか”」
「ええ」
「その実例として、お前たちを使いたいんだろう」
とてもありがたくありませんわね。
「断ってもよろしいかしら」
「形式上は打診だ」
アルベルトが言う。
「だが」
「だが、何ですの」
「断ると、“共同体への応用を嫌がった”という形に取られる可能性はある」
嫌ですわね。
かなり嫌ですわね。
「つまり」
レオノーラは小さく息を吐く。
「断る自由はあるけれど、断ると少し面倒」
「そうだ」
「引き受けても面倒」
「そうだな」
「本当に、学院はこういうところがございますわね」
アーネストが吹き出す。
「すげえ嫌そう」
「嫌ですもの」
「そこは即答なんだな」
「当然ですわ」
リヒャルトが静かに補足する。
「内容としては、同学年の基礎編成班に対して」
「ええ」
「見る役、判断する役、動く役の分け方を、実例付きで見せてほしいそうです」
ああ。
なるほど。
それはたしかに、昨日の講評の延長だ。
延長だが、だからといって楽しいとは限らない。
「人数は?」
レオノーラが問う。
「まだ未定」
セシリアが答えた。
「ですが、一人ではなく、何人かに補助依頼が出るそうです」
「誰に?」
「今のところ」
セシリアは少し紙を見る。
「殿下」
「ヴァンハイム先輩」
「わたくし」
「そしてレオノーラ様」
やはりそう来ますのね。
つまり学院側は、第一班を一度“運用可能な実例”として見たのだろう。
「どうなさいます?」
セシリアが穏やかに問う。
いい問いだった。
断るか。
引き受けるか。
正確には、どう引き受けるか。
レオノーラは少しだけ考えた。
「条件付きなら、引き受けますわ」
アルベルトがすぐに反応する。
「条件とは?」
「一つ」
「ええ」
「わたくし個人を“模範解答”みたいに扱わないこと」
四人の間に、少しだけ静けさが落ちた。
「どうして?」
アーネストが聞く。
「だって、わたくしを見て真似が成立するなら、そもそも苦労はございませんでしょう?」
それは、かなり本音だった。
「基礎編成班に必要なのは」
レオノーラは続ける。
「“強い個人”を真似ることではなく」
「ええ」
「“自分が何を持ち、誰とどう噛み合わせるか”を考えることですもの」
リヒャルトが小さく頷いた。
「妥当ですね」
「ええ」
「むしろ、そこを条件にした方が学院側にも有益かと」
ルークが腕を組んだまま言う。
「俺も同意だ」
「どうして?」
セシリアが問う。
「基礎班に、“レオノーラ先輩みたいにやれ”を見せても意味がない」
「ええ」
「それより、“自分より強い奴がいた時、どう動くか”を見せた方がいい」
その整理はかなりいい。
そして、少しだけ刺さる。
自分が“強い側”として想定されているのが、もはや前提になっているからだ。
「殿下は?」
レオノーラが問う。
「引き受ける」
短い。
「条件は?」
「君と同じでいい」
「そうですの?」
「“個人の模倣”ではなく“関係の設計”を見せる」
「それが目的なら筋が通る」
そこまで言ってくれるなら、かなり助かる。
「セシリア様は?」
「わたくしも賛成ですわ」
「どうして?」
「わたくしが基礎編成班なら」
セシリアは柔らかく笑った。
「“レオノーラ様の真似をしなさい”と言われるより」
「ええ」
「“あなたがレオノーラ様のような方と組んだ時、どう考えるか”の方が、ずっと助かりますもの」
なるほど。
それはかなり、受け手側として正しい。
「では」
アルベルトが言う。
「放課後、学院長室でその条件を出す」
「今日ですの?」
「今日だ」
「決断が早いですわね」
「寝かせる意味がない」
それも正しい。
嫌ですが、正しいですわね。
午前の授業中、レオノーラの頭の半分はその補助依頼に向いていた。
基礎編成班。
混成小班。
見る役、判断する役、動く役。
演習後の実例共有。
やりようによっては有益だ。
だが、やり方を間違えると、ただの“すごい先輩見学会”になる。
それは避けたい。
かなり避けたい。
昼休み。
第一班の四人は自然とまた集まっていた。
「確認ですけれど」
セシリアが言う。
「何かしら」
「学院長室では、誰が話を切り出します?」
「殿下でしょうね」
レオノーラが言うと、アルベルトが小さく頷く。
「異論はない」
「では、最初は殿下から」
「ええ」
「“補助依頼そのものは受ける”」
「ええ」
「ただし、“個人の模倣”へ寄せない」
「ええ」
ルークが短く付け足す。
「実演が必要なら、“失敗例”も混ぜる」
その一言に、レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
「失敗例、ですの?」
「そうだ」
「どうして?」
「綺麗な正解だけ見せると、基礎班は再現不能だと思う」
ああ。
それは確かにそうだ。
「最初にずれた判断」
「説明しすぎた共有」
「一人で持ちそうになった場面」
「そういうのも見せた方が、現実的だ」
かなり良いですわね。
「採用ですわ」
「早いな」
ルークが言う。
「だって、かなり良いではありませんの」
セシリアも頷く。
