第56話 信義が増えるのは悪いことではございませんけれど、それに伴って背負う意味まで増えていくのですから、本当に気は抜けませんわ
それならたぶん、まだ前へ進める。
そう思いながらも、レオノーラは馬車の揺れに身を預けたまま、しばらく目を閉じていた。
工房で預託材の使途を切り、ゴルドの悪ふざけを第一案から引き剥がし、シェルヴァンがその場で境界を確認した。
しかも最後には、完成した大剣を持って森へ来いとまで言われた。
前へ進んだ。
たしかに進んだ。
だが同時に、背負う意味もまた少し増えた。
「お姉様」
「何かしら」
「疲れていますか」
「少しだけ」
「顔が死んでいるほどではありませんね」
「ええ」
「ですが、だいぶ考えておられます」
クラウスのその言葉に、レオノーラは小さく息を吐いた。
「当然でしょう」
「何がです?」
「今日の話、どれも軽くはございませんもの」
「ええ」
「第一案の仕上げ」
「ええ」
「森への招き」
「ええ」
「そして、世界樹に誓った友という言葉を、ゴルド殿たちの前で正式に置いたこと」
そこが大きかった。
レオノーラにとっては昔の出来事であり、信義として胸の内へ置いていたものだ。
だが今日、それが工房という別の共同体へ伝わった。
意味は増える。
当然、見る目も変わる。
「悪い方へ動いたとは思っておりませんわ」
「ええ」
「でも、軽くもなっておりません」
「その通りですね」
クラウスは頷いた。
「お姉様は、人との関係を軽い札としては扱いませんから」
「当然ですわ」
「だからこそ、重くなる」
その整理は、あまりにも正しかった。
屋敷へ戻る頃には、夕暮れがだいぶ深くなっていた。
玄関ホールへ入ると、執事がすぐに一礼する。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りましたわ」
「旦那様と奥様が、小会議室でお待ちです」
やはりそこですのね。
工房へ行った日には、だいたい報告会がついてくる。
もはや様式美に近い。
小会議室へ入ると、父ヴァルターと母エレオノーラが席についていた。
父は娘の顔を見るなり、短く言う。
「増えたか」
「ええ」
「やはりな」
その即答はどうなのですの。
だが否定できないのが悔しい。
「第一案の件は整理できましたわ」
「それはよかった」
「ですが、それ以外も少し」
「少し、で済む顔ではないわね」
母のその指摘も、かなり鋭い。
レオノーラは席へ着き、順に説明した。
預託材の使途限定。
ゴルドが第一案に絞ると認めたこと。
シェルヴァンが工房へ直接来たこと。
そして、完成後には森へ来てほしいと、友として歓待すると言われたこと。
そこまで話したところで、父が一度だけ額へ手をやった。
「……工房に、本人が来たのか」
「ええ」
「学院の次は工房か」
「ええ」
「早いな」
「非常に」
母は扇を軽く閉じた。
「でも、筋は通っているわね」
「ええ」
「預託材が目的通りに使われるか、確認しに来たのでしょう?」
「その通りですわ」
「なら、むしろ誠実だわ」
そこは本当にそうだった。
「ただ」
父が低く言う。
「森へ招かれる、というのは軽くない」
「ええ」
「しかも完成した大剣を持って、だろう」
「ええ」
「何を意味すると思う?」
問われて、レオノーラは少しだけ考えた。
「一つは、単純に歓待ですわ」
「ええ」
「剣が仕上がったなら顔を見せろ、という友誼」
「ええ」
「もう一つは」
そこで少し間を置く。
「森の側も、その剣を見たいのでしょうね」
父はゆっくり頷いた。
「だろうな」
「世界樹に誓った友が、ドワーフ工房と森の預託材で新たな剣を仕上げる」
「ええ」
「森から見ても、見届ける意味は小さくないと思いますわ」
母が静かに微笑む。
「だんだん、あなた一人の剣ではなくなってきたわね」
