第54話 必要ありませんわねと言うしかございませんけれど、昨夜手紙を出して翌日に本人が学院長室へいるのは、さすがに少し加減をしていただきたいですわ
そこにいたのは、レオノーラが昨夜手紙を送った相手――エルフの友人その人だった。
必要ありませんわね。
紹介など、必要あるはずがない。
だが同時に、言いたいことは山ほどあった。
早すぎませんこと。
返答どころか、なぜ学院長室におられますの。
しかも、どうしてそんなに落ち着いていらっしゃるの。
「久しいな、レオノーラ」
エルフの友人――シェルヴァンは、昔と変わらぬ静かな声でそう言った。
銀に近い淡緑の髪。
人間の貴族社会では作れない種類の均整。
整いすぎていて、かえって人間味が薄く見える顔立ち。
完成しすぎていて少し怖い。
まさに、そういう類の美貌だった。
「……ごきげんよう、シェルヴァン」
レオノーラは一礼した。
「ご機嫌はともかく、驚いておりますわ」
「そうだろうな」
「かなり」
学院長が、少しだけ口元を和らげる。
「では、話が早い」
「学院長」
レオノーラは視線を向ける。
「事情の説明をお願いできますかしら」
「もちろんです」
学院長は椅子へ着席を促した。
レオノーラ、マグダ教員、学院長、そしてシェルヴァン。
四人が応接の形で座る。
落ち着かない。
とても落ち着かない。
だが、落ち着かないからといって、順番を崩すわけにはいかない。
「まず」
学院長が言った。
「本日この方が来訪されたのは、学院が招いたからではありません」
「では?」
「あなた宛ての書簡に対し、先方が直接応じることを選んだ」
レオノーラは静かにシェルヴァンを見た。
「そういうことですの?」
「そういうことだ」
シェルヴァンは淡々と答える。
「境界の受け手が、差出人を見てすぐこちらへ回した」
「ええ」
「内容を読んだ」
「ええ」
「少量で、急ぎで、しかもお前の頼みだった」
「ええ」
「ならば、文だけ返すより自分で来た方が早いと判断した」
早いの次元が違いますわね。
「ご多忙ではなくて?」
「お前の“もし負担なく可能なら相談したい”は、こちらからすると十分に重い」
その返しに、レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
そう来るのか。
「……そうですの」
「ええ」
「雑に扱っていない文面だった」
「それは、当然ですわ」
「だから、こちらも雑には返さない」
その言葉は、思っていた以上に胸へ残った。
学院長がそこで一度話を引き取る。
「私としては、事情を承知する必要がありました」
「ええ」
「なにしろ、学院の生徒宛てに、森の民、それも高位個体が直接来訪する事態です」
たしかに、学院長からすればそうだろう。
「ですので」
学院長は穏やかに続ける。
「まず本人確認をし、次に来意を確認し、そのうえであなたを呼びました」
筋は通っている。
かなり通っている。
「では」
レオノーラは改めてシェルヴァンを見る。
「来意を伺っても?」
「もちろんだ」
シェルヴァンは、テーブルの上へ細長い木箱を置いた。
派手さはない。
だが、木材そのものが人間のものではないと分かる。
淡い光沢。
密度のある木目。
森の深い場所の匂いがする。
「中にある」
やめてくださいまし。
そういう置き方は、本当にやめてくださいまし。
「確認しても?」
「そのために持ってきた」
レオノーラは木箱へ手を伸ばし、静かに蓋を開けた。
中には、布に包まれた細い金属片が収まっていた。
ごく少量。
だが、一目で分かる。
オリハルコンだった。
鈍く重い金の光。
いやらしい装飾の金ではなく、芯のある、沈んだ色味。
金属でありながら、妙に静かな存在感。
「……本当にお持ちになったのですの」
「少量だ」
「ええ」
「お前の文に書かれていた通り、少量ならばこちらの負担は薄い」
「ですが」
レオノーラは木箱から目を離さずに言った。
「わたくしは、融通の可否を相談しただけですわ」
「ええ」
「即座に現物を持ち込んでほしいとは申しておりません」
「分かっている」
シェルヴァンはまったく揺れない声で答えた。
「だから持ち込んだ」
意味が分かりませんわね。
レオノーラが無言になると、マグダ教員が少しだけ咳払いした。
「説明をお願いできますか」
「可能だ」
シェルヴァンは学院長やマグダ教員にも視線を向けた。
「まず前提として、これは譲渡ではない」
「ほう」
学院長が目を上げる。
「預託だ」
レオノーラはそこで、ようやく少し理解した。
「……なるほど」
「そうだ」
「使い切りではなく」
「目的に沿って使われるかを見る」
よろしい。
その方がずっとよろしいですわ。
「つまり」
レオノーラは箱を閉じた。