「ええ。わたくしもそう思います」
「受ける側にとって、“先輩方も最初から完璧ではなかった”は大きいですもの」
リヒャルトが、少し離れた席からこちらを見ていた。
やがて静かに口を挟む。
「それなら、補助依頼はむしろ引き受けた方がいいですね」
「あなたまでそう仰いますの?」
「ええ」
「どうして?」
「今の学院には、“強い人は最初から強く、正しい人は最初から正しい”みたいな雑な受け取りが少しあります」
それは否定しにくい。
「そこへ」
リヒャルトは続ける。
「“強い人も、共同体に入る時は失敗しながら調整している”を見せられるなら、かなり有益です」
「……なるほど」
レオノーラは少しだけ息を吐いた。
嫌ですわね。
嫌ですが、だいぶ筋が通ってきましたわね。
放課後。
学院長室へ向かう廊下を歩きながら、レオノーラはほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「お前」
ルークが隣で言う。
「何でしょう」
「嫌そうだな」
「嫌ですわよ」
「だろうな」
「先輩は嫌ではないのですか」
「嫌だ」
その即答に、少しだけ笑いそうになる。
「でも行くんですのね」
「必要な面倒だからな」
その言い方は、もうだいぶこちらへ寄ってきている気がする。
「何ですの、その顔は」
「少しだけ」
「ええ」
「先輩も、だいぶこちら側ですわねと思いまして」
「嬉しくない」
「でしょうね」
学院長室では、学院長とマグダ教員が待っていた。
「来てくれてありがとう」
「いえ」
アルベルトが前へ出る。
「補助依頼についてですが」
「ええ」
「受けること自体に異存はありません」
「助かります」
「ただし」
学院長が、そこで少しだけ目を細めた。
「条件があるのですね」
「ええ」
「個人の模範として見せる形にはしません」
「つまり?」
「強い個人を真似ろ、ではなく」
「ええ」
「誰が何を見て、どこで判断し、どう役割を渡し合うか」
「その設計を見せる形に限ります」
学院長は数秒、黙った。
やがて、ゆっくり頷く。
「それは、こちらの意図にも合っています」
よろしい。
「加えて」
今度はレオノーラが言う。
「必要であれば、失敗例も含めて共有いたしますわ」
「失敗例?」
マグダ教員が問う。
「ええ」
「説明しすぎた共有」
「出すぎそうになった場面」
「逆に止めることへ意識が寄りすぎた点」
「そういったものも含めた方が、受け手には現実的でしょう?」
マグダ教員が、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「……たしかに」
「綺麗な正解だけ並べると、ただの観賞会になりますもの」
「そうですね」
学院長も頷く。
「では、その方向で組みましょう」
決まった。
やはり、決まる時はあっさり決まりますのね。
「日程は明後日」
「対象は、同学年の基礎編成班です」
「各補助担当が一つずつ見る形にします」
そこまで聞いた時、レオノーラは小さく眉を上げた。
「各担当が一つずつ?」
「ええ」
「つまり、第一班そのままではなく?」
「はい」
学院長が答える。
「一度、ばらして入ってもらいます」
――なるほど。
それは、思っていたよりずっと面白い。
面倒ですが。
非常に面倒ですが。
「……それは」
レオノーラは静かに言った。
「かなり、課題が分かりやすくなりますわね」
「でしょう?」
マグダ教員が頷く。
「同じ相手と組めば成立する、では意味が薄い」
「ええ」
「違う相手に入った時、どう共同体を作るか」
「そこを見たいのです」
嫌ですわね。
でも、逃げられませんわね。
学院長室を出たあと、四人の間に少しだけ沈黙が落ちた。
「……ばらされましたわね」
レオノーラが言うと、セシリアが困ったように笑った。
「ええ」
「思った以上に本気ですわね」
「学院が、ですの?」
「ええ」
アルベルトが短く言う。
「だが、その方がいい」
「どうして?」
「“第一班だからできた”で終わらないからだ」
その通りだった。
ルークも頷く。
「お前」
「何でしょう」
「今度は本当に、一人で考えすぎるなよ」
「先輩もではなくて?」
「俺は考えすぎない」
「少しは考えてくださいまし」
その返しに、三人が少しだけ笑った。
帰りの馬車へ乗り込んだあと、レオノーラは窓の外を見ながら小さく息を吐いた。
第一班は、一度ばらされる。
断星は今の剣のまま。
第二案はまだ眠っている。
第三案はまだ遠い。
なのに面倒だけは、ちゃんと今の自分へ降ってくる。
「……本当に休ませる気がございませんわね」
小さく呟くと、クラウスが向かいで頷いた。
「ええ」
「ですが」
「何かしら」
「今度は、お姉様が“誰と組めば成立するか”ではなく」
「ええ」
「“誰とでも、どう成立させるか”の段階ですね」
その言い方は、少しだけ悔しく、でもひどく正しかった。
「……高度ですわね」
「かなり」
高度な面倒。
それがまた一段、綺麗な形で増えたのだと、レオノーラは嫌でも理解するしかなかった。




