第5話 目立たないようにしていたはずなのに、もう手遅れかもしれませんわ
受付棟の前に流れていた空気は、先ほどまでとは明らかに違っていた。
巨大剣を背負った奇妙な公爵令嬢を見る目。
それだけなら、まだよかった。
今ここにあるのは、巨大剣を背負い、しかも暴れる馬を素手で止めた公爵令嬢を見る目である。
要するに、悪化していた。
「……」
レオノーラは静かに口をつぐんだまま、受付棟へ向かって歩いた。
こういう時、余計なことを言うと大抵ろくな結果にならない。
前世でもそうだった。現場で騒ぎが起きた直後ほど、言葉は少ない方がよい。
だが、黙っていても視線は減らなかった。
「お姉様」
「何かしら」
「ご自身でお気づきでしょうが、一応申し上げておきます」
「ええ」
「完全に注目されています」
「知っておりますわ」
「でしたら結構です」
クラウスはそれだけ言って、軽くため息をついた。
ルークは受付棟の入口付近まで先導すると、足を止めて振り返った。
「ここから先は新入生の手続きになる。弟君は待合区画までだ」
「承知しております」
「レオノーラ」
「何かしら」
「……あまり問題は起こすな」
レオノーラは少しだけ心外そうな顔をした。
「起こしておりませんわ」
「起きているのだ。君の意志とは別に」
「不可抗力ですもの」
「その不可抗力の規模が大きすぎる」
ごもっともである。
だが、こちらとしても好きで馬を止めたわけではない。危険だから対処しただけだ。
「ご忠告はありがたく受け取っておきますわ」
「そうしてくれ」
ルークはそう言って去っていったが、その背中には微妙に疲れが滲んでいた。
まだ数分しか話していないはずなのに、不思議なことである。
レオノーラとクラウスは受付棟へ入る。
高い天井。磨き込まれた床。整然と並ぶ受付机。
そこにはすでに多くの新入生と家族が集まっていたが、レオノーラが入った瞬間、その一角だけ不自然に静かになった。
理由は分かっている。
背中の剣だ。
そして、たぶんさっきの件も、もう広がり始めている。
「……情報伝達が早すぎではなくて?」
「人は刺激の強い情報ほど速く広めます」
クラウスがさらりと言った。
「前世の知識でも、そのくらいはお分かりでしょう」
「ええ。ですが、納得はしたくありませんわ」
行動経済学でも認知科学でも、目立つ情報は記憶に残りやすい。
それは分かる。分かるのだが、分かったところで嬉しくはない。
受付机の向こうにいた女性職員は、一瞬だけ視線を剣へ向けたあと、さすがに学院職員らしく表情を整えた。
「お名前をお願いいたします」
「レオノーラ・アルトヴァイスですわ」
名前を聞いた瞬間、職員の目が一瞬だけ大きくなった。
三大公爵家の名と、目の前の巨大剣が合わさると、なかなか強いらしい。
「アルトヴァイス公爵家の……。ようこそお越しくださいました。こちらが新入生手続き一式となります」
「ありがとうございます」
レオノーラが書類を受け取ろうとすると、職員の視線が再び剣へ向いた。
やや迷うような沈黙。
来る。
そう思った次の瞬間、案の定こう聞かれた。
「あの……そちらのお剣は」
「私物ですわ」
「はい」
「護身用です」
職員の笑顔が固まった。
クラウスがそっと目を閉じた。
レオノーラは内心で少しだけ反省した。
どうも「護身用」という説明は、思ったほど汎用性が高くないらしい。
「学院規則上、武器の携行については一定の条件がございます」
職員はどうにか立て直して説明を続けた。
「実技訓練用の武具については登録制となっており、通常は武具庫への預け入れ、もしくは指定区画での管理が原則です。常時携行は――」
「制限されるのですわね」
「はい」
レオノーラは少し考えた。
なるほど。完全禁止ではない。
ならば交渉の余地はある。
「登録のうえで、個別許可を申請することは可能でしょうか」
職員が瞬く。
「個別、ですか」
「ええ。わたくし、この剣に慣れておりますの。重心も抜刀感覚も、他の武器では代替が利きませんわ」
「ですが、学院内で常時携行となると……」
「訓練時のみでも構いません。最低限、自由に使用できる状態は確保したく存じます」
レオノーラが落ち着いてそう言うと、職員は明らかに困った顔をしたものの、単なる我儘ではなく実務の話だと理解したらしかった。
「少々お待ちください。担当教員へ確認を取ります」
「お願いしますわ」
職員が奥へ向かうのを見送りながら、クラウスが低く言った。
