第67話 雑な神話よりきちんとした現実をお見せしませんとと決めた翌日ですのに、演習というものは本当にこちらの都合よく整ってはくれませんわ
そう思った時、レオノーラの口元には、ほんの少しだけ不敵な笑みが浮かんでいた。
そして翌朝。
その笑みを保ったまま学院へ入れればどれほど楽だっただろうかと、レオノーラは正門をくぐった時点で少しだけ思った。
演習当日の学院は、いつものざわめきと少し違っていた。
熱がある。
だが浮ついた熱ではない。
武具の点検、班ごとの最終確認、教員たちの視線。
どこを見ても、今日は“見る側”が多い。
「お姉様」
「何かしら」
「噂は、まだ生きていますね」
クラウスが小さく言う。
「ええ」
実際、廊下を行き交う視線の一部には、明らかに“例の件”込みのものが混ざっていた。
大剣の聖別。
まことに気持ちの悪い言い回しである。
だが、もう完全に消すのは無理だろう。
「まあ、よろしいですわ」
「よろしいのですか」
「ええ」
「どうして?」
「演習で雑な神話ではないと分かれば、それで十分ですもの」
教室へ入ると、第一班の面々もすでに来ていた。
アルベルトは静かに書類を見ている。
ルークは壁際で腕を組み、周囲を眺めている。
セシリアは机上の紙へ何か簡単な整理を書いていた。
よろしい。
少なくとも、自分たちの班は浮ついていない。
「おはようございます」
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはよう」
「来たか」
「ええ」
セシリアがすぐに紙を差し出した。
「確認用です」
「何かしら」
「初動で揃えることだけ、短く」
紙には簡潔に三つだけ書かれていた。
一 目標共有
二 途中条件変更では短く止まる
三 誰か一人で解決しない
「綺麗ですわね」
「よかった」
「ええ。かなり」
そこへルークが短く言う。
「これで十分だ」
「同感ですわ」
「増やしても演習前には頭に入らん」
その実務的な言い方は非常にありがたい。
アルベルトも紙へ目を落とし、小さく頷いた。
「ではこれで行こう」
「ええ」
「異論ございませんわ」
その時、アーネストが椅子ごとこちらへ身を乗り出した。
「なあ」
「何ですの」
「第一班、やっぱり雰囲気が違うな」
「そうかしら」
「いや、違うって」
「どう違いますの?」
「何か、最初から“相談して動きます”感がある」
それはたぶん、悪くない評価だった。
リヒャルトも静かに言う。
「少なくとも、勢いだけで前に出る班には見えません」
「それなら結構ですわ」
「でも」
アーネストが少しだけにやにやしながら言う。
「レオノーラがいる時点で、絶対どっかで派手になる気もする」
「やめてくださいまし」
「いや、だって」
「必要でなければ派手にはなりませんわよ」
「その“必要”の基準が信用ならないんだよなあ」
そこは、少しだけ否定しにくい。
演習場へ移動する時間になると、教員が各班を誘導し始めた。
学院の外れ、模擬戦と野外判断を兼ねた広い区画である。
木立。
小川。
人工の石壁。
荷車の残骸に見立てた障害物。
人を隠せる程度の高低差もある。
「思ったよりちゃんとしていますのね」
レオノーラが言うと、ルークが短く返した。
「ちゃんとしないと意味がないからな」
「ええ」
「座学の延長では終わらせないつもりでしょうね」
班ごとに少し離されて待機位置へ立たされる。
教員が巻物を持って近づいてきた。
「第一班」
「はい」
アルベルトが前へ出る。
教員は巻物を渡した。
「開始時任務です」
「開始時」
「ええ。途中で条件は変わります」
存じておりますわ。
教員が離れると、四人は自然に少し寄った。
