第61話 断星が今のお主の剣なら、あれは来るべき時のお主の剣じゃと、まだ知らされてもいない未来の話が、工房の奥ではもう始まっておりますのね
断星を背負って森へ向かう日取りは、まだ少し先だった。
学院側との調整もある。
工房側の最終確認もある。
森側へも、改めて来訪の時期を伝える必要がある。
つまり、すぐには動かない。
珍しく、少しだけ待つ時間がある。
だが、待つ時間があるからといって、工房まで止まっているとは限らない。
むしろ、止まっていなかった。
断星の完成から二日後。
工房の最奥、主工房からさらに奥まった石室では、ゴルド・バルガンが腕を組んで、一つの炉を見下ろしていた。
炉の中で、赤く、重く、粘るように光っている金属がある。
レオノーラがこれまで背負ってきた大剣。
砕けた元の大剣を土台に、竜骨、オリハルコン、ミスリル、魔鋼で再構成された、あの中継形態の剣。
それが今、もう剣の形をしていなかった。
「……本当に溶かしたのですね」
眼鏡の細工師が、少しだけ呆れたように言う。
「当然じゃ」
ゴルドは短く答えた。
「役目を終えた剣を、形だけ残しても意味は薄い」
「ええ」
「なら、次へ回す」
それはあまりにもゴルドらしい理屈だった。
思い入れがないのではない。
むしろその逆だ。
思い入れがあるからこそ、止めずに次へ繋ぐ。
「断星が今の嬢ちゃんの剣なら」
ゴルドが炉の光を睨みながら言う。
「こっちは、来るべき時の嬢ちゃんの剣じゃ」
石室の片隅には、すでに剣の形を取り始めたものが置かれていた。
重い。
厚い。
そして、断星よりもさらに露骨に“当てるため”の骨格をしている。
第2案。
実戦特化。
対硬質目標、対大型種、対重装。
普段使いには向かず、だが必要な局面では明らかに断星より深く刺さる剣。
その器は、すでにほとんどできていた。
「親方」
若いドワーフが、少し緊張した声で問う。
「これ、本当に嬢ちゃんに黙って進めるんですか」
「黙って完成はさせん」
ゴルドが即答する。
「最後の一線は越えん」
「最後の一線、ですか」
「銘じゃ」
それだけで、石室の空気が少し変わる。
「剣は形だけなら作れる」
「ええ」
「素材も組める」
「ええ」
「だが、銘を入れるのは、使い手の段が来てからじゃ」
眼鏡の細工師が静かに頷く。
「つまり」
「うむ」
「いま親方がやっているのは、“第2案の器を閉じる手前まで”ですね」
「そういうことじゃ」
ゴルドは炉の中の金属を、長い柄の道具で静かにかき回した。
赤の底に、鈍い金の筋が走る。
旧剣の魔鋼。
ミスリルの名残。
オリハルコンの重い芯。
そして、レオノーラがあの剣で何度も叩き込み、止め、押し切ってきた“癖”そのものまで、金属の奥へ沈んでいる気がした。
「親方」
若いドワーフがもう一度問う。
「そこまでして、どうして今なんです」
ゴルドは少しだけ目を細めた。
「嬢ちゃんが断星を得たからじゃ」
「ええ」
「今の嬢ちゃんには、断星が要る」
「ええ」
「じゃが、だからこそ、その次を今のうちに作っておかねばならん」
「どうしてです?」
「来る時は急に来る」
短い言葉だった。
だが鍛冶師としての勘が、その一言に全部乗っていた。
「嬢ちゃん自身は、まだ第2案を今すぐ受け取る段ではない」
「ええ」
「だが、段が来てから打ち始めたのでは遅い」
眼鏡の細工師が低く言う。
「使い手の未来を先回りするつもりですか」
「そうじゃ」
「それは少し、危ういですね」
「危ういから儂がやる」
そこに、ためらいはなかった。
「それに」
ゴルドは、まだ熱を持つ素材塊を見ながら続ける。
「こいつは、ただ新しい金属を寄せ集めた剣ではない」
「ええ」
「嬢ちゃんが背負ってきた剣、そのものの続きじゃ」
「断星とは別の意味で、ですね」
「そうじゃ」
断星は今のレオノーラへ合わせて完成された常用剣。
だがこちらは違う。
かつての大剣の素材記憶。
竜を討ち、激戦を潜り、学院へも持ち込まれたあの大剣の戦歴。
それを溶かし、戻し、もう一度“来るべき時のため”に組み直している。
だからこそ、器だけでも先に作る価値があった。
「ルーンは?」
眼鏡の細工師が問う。
「まだじゃ」
「銘も?」
「当然じゃ」
ゴルドは鼻を鳴らす。
「そこまでやったら、もう嬢ちゃんの知らんところで“嬢ちゃんの剣”を完成させることになる」
「ええ」
「それは違う」
そこが、ゴルドなりの一線だった。
勝手に未来を先回りする。
だが、使い手の覚悟まで先回りはしない。
「親方」
若いドワーフが、できかけの第2案へ目を向ける。
「これ、断星より強いんですか」
「そういう問いは好かん」
ゴルドがぴしゃりと言う。
「上か下かではない」
「ええ」
「断星は断星じゃ」
「ええ」