「お姉様」
「何かしら」
「今の交渉は非常にまともでした」
「失礼ですわね。普段からまともです」
「その発言だけで説得力が減るのです」
だが、今回は本当にまともだった。
必要な条件を整理し、禁止か許可かの二択ではなく、運用上可能な落としどころを探る。
前世でも、こういう調整は重要だった。最初から全取りを狙うと大抵こじれる。
ほどなくして職員が戻ってきた。
「武芸担当の教員が、現物確認をしたいとのことです」
「ええ」
「別室へご案内いたします」
そうして通された先は、受付棟の脇にある応接兼確認室のような部屋だった。
室内には、壮年の男性教員が一人いた。
肩幅が広く、腕も太い。軍人崩れというより、現役の武術教師という空気だ。視線は鋭いが、頭ごなしではない。
「アルトヴァイス公爵令嬢だな」
「はい。レオノーラ・アルトヴァイスですわ」
「武芸基礎と剣技応用を担当しているガレスだ。話は聞いた」
ガレス教員の視線は、当然のようにレオノーラの背中へ向いている。
「……それを常時持ち歩きたいと?」
「可能であれば」
「理由は」
「慣れておりますから」
「それだけか」
「それだけで十分ではありませんこと?」
ガレスは少しだけ眉を上げた。
この答えは予想外だったらしい。
だがレオノーラにとっては本心だ。
慣れた武器を使うのは武の基本である。華美な理屈は不要だ。
「抜いてみろ」
「ここで、ですの?」
「床を壊さずにできるならな」
レオノーラは一礼し、剣帯の位置を整えた。
クラウスが壁際で少しだけ遠い目をする。
彼はこの流れに覚えがあるのだろう。
レオノーラは呼吸を浅く整え、右手を柄へ伸ばす。
一拍。
二拍。
三拍目で、抜いた。
金属音は低く短い。
巨大剣は室内の空気を押しのけるように現れたが、刀身は壁にも床にも触れない。必要最小限の軌道で引き抜かれ、重さを感じさせないまま、レオノーラの手の中へ収まる。
ガレスの目が変わった。
ただの物珍しさではなく、技量を見る目だ。
「戻せ」
「はい」
今度はさらに短く、滑らかに納める。
大剣のサイズを考えれば異様なほど無駄がない。
それを見て、ガレスは腕を組んだ。
「……なるほどな」
「いかがでしょう」
「少なくとも、見せ物で背負っているわけではないのは分かった」
「ありがとうございます」
「だが学院は戦場ではない」
「存じておりますわ」
「ではなぜそこまで拘る」
レオノーラは少しだけ考えたあと、率直に答えた。
「自分の身を守るためです」
「何から」
「現時点では未定ですわ」
ガレスは黙った。
クラウスが静かに額を押さえた。
レオノーラは心の中で首を傾げる。
やはりこの答え方は、そこまでおかしいだろうか。危険は具体名が分からないからこそ危険なのだが。
数秒後、ガレスは深く息を吐いた。
「君は昔からそう言っているのか」
「ご存じで?」
「騎士団に知り合いがいる。訓練場の鉄塊みたいな大剣を持ち上げようとしていた公爵令嬢の話くらいはな」
レオノーラは少しだけ目を丸くした。
「広がっておりますのね」
「広がる」
ガレスは即答した。
「十にも満たぬ令嬢が、見習い用の重量剣を振ろうとしていたら、誰でも語る」
それはそうかもしれない。
当時は気にしていなかったが、客観的に見ればだいぶ奇行だったらしい。
「条件付きだ」
ガレスが言った。
「学院内での常時携行は認めん。だが訓練場、武芸棟、許可された移動経路に限り、登録武器として携行を認める余地はある」
「ありがとうございます」
「ただし問題を起こせば即停止だ」
「承知しましたわ」
「それと」
ガレスは少しだけ口元を引き締めた。
「新入生代表の顔を潰すような真似はするな」
「新入生代表?」
レオノーラが問い返すと、ガレスは怪訝そうにした。
「知らんのか。今日の入学式、新入生代表挨拶は君だぞ」
「……」
一瞬、室内の音が遠のいた気がした。
クラウスがゆっくりと目を見開く。
「お姉様」
「……初耳ですわ」
かなり珍しく、レオノーラは本気で固まっていた。
剣の許可交渉なら分かる。
だが新入生代表挨拶は聞いていない。
「通知が届いているはずだが」
「たぶん父か母が保管していたのですわね……」
「なぜ確認しない」
「重要書類は侍女長が整理してくださるものと……」
そこまで言って、レオノーラははっとした。
昨日の朝、侍女長が「本日の学院関係書類は机上にまとめております」と言っていた気がする。