「読む」
アルベルトが短く告げ、巻物を開く。
「商隊護衛中、前方で橋の一部崩落。通行不能」
「ええ」
「荷を一つ選んで運び、日没前に対岸の拠点へ到達せよ」
「荷は一つだけ?」
セシリアが問う。
「そう書いてある」
「候補は?」
「三つ」
アルベルトが読み上げる。
「食料箱」
「医薬品箱」
「封印文書箱」
なるほど。
最初から選択を迫るわけですのね。
「単純な重量は?」
ルークが問う。
「記載なし」
「中身の価値だけ与える形か」
レオノーラは周囲を見た。
少し先に、実際に三つの箱が置かれている。
大きさはほぼ同じ。
見た目では判断しづらい。
「まず共有ですわね」
「ええ」
セシリアが即座に頷く。
「優先基準をどう置きますか」
アルベルトが言う。
「日没前到達が条件だ」
「ええ」
「つまり全部は無理という前提でいい」
「そうですわね」
「封印文書が一番軽そうに見えるのが、いかにも罠ですわ」
レオノーラがそう言うと、ルークがわずかに口元を動かした。
「俺もそう思った」
「どうして?」
セシリアが問う。
「“封印”と書いてある時点で、重要そうに見せすぎだ」
その理屈はかなりそれっぽい。
「食料は多数向け」
セシリアが整理する。
「医薬品は即時性が高い」
「封印文書は中身が不明」
「ええ」
「普通に考えれば医薬品寄りかしら」
アルベルトが頷く。
「同意だ」
「異論は?」
ルークが周囲を見る。
「ございませんわ」
レオノーラも答えた。
「では医薬品箱で動く」
初動は早かった。
悪くない。
箱の位置まで移動し、アルベルトが封印札を確認し、ルークが周囲を見る。
レオノーラは小川と崩落橋を見た。
セシリアは道の広さと障害物を目で拾っている。
「どう運ぶ」
ルークが問う。
「二人で持つには?」
セシリアが箱の取っ手を見る。
「重さ次第ですわね」
「わたくしが一人で持てますわよ」
レオノーラが言うと、三人の視線が揃った。
はい。
今のは少し雑でしたわね。
「……失礼いたしましたわ」
「持てるのは知ってる」
アルベルトが言う。
「だが、そういう話じゃない」
「ええ」
「班の荷として運ぶ」
「その形を崩すな」
「その通りですわね」
いけない。
演習が始まった直後から、すでに少し実務が先走った。
セシリアがほんの少しだけ笑みを含んだ目でこちらを見る。
「大丈夫ですわ」
「何がかしら」
「今の程度なら、班の中で戻せますもの」
ありがたいですわね。
かなり。
「では」
アルベルトが短く決める。
「ルークとレオノーラで運ぶ」
「ええ」
「セシリアは前方確認寄り」
「承知しました」
「俺は全体を見る」
役割が綺麗に落ちた。
固定ではないが、十分だ。
動き出してすぐ、演習らしさは増した。
道はわざと歩きにくく作られている。
崩落橋の横は浅いが足を取られやすい。
石壁の陰には見張り役の上級生がいて、こちらの会話や判断を見ている気配がある。
「前、ぬかるみます」
セシリアが低く言う。
「右回りで」
「了解」
ルークが箱を持ち直しながら答える。
レオノーラも歩幅を合わせる。
断星を背負ったまま、箱を持ち、周囲も見る。
森の時とは違う。
だが、“必要以上に前へ出ない”という意味では少し似ていた。
しばらく進んだところで、教員の声が飛んだ。
「第一班、条件変更」
来ましたわね。
四人は止まる。
止まり方も、昨日決めた通り短い。
「追加情報」
教員が告げる。
「対岸拠点には負傷者一名」
「さらに後方に取り残された民間人二名がいるとの報」
「ただし日没条件は変わらず」
なるほど。
一気に面倒になりましたわね。
「短く共有します」
セシリアが即座に言った。
「ええ」