「わたくし個人への贈与ではなく、剣の仕上げという限定目的に対する預託ですのね」
「ええ」
「使途が変わるなら引き上げる」
「ええ」
「余剰が出るなら返還」
「ええ」
「なら筋は通りますわ」
学院長がそこで静かに言う。
「かなり明確ですね」
「明確でなければ動かない」
シェルヴァンの返しは短い。
だが、たぶんそれで十分なのだろう。
「お前の文は」
シェルヴァンがレオノーラへ戻る。
「必要量が少なく、代替案もあり、必須ではないと書いていた」
「ええ」
「だからこちらも、無制限ではなく必要量だけを持ってきた」
それは、実に彼らしい返しだった。
友誼はある。
だが、境界もある。
情だけで雑に流さない。
「ありがとうございます」
レオノーラは素直に言った。
「その形なら、わたくしも受け取りやすいですわ」
「そうだろうな」
「ですが、一つだけ」
「何だ」
「どうして学院長室ですの?」
そこは聞いてよろしいでしょう。
シェルヴァンは少しだけ目を細めた。
「学院の門で止められた」
「それはそうでしょうね」
「名を問われた」
「ええ」
「お前の名を出した」
「ええ」
「結果としてここへ通された」
とても自然な流れのように仰いますけれど、普通ではございませんわね。
「つまり」
学院長が静かにまとめる。
「先方は正門から正規に訪れ、学院はそれを正規に受けた、ということですね」
「そうだ」
「よく分かりました」
学院長の声音は穏やかだ。
だが、内心ではたぶんかなり色々考えている。
それも当然だった。
学院の生徒が、森の高位個体とここまで明確な信義を結んでいる。
しかもその相手が、目的限定の預託という形で学院まで来る。
軽くない。
全然軽くない。
「アルトヴァイス嬢」
学院長が言う。
「はい」
「この件は、学院としても記録上の整理が必要です」
「でしょうね」
「ただし、異種族との私的交友そのものへ学院が介入するつもりはありません」
それは助かる。
かなり助かる。
「必要なのは」
学院長は続ける。
「学院の敷地内へ持ち込まれた希少素材の扱いと、それが学内の教育文脈へどう影響するか、その整理です」
「承知しましたわ」
「そこで提案ですが」
「何でしょう」
「この預託材は、一度アルトヴァイス家預かりとして処理し、工房への移送もご家族経由にしてはどうでしょう」
良い提案だ。
かなり良い。
学院が直接挟まらず、かといって来歴も曖昧にならない。
「異存はございませんわ」
レオノーラが答えると、シェルヴァンもすぐ頷いた。
「こちらもそれでいい」
そこで、マグダ教員が初めて少しだけ身を乗り出した。
「一点だけ」
「何でしょう」
「ヴァルドレーネ森林圏――」
マグダ教員は、正確に森の正式名を口にした。
「その代表筋が、個別の生徒との信義に基づいて素材預託を行うことについて、向こう側の了解は取れているのですか」
良い問いだ。
そしてその問いへ、シェルヴァンは少しも迷わなかった。
「私は了解の外で動かない」
空気が静まる。
「つまり?」
学院長が問う。
「私は、森側の裁量で来ている」
その一言の重さを、レオノーラは知っている。
彼はただのエルフではない。
森の意思決定に一定の距離で触れられる立場だ。
だからこそ、昨日の沈黙は危なかったのだ。
「……シェルヴァン」
「何だ」
「そこまで明言しなくてもよろしかったのではなくて?」
「必要だろう」
「どうして?」
「学院長が確認した」
「ええ」
「なら、答える」
正しすぎて困りますわね。
学院長がそこで、ほんの少しだけ姿勢を正した。
「分かりました」
「ええ」
「これ以上、具体の地位や系譜には立ち入りません」
それも正しい。
今日ここで、それ以上開く必要はない。
「レオノーラ」
シェルヴァンが言った。
「何かしら」
「工房への搬入前に、一つだけ条件がある」
やはりございますのね。
「伺いましょう」
「実際に使うのは常用剣の仕上げだけだな」
「ええ」
「第二案、第三案には回さない」
「回しませんわ」
「ならいい」
「それだけ?」
「それだけだ」
レオノーラは少しだけ目を細めた。
「随分とあっさりしておられますのね」
「お前は、そこを雑にしない」
「ええ」
「なら、細かい縛りは要らない」
そう言われると、少しだけ言葉に詰まる。
信じられている。
その事実は、いつだって少し重い。
「……ありがとうございます」
「礼は、剣が仕上がってからでいい」
やはり、そう返してこられますのね。
学院長室を出る段になると、学院側の手続きは実に早かった。
預託材は学院で保管しない。
アルトヴァイス家の使いへ即時引き渡し。
学院は来訪記録と確認事項のみを残す。
そこまで決めてしまえば、話はすっきりする。