「こっちは、もっと条件を噛ませた時の剣じゃ」
「つまり」
眼鏡の細工師が整理するように言う。
「普段なら断星の方が正しい」
「うむ」
「だが、本当に硬いものを割る」
「大型種を断つ」
「重装を叩き潰す」
「そういう時は、こちらの方が深く届く」
「そうじゃ」
その位置づけが大事だった。
第2案は上位互換ではない。
断星を食うものでもない。
断星が“今”の剣なら、こちらは“まだ来ていない局面”の剣。
「じゃあ」
若いドワーフが言う。
「嬢ちゃんに見せるのは、いつです」
ゴルドはそこで、初めて少し長く黙った。
炉の音だけが響く。
火は静かに揺れ、鉄は赤く粘る。
「見せるのは」
やがてゴルドが言った。
「嬢ちゃんが、“断星だけでは足りんかもしれん”と思う時じゃ」
「嬢ちゃん自身が?」
「そうじゃ」
「親方が決めるんじゃなくて?」
「儂はそこまでは決めん」
その答えは、鍛冶師として実に重かった。
「なら」
眼鏡の細工師が問う。
「今のこれは、何と呼びます」
「まだ呼ばん」
「仮にも?」
「第二案で十分じゃ」
「銘を入れない以上、名も要らん」
名前を持たない剣。
いや、まだ剣ですらない。
剣になる寸前で止められた器。
それは少し不気味で、だがひどく理にかなっていた。
同じ頃。
レオノーラは学院で、翌週の森行きに向けた調整を進めていた。
「では、来訪は三日後ですのね」
「ええ」
学院長室で、短い確認が行われている。
「学院としては、行き先が森林圏であること、アルトヴァイス家同行であること、帰還予定日が明記されていれば十分です」
「承知しましたわ」
「武具の持ち出しは?」
「断星です」
学院長が少しだけ目を細める。
「……もう、その銘で通るのですね」
「ゴルド殿が強引に押し切りましたもの」
学院長は、ほんの少しだけ笑った。
「なるほど」
学内の必要な確認が終わると、レオノーラは廊下を歩きながら小さく息を吐いた。
森行き。
断星。
来訪の時期。
全部が少しずつ固まっていく。
だからだろうか。
頭の片隅で、ふと以前の大剣のことを思い出した。
無骨で、重くて、扱いにくくて、それでも自分と一緒に戦ってきた剣。
今はもう、断星がある。
断星の方が静かで、正確で、今の自分に合っている。
それは疑いようがない。
だが、それとは別の場所で、あの剣の役目は本当に終わったのだろうか、という感覚が、ごく薄く胸の奥に残った。
「……何でしょうね」
小さく呟く。
終わったはずなのに、終わっていない気がする。
役目を終えたはずなのに、まだ何かへ繋がっている気がする。
根拠はない。
ただの勘だ。
だがレオノーラは、こういう時の勘をあまり軽く扱わない。
「お姉様」
「何かしら」
ちょうどそこへ、クラウスが現れた。
「今、何か考えていましたね」
「ええ」
「森行きのことではなく?」
「半分は」
「残り半分は?」
レオノーラは少しだけ言い淀んだ。
「……以前の大剣ですわ」
「以前の大剣?」
「ええ」
「珍しいですね」
「そうかしら」
「ええ。断星を得てからは、だいぶ気持ちを移していたように見えました」
それもそうだ。
断星は今の剣だ。
今の自分に必要な剣だ。
だが、それでも。
「終わった気がしないのですわ」
「何がです?」
「あの剣の流れが」
クラウスは少しだけ黙り、それから言った。
「お姉様」
「何かしら」
「その勘は、たぶん軽く見ない方がいいですね」
「そう思う?」
「ええ。親方が、何もしていない顔をしている時ほど危ないので」
レオノーラはそこで、ほんの少しだけ遠い目をした。
「……あり得ますわね」
「ええ」
「非常に」
その返答に、二人の間へ妙な納得が落ちる。
ゴルド・バルガン。
断星へ銘を与え、ルーンを刻み、ようやく素直に第一案へ集中したと思ったら、裏で別のことを始めていても何もおかしくない男。
あり得る。
だいぶあり得る。
「ですが」
レオノーラは首を振った。
「今それを考えても仕方ございませんわね」
「ええ」
「森が先ですもの」
「その通りです」
屋敷へ戻った夜、レオノーラは断星を静かに磨いた。
灯りの下で見ると、刃元の内側、背寄りのごく細い位置に刻まれたルーン文字が、ほんのかすかにだけ気配を持つ。
目立たない。
だが消えない。
「断星」
小さく銘を呼ぶ。
名を与えられ、剣として閉じた今の相棒。
森へ持っていく剣。
今の自分を示す剣。
それで十分なはずだ。
十分であるべきだ。
けれど、同時に胸の奥では、まだ名を持たない何かの気配が、薄く、静かに、形になる前のままで沈んでいた。
知らないはずなのに、知っているような感覚。
終わったはずの流れが、まだ続いている感覚。
「……本当に、何なのかしら」
答えはまだない。
だが、たぶんその答えが出る日は、そう遠くない。