完全に剣帯の調整で意識が飛んでいた。
「お姉様、まさか」
「ええ……見落としましたわ……」
クラウスが天を仰いだ。
「入学式前から目立っていたのに、さらに壇上に立たれるのですか」
「わたくしのせいではありませんわ」
「珍しく本当にそうですね」
ガレスはしばらく黙っていたが、やがて諦めたように肩をすくめた。
「……まあいい。代表挨拶では剣は外せ」
「それは仕方ありませんわね」
「聞き分けはいいんだな」
「必要がなければ抜きませんもの」
ガレスの表情が微妙になった。
たぶん「必要があれば抜く」という含みを感じ取ったのだろう。鋭い教員である。
部屋を出たあと、クラウスは歩きながら低い声で言った。
「お姉様」
「何かしら」
「入学式の代表挨拶、どうなさるおつもりですか」
「どう、とは?」
「内容です」
レオノーラは少し考えた。
代表挨拶。
新入生としての抱負。
学院生活への期待。
師弟や友誼への敬意。
だいたい、そのあたりだろう。
「無難にまとめますわ」
「本当に?」
「本当にですわ」
「“この学院生活を無事に生き延びたいと思います”などとは言わないでくださいね」
「言い回しは考えます」
「内容自体はその路線なのですね……」
だが、レオノーラとしては本気でそう思っているのだから仕方ない。
学院は危険地帯である可能性が高い。まずは平穏無事、それが第一だ。
受付棟を出ると、視線はやはりまだ多かった。
ただ、さっきとは少し質が変わっている。
物珍しいだけではない。
“何かを見たあと”の目だ。
暴れ馬の件が効いているのだろう。
その中にはセシリアたちの姿もあった。
彼女たちは明らかに何か話したそうにしていたが、今は距離を取って見守っているようだった。
「……完全に広がっておりますわね」
「はい」
「早くありませんこと?」
「人は目撃情報に価値があると感じると、かなりの速度で共有します」
クラウスの言い方が妙に理知的で、レオノーラは少しだけじとりと見た。
「楽しんでおりません?」
「いいえ。ただ、現象を分析しているだけです」
どこまで本当か怪しいものだ。
その時、遠くの鐘が鳴った。
学院全体へ広がる、澄んだ音。
入学式の集合合図だろう。
「そろそろ講堂ですわね」
「ええ。そしてお姉様は代表挨拶です」
「……」
改めて言われると、さすがに少し緊張した。
剣を握る時とは別種の緊張である。
前世でも人前で話すのは嫌いではなかったが、好きでもない。しかも今日は最初から目立ちすぎている。
「大丈夫ですわ」
「それはご自身に言い聞かせているのですか」
「両方です」
レオノーラは小さく息を吐き、背筋を伸ばした。
剣は外す。
挨拶は無難に。
余計なことは言わない。
必要以上に目立たない。
――今度こそ。
そう決意したところで、講堂へ続く回廊の向こうから、ひときわざわめきが大きくなるのが見えた。
人垣の中心を、数人の上級生と教師が通っていく。
その先頭には、学院でも特に格式の高い制服を着た少年がいた。
金髪。
整った横顔。
周囲が自然と道を開ける気配。
そしてその隣には、いかにも高位貴族然とした少年たち。
胸の奥が、ひどく嫌な予感で冷える。
「……」
レオノーラは思わず足を止めた。
見覚えがある。
いや、正確には“それらしい”と思った。
曖昧な前世の記憶の中、もっとも輪郭だけは残っている存在。
皇太子。
「お姉様?」
クラウスが訝しむ。
レオノーラは視線を逸らさないまま、静かに呟いた。
「……たぶん、来ましたわね」
「何がです」
「厄介事の本体が」
クラウスがものすごく嫌そうな顔をした。
だがレオノーラには、それどころではなかった。
入学式の前。
まだ正式な紹介も、接触もない。
けれど、たぶん間違いない。
乙女ゲーム本編における最大級の危険要素。
婚約者になるはずの相手。
そして将来的に自分を断罪する中心人物かもしれない存在。
その気配が、今、目の前にあった。
レオノーラは微笑みを崩さないまま、内心だけで静かに構える。
――落ち着きなさい、わたくし。
剣はない。
ここは講堂前。
今は戦場ではない。
分かっている。分かっているのだが、気分としては完全に敵前だった。
そしてそんなレオノーラの視線の先で、金髪の少年がふとこちらを見た。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけなのに、周囲のざわめきとは別の何かが、確かに動いた気がした。