アルベルトが頷く。
「前提が変わった」
「はい」
「医薬品の価値は上がりました」
「ええ」
「ただし、民間人二名を拾うなら速度が落ちる」
「ええ」
ルークが短く言う。
「どちらも取ろうとすると、中途半端になる可能性がある」
「ええ」
レオノーラは周囲の地形を見た。
後方へ戻る道。
対岸への抜け。
距離感。
時間。
「提案がございますわ」
「言え」
アルベルトが即答する。
「医薬品は維持」
「ええ」
「そのうえで、民間人はわたくしが短距離で拾って戻る、は却下ですわ」
ルークが少しだけ笑った。
「先に却下まで言うな」
「言っておかないと、少し考えてしまいそうでしたもの」
そこは自覚がある。
「では?」
セシリアが問う。
「後方民間人の位置次第です」
「ええ」
「近いなら拾う」
「遠いなら切る?」
「いいえ」
レオノーラは首を振った。
「学院の演習で、“遠いから切る”を簡単に選ぶのは、たぶん最適解に見えても評価は良くありません」
「理由は?」
「班が、情報不足のまま効率へ寄りすぎたと見られますもの」
アルベルトが頷いた。
「同意だ」
「では位置確認が先ですね」
セシリアが整理する。
「ええ」
「誰が見る」
ルークが問う。
ここで、一瞬だけ空気が詰まる。
レオノーラが走れば早い。
だが、それを安易に選ぶとまた“全部できる者前提”に寄る。
「俺が行く」
ルークが言った。
「レオノーラは箱維持」
「セシリアは状況整理」
「アルベルトは全体判断」
悪くない。
かなり悪くない。
「異論ございませんわ」
「ありません」
セシリアも答える。
「ではそうする」
アルベルトが決める。
ルークが素早く離れ、後方確認へ向かう。
その背を見ながら、レオノーラは少しだけ息を整えた。
森の試しと、少し似ている。
抜ける。
だが抜かない。
前へ出られる。
だが今は出ない。
「レオノーラ様」
セシリアが小声で言う。
「何かしら」
「今、ちゃんと止まれておりますわね」
「ええ」
「少しだけ、森を思い出しておりますもの」
セシリアがわずかに目を瞬いた。
「なるほど」
「森では、“抜く意味”を先に測りました」
「ええ」
「なら学院では、“出る意味”を先に測ればよろしいだけですわ」
その時、セシリアがふっと笑った。
「それ、かなり良い整理ですわね」
「でしょう?」
「ええ」
しばらくしてルークが戻る。
「民間人は近い」
「距離は?」
「走れば往復でそうかからん」
「状態は?」
「一人は歩ける、一人は足を痛めてる」
「では」
アルベルトがすぐ決めた。
「医薬品は維持」
「ルークとセシリアで民間人回収」
「レオノーラと俺で箱を進める」
そこへレオノーラが言う。
「一つだけ」
「何だ」
「足を痛めているなら、セシリア様一人へ負荷が寄ります」
「ええ」
「でしたら、回収時だけわたくしが入れ替わりますわ」
ルークがすぐ頷いた。
「それなら早い」
アルベルトも言う。
「良い」
「セシリアは案内と状態確認に集中しろ」
「承知しました」
その入れ替えは、かなり綺麗に決まった。
全部を持たない。
だが必要な場面では前に出る。
昨日まで口で整理していたことが、ようやく形になってきている。
民間人回収は想定より円滑だった。
演習用とはいえ、相手役の生徒はちゃんと不安そうな顔をしており、雑に扱えばかなり印象が悪くなるように作られている。
「大丈夫ですわ」
レオノーラは足を痛めた役の生徒へ短く言った。
「少し揺れますけれど、落としません」
「は、はい」
そのまま抱え上げる。
軽い。
だが、軽く見せすぎないように歩幅を整える。
ここであまりに自然に運びすぎると、また妙な伝説が増える気がした。