だが、すっきりしたからといって、レオノーラの中身まで穏やかになるわけではない。
廊下へ出ると、シェルヴァンが横に並んだ。
「少し歩くか」
「ええ」
学院の石造りの廊下を、二人でゆっくり進む。
窓から入る光が、彼の横顔を少しだけ白く見せていた。
「昨日の手紙」
シェルヴァンが言う。
「ええ」
「お前らしい文だった」
「そうかしら」
「必要以上にへりくだらない」
「ええ」
「だが、境界を越えないようにかなり気を使っていた」
そこは、たしかにそうだった。
「当然ですわ」
「どうしてだ」
「友人だからこそ、ですわ」
シェルヴァンは少しだけ目を細めた。
「ならいい」
「シェルヴァン」
「何だ」
「一つだけ、気になっていたのですけれど」
「言ってみろ」
「どうしてご自身で来られたの?」
問いとしてはさっきと同じだ。
だが今度は、学院への説明ではなく、個人的な理由を聞いている。
シェルヴァンはほんの少しだけ考えた。
「文だけ返すと」
「ええ」
「お前はたぶん、受け取り方を余計に考える」
「それは」
「否定するな。分かっている」
少し悔しい。
だがその通りでもある。
「だから、顔を見て渡した方が早いと思った」
その返答は、とても彼らしかった。
情に見えて、理屈でもある。
理屈に見えて、情でもある。
「……そう」
「不満か」
「いいえ」
レオノーラは静かに首を振った。
「少しだけ、ありがたいと思いましたわ」
シェルヴァンはそこで、ほんのわずかに口元を緩めた。
それは、人間なら笑みと呼ぶほど大きくない。
だが彼にしては十分だった。
「ならよかった」
学院の玄関近くまで来ると、すでにアルトヴァイス家の使いが待っていた。
学院側の書記と、引き渡し確認をしている。
仕事が速い。
非常に助かる。
「では」
シェルヴァンが立ち止まる。
「私は戻る」
「ええ」
「工房へ入れる前に、必要ならもう一度連絡しろ」
「分かりましたわ」
「それと」
「何かしら」
「ハイエルフの件は、まだ教室で広げるな」
レオノーラはそこで、ほんの少しだけ目を逸らした。
「……善処いたしますわ」
「善処では足りない」
「その反応、少しお耳が早すぎませんこと?」
「早いのはお前の沈黙だ」
ぐうの音も出ない。
シェルヴァンはそれ以上何も言わず、森側の随員もつけず、一人で学院を後にした。
最後まで、静かで、無駄がなくて、少しだけ怖かった。
そして――ありがたかった。
教室へ戻るまでに、レオノーラはだいぶ神経を使った。
だが顔には出さないようにしていたつもりだ。
それでも、教室へ入った瞬間にアーネストが顔を上げた。
「……何か増えたな」
鋭いですわね。
「何かしら」
「今の顔、そういう顔だ」
「どういう顔ですの」
「増えたけど、言うかどうか迷ってる顔」
非常に嫌な精度で当ててくる。
レオノーラは席へ着き、鞄を置き、それから静かに言った。
「今日はもう増やしませんわ」
「今日は、ってことは増えるのかよ」
「そこはご想像にお任せします」
リヒャルトが本を閉じた。
「少なくとも、工房の件は進んだのですね」
「ええ」
「それで十分です」
助かる。
本当に助かる。
アルベルトは、少し離れた位置からこちらを見ていた。
だが今日は、何も聞いてこない。
その沈黙が少しだけ不思議で、少しだけありがたかった。
放課後の帰り道。
馬車へ乗り込むと、クラウスがすぐに問う。
「お姉様」
「何かしら」
「顔は死んでいませんね」
「ええ」
「むしろ少しだけ、整いましたわ」
「何があったかは、聞いても?」
レオノーラは一拍だけ置いてから答えた。
「直接、来られましたわ」
「誰がです?」
「エルフの友人が」
クラウスが、珍しく本当に黙った。
「……学院へ?」
「ええ」
「本人が?」
「ええ」
「なるほど」
数秒遅れて、ようやくそれだけ言った。
「その“なるほど”は、全然なるほどではございませんわね」
「いえ」
クラウスは静かに息を吐く。
「お姉様の周囲の面倒が、また一段階、質を変えたなと思いまして」
それは、たしかにそうだった。
剣の仕上げ。
素材の預託。
学院長の把握。
異種族との信義。
全部が、また少しだけ繋がってしまった。
だが。
「クラウス」
「何でしょう」
「悪いばかりではございませんわ」
「ええ」
「少なくとも、筋の通った形で前へ進みましたもの」
クラウスは小さく頷いた。
「それなら、よかったです」
馬車は静かに屋敷へ向かう。
夕暮れの光が揺れて、窓へ長く映っていた。
面倒は増えた。
だが、無秩序ではない。
順番と筋がある限り、まだ整えられる。
そう思えた時点で、レオノーラの中では、もう次の準備が始まっていた。
――さて、ゴルド殿がこれを見て、どこまで機嫌よく第一案へ集中してくださるかが問題ですわね。