その言い方は、少しだけ胸へ刺さった。
一人の剣ではない。
たしかにそうだ。
今の剣は、訓練用に近い無骨な大剣から始まった。
そこへ竜骨が入り、魔鋼が入り、オリハルコンが入り、ドワーフが関わり、森の信義まで乗った。
ただの武器では、もうない。
「……面倒ですわね」
思わず漏らすと、父が小さく笑った。
「今さらか」
「今さらですわね」
「だが悪いことでもない」
「ええ」
それは、レオノーラにも分かっていた。
翌朝。
学院へ向かう馬車の中で、レオノーラは前日までより少しだけ静かだった。
やるべきことは整理されている。
工房は第一案へ集中。
森行きは完成後。
学院は当面、講義後の余波を見る。
だから、少しだけ待ちの時間だ。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は珍しく、もう次の手を打とうとしていませんね」
「ええ」
「どうして?」
「今は待つ番ですもの」
「珍しいですね」
「自覚はございますわ」
学院へ着くと、空気はいつも通り――に見えた。
だが、一組の教室へ入った瞬間、レオノーラは小さく目を細める。
見られている。
しかも昨日までとは少し違う。
驚きではない。
測っている目だ。
「おはようございます」
挨拶をすると、返答も普段通り返る。
だが、アーネストが今日は最初から妙に真面目だった。
「なあ」
「何かしら」
「昨日のあと、騎士科でまた変な噂が増えた」
やはりそうですのね。
「どのような?」
「お前が森からも認められてる、とか」
「ええ」
「世界樹に何か誓ってる、とか」
「ええ」
「何でそこまで回るんだよ」
その問いに、レオノーラは少しだけ首を傾げた。
「どうしてでしょうね」
「絶対分かってるだろ!」
そこへリヒャルトが静かに挟む。
「工房の中で起きたことは、工房だけで止まるとは限りません」
「そうなのか?」
「ドワーフたちは、口が軽いというより、重さの基準が人間と違うのでしょう」
かなり正しい分析だった。
「つまり」
セシリアが整理するように言う。
「彼らにとっては、“世界樹の前で友と誓った”は重いけれど、隠すべき秘密ではないのかしら」
「たぶん、その通りですわ」
レオノーラは頷いた。
「信義として重い。だからこそ、正面から扱う」
「なるほど」
「人間社会のように、“重いから伏せる”とは少し違うのですわね」
そこへレティシアが、小さく手を合わせるようにして言う。
「では、やはり本当なのですね」
「何がですの?」
「世界樹の前で誓った、というお話です」
やめてくださいまし。
そこをそんなに真っ直ぐな目で聞かれると、否定しづらいではありませんか。
「……ええ」
レオノーラは短く答えた。
「本当ですわ」
その瞬間、教室の一角がまた静まった。
アーネストが、額を押さえる。
「お前、本当に何なんだよ」
「わたくしにも、そこまで綺麗には説明できませんわ」
「いや、できるだけしてくれよ」
「嫌ですわ」
「即答するな!」
だが今日は、アーネストのその直球も少し助かった。
深刻さだけが増えると、空気は妙に固くなる。
少し崩れるくらいでちょうどいい。
前方で、アルベルトが紙から顔を上げた。
「一つ聞いていいか」
「内容によりますわ」
「森へ招かれたのか」
来ますわよね。
「ええ」
「完成後の剣を持って?」
「ええ」
「歓待すると言われた?」
「ええ」
アルベルトは数秒だけ黙っていた。
その沈黙は、驚きでも羨望でもない。
もっと冷静で、もっと計算寄りのものだった。
「つまり」
彼は静かに言う。
「その剣は、工房と森の両方が見届ける剣になるわけか」
レオノーラは一瞬だけ目を瞬いた。
そこをそうまとめますのね。
「……そうなりますわね」
「だいぶ重いな」
「ええ」
「しかも、君はそれを受ける」