そのあたりを考えている自分に、少しだけ笑いそうになる。
合流後、第一班は日没条件ぎりぎりで拠点へ到達した。
医薬品箱。
負傷者。
後方民間人二名。
全員生存。
「終了」
教員の声が響く。
そこでようやく、レオノーラは断星の重さを背中に感じ直した。
使った。
だが、使いすぎなかった。
前へ出た。
だが、全部は持たなかった。
たぶん、悪くない。
「終わったな」
アルベルトが言う。
「ええ」
「どうだった」
「思ったより、かなりましでしたわ」
ルークが小さく息を吐く。
「お前が途中で一人で全部回収しに行かなかった時点で、だいぶましだった」
「そこ、そんなに信用がありませんでしたの?」
「少しはな」
「少しではありませんわよね、それ」
セシリアが笑いをこらえるように言う。
「でも、ちゃんと止まれましたわ」
「ええ」
「森の話、効いていましたね」
「そうかもしれませんわ」
そこへ教員が来る。
記録係も一緒だ。
「第一班」
「はい」
「判断と役割変更は適切でした」
よろしい。
「特に」
教員の視線がレオノーラへ向く。
「突出可能な者が、突出可能であることを理解したうえで、それを班へ編み直していた点は評価します」
それは、かなり欲しかった言葉だった。
「ありがとうございます」
「ただし」
やはりただしは来ますのね。
「ええ」
「民間人回収時、抱え上げる前の一言は良かったのですが」
「はい」
「持ち上げた後の歩き方が少し自然すぎました」
レオノーラは数秒、黙った。
そこですの?
「……やはり」
教員が少しだけ口元を緩める。
「気にしてはいたのですね」
「ええ」
「かなり」
ルークが横で吹き出しかけたのが気配で分かる。
「笑わないでくださいまし」
「いや、悪い」
「どうして笑うのです」
「いや、“自然すぎるのも駄目”って本気で気にしてたのかと思うと」
「気にしますわよ!」
そこへセシリアまで肩を震わせた。
「レオノーラ様」
「何かしら」
「少しだけ、分かりますけれど」
「ええ」
「それでもやっぱり、少し面白いですわ」
やめてくださいまし。
演習場を出る頃には、空はだいぶ赤くなっていた。
第一班の四人は自然と同じ方向へ歩く。
「一応聞く」
アルベルトが言う。
「何でしょう」
「今日は、雑な神話より現実を見せられたか」
レオノーラは少しだけ考え、それから答えた。
「ええ」
「たぶん」
「そうか」
ルークが続ける。
「少なくとも、“聖別された大剣を振り回して全部解決しました”ではなかったな」
「やめてくださいまし、そのまとめ方」
「だが間違ってもいない」
「間違っておりますわよ」
セシリアが柔らかく言う。
「いいえ」
「何ですの」
「たぶんそのくらい雑に言われた方が、逆に噂は弱まりますわ」
なるほど。
それは少しだけ分かる。
重く正しく否定するより、少し拍子抜けする現実を見せる方が、神話は崩れる。
「では」
レオノーラは小さく息を吐いた。
「今日はそれでよしといたしますわ」
学院からの帰り道、クラウスが迎えの馬車の前で待っていた。
「お姉様」
「何かしら」
「顔を見れば分かります」
「何がかしら」
「今回は、かなり良かったのでしょう」
レオノーラは断星を背負い直した。
「ええ」
「かなり」
「噂は?」
「まだあるでしょうね」
「ですが」
「ええ」
「少なくとも、現実はちゃんと置けましたわ」
それが今日の収穫だった。
森で、今の自分を示した。
学院で、人の中での今の自分を示した。
断星はその両方で、きちんと今の剣だった。
ならたぶん、次へ進んでよい。
そう思えた時、ようやくレオノーラは、第二案と第三案の遠さを、前より少しだけ穏やかに受け止められる気がした。