「受けますわ」
「どうして?」
その問いに、レオノーラはほんの少しだけ考えた。
なぜ受けるのか。
答えは単純だ。
「信義だからですわ」
短く、はっきりと。
「ドワーフ工房が仕上げる」
「ええ」
「森が預託し、待っている」
「ええ」
「でしたら、完成した時に顔を見せるのは当然でしょう?」
アルベルトは、その返答を聞いて目を細めた。
「なるほどな」
「何かしら」
「君は、本当に」
彼は少しだけ言葉を探した。
「家格や政治とは別のところで、世界と繋がっている」
その一言は、思った以上にまっすぐだった。
レオノーラは少しだけ視線を伏せ、それから静かに答える。
「そうかもしれませんわね」
そこへアーネストが、半ば呆然としたまま言う。
「もう婚約候補とかいう枠じゃないだろ、お前」
「その言い方は少し雑ですわね」
「でも近いだろ!」
「近いですね」
リヒャルトが静かに同意した。
「少なくとも、“どこかの家へきれいに収まるだけの令嬢”ではない」
それは、かなり本質的だった。
レオノーラは思わず小さく息を吐く。
そうかもしれない。
そうなのだろう。
自分では、ただ順番にやるべきことをやっているだけだ。
だがその結果として、枠の外へ出ていく。
「レオノーラ様」
セシリアが穏やかに言う。
「何かしら」
「そのことを、ご自身ではどう思っておられるのです?」
「どう、とは」
「普通の婚約候補から遠ざかることを、ですわ」
良い問いだった。
とても良い問いだった。
レオノーラは少しだけ考え、それから正直に答える。
「楽ではありませんわね」
「ええ」
「ですが、無理に普通へ寄せても、たぶん続きませんもの」
「ええ」
「でしたら、必要なところまで行くしかございません」
その答えに、セシリアは小さく頷いた。
「そういうお答えだと思っておりました」
昼休み。
思っていたより騒ぎにはならなかった。
たぶん、もう一組の中では、レオノーラの話は“そういうもの”として受け止められ始めているのだろう。
その静けさの中で、レオノーラはようやく一息ついた。
だが、その一息も長くは続かなかった。
教室の扉が静かに開き、学院の書記が顔を出す。
「アルトヴァイス嬢」
「はい」
「学院長より伝言です」
またですの?
「本日は呼び出しではありません」
「ええ」
「ただ、工房および森林圏との関係について、後日ご家族も交えた確認の席を設けたいとのことです」
やはり来ますのね。
当然と言えば当然だ。
学院としても、もう“知らぬふり”では済まないところまで来ている。
「承知しましたわ」
書記が去ったあと、アーネストがまた頭を抱えた。
「増えるなあ」
「ええ」
「どこまで増えるんだよ、これ」
「必要なところまで、ではなくて?」
レオノーラがそう言うと、アルベルトがほんの少しだけ笑った。
「またそれか」
「便利ですもの」
「たしかに」
その返答に、教室の空気が少しだけ柔らかくなった。
重い話だ。
だが、重いまま固めすぎても、人は息が詰まる。
夕方、迎えの馬車へ向かう途中で、クラウスが隣へ並ぶ。
「お姉様」
「何かしら」
「今日もまた、前へ進む種類の面倒でしたね」
「ええ」
「疲れましたか」
「少しは」
「ですが?」
レオノーラは学院の石造りの建物を振り返った。
工房。
森。
学院。
全部が別々に動いていたはずなのに、今はもう、少しずつ同じ線の上へ並び始めている。
「……まだ、整えられますわ」
そう答えると、クラウスは小さく頷いた。
「それなら十分です」
馬車へ乗り込む。
窓の外で、夕暮れの光がゆっくり流れていく。
信義が増える。
面倒も増える。
だが、筋もまた増えている。
ならたぶん、まだ崩れない。
そう思えた時点で、レオノーラの中では、もう次の確認の席で何を話し、どこまでを開くか、その整理が始まっていた。




