第49話 落ち着かないままでも前へ進めるのなら、今はそれで十分ですけれど、十分だからといって穏やかになるとは限りませんわ
だったら、今はそれで十分だった。
そう思えたからといって、物事が急に穏やかになるわけではない。
むしろ、前へ進むと決めた瞬間から、次に整えるべきものが順番待ちを始める。
レオノーラの人生は、どうもそういう構造らしかった。
その夜。
屋敷の自室で机に向かったレオノーラは、珍しく本を開く前に紙を一枚取り出した。
書くべきことが多い時ほど、頭の中で整理しているだけでは危ない。
上から順に記す。
一 学院特別講義の条件確認
二 工房へ第一案の必要量確認
三 不足時のみ、エルフ側へ打診検討
そこまで書いて、ペン先が少し止まる。
そして四つ目を、少しだけ小さく書いた。
四 誰にどこまで話すか
「……これが一番面倒ですわね」
小さく呟く。
素材そのものより、情報の出し方の方がよほど面倒だった。
ドワーフのことが広がれば、それだけでも普通ではない。
そこへエルフとハイエルフまで乗れば、もう普通の貴族社会の文脈からかなり外れる。
それが悪いとは限らない。
だが、“扱いやすい婚約候補”から遠ざかるのは確実だ。
それは利点でもあり、同時に別の警戒を呼ぶ要素でもある。
扉が軽く叩かれた。
「お姉様」
「入りなさい」
クラウスが入ってくる。
手には書類が一枚。
「お父様からです」
「何かしら」
「学院側への照会文案」
助かる。
本当に助かる。
レオノーラは受け取り、ざっと目を通した。
特別講義への参加は前向き。
ただし、形式・主題・実演の範囲について事前確認を求める。
文面は固く、だが喧嘩腰ではない。
「綺麗ですわね」
「ええ」
「お父様らしいですわ」
「お姉様の条件を、家の言葉へ直していますから」
そこへ、クラウスが机上の紙へ目を落とした。
「増えましたね」
「ええ」
「四番目」
「何かしら」
「それは、明日にはもう試されるかもしれません」
「どういう意味?」
「今日の昼休みで、エルフとハイエルフの件は一組の一部へ落ちました」
「ええ」
「明日には、だいぶ“気を遣った聞き方”で探ってくる者が出ると思います」
かなりあり得る話だった。
今日の反応を見る限り、アーネストは直球、セシリアは慎重、リヒャルトは整理、レティシアは純粋な驚き。
そしてアルベルトは、確認と観察。
つまり、明日以降はそれぞれ別の角度で来る。
「では」
レオノーラは紙の四つ目へ、小さく追記した。
四 聞かれた時の輪郭を固定
「どう固定するつもりです?」
クラウスが問う。
レオノーラは少しだけ考えてから答えた。
「三段階ですわ」
「ええ」
「一つ。エルフとの交友は否定しない」
「ええ」
「二つ。だが、素材の融通を当然視していないことを明確にする」
「ええ」
「三つ。ハイエルフ王族については、“面識と友誼はあるが、そこを誇るつもりはない”で止める」
クラウスはすぐに頷いた。
「かなりいいですね」
「でしょう?」
「ええ。神話化も利用主義も、両方避けられます」
そこが大事だった。
レオノーラ自身、エルフやハイエルフとの縁を“持っていると便利な札”として話したいわけではない。
それは、向こうにも失礼だ。
「お姉様」
「何かしら」
「そこまで整理できているなら、明日は大丈夫です」
「そうかしら」
「ええ。明日崩れるとしたら、たぶん相手の反応の方です」
それは否定しにくい。
翌朝。
学院へ向かう馬車の中で、レオノーラはいつもより少しだけ無口だった。
考えることはもう整理してある。
あとは、聞かれた時に崩さないだけだ。
「緊張していますか」
クラウスが問う。
「少しだけ」
「工房より?」
「種類が違いますわね」
「ええ」
「工房は、反応がどう出ても前へ進みますもの」
「ええ」
「ですが人間関係は、反応がずれると余計な意味が増えます」
学院へ着く。
石造りの建物。
見慣れた回廊。
だが今日は、ほんの少しだけ空気が違っていた。
ざわついているわけではない。
ただ、こちらへ向く視線の“測り方”が昨日より慎重だ。
「……来ておりますわね」
「ええ」
クラウスが短く言った。
「もう広がっている」
一組の教室へ入ると、それはさらに明確になった。
アーネストは最初からこちらを見ている。
リヒャルトは本を開いているが、意識は半分こちらだ。
セシリアとレティシアは、声をかけるタイミングを測っている。
そしてアルベルトは、窓際の光の中で静かに書類を読んでいるふりをしている。
ふりですわね。
たぶん。
「おはようございます」
レオノーラが普段通り言うと、返ってくる声も普段通りだった。
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはよう」
「おはようございます」
よろしい。
少なくとも朝一番から崩れてはいない。
だが、朝の静けさは長く持たなかった。
一限目が始まる前の短い時間、セシリアがまず来た。
「レオノーラ様」
「何かしら」
「昨日のお話、少し気になっておりましたの」
やはりそこからですのね。
「どの部分かしら」
「素材のこともですが」
セシリアは少しだけ声を落とした。
「“当然のようには扱わない”と仰っていたところです」
そこを拾うのは、とてもセシリアらしい。
「ええ」
「とても大事な感覚だと思いましたの」
レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
問い詰めではなく、確認でもなく、そこへ来るのか。
「相手がどれほど近くても」
セシリアが続ける。
「自分の都合だけでは使わない、ということでしょう?」
「そうですわ」
「それは、なかなかできることではありません」
「そうかしら」
「ええ。力のある縁ほど、人は“使える”と見てしまいがちですもの」
その言葉は、かなり本質的だった。
「わたくしは」
レオノーラは静かに言う。
「便利だから繋がるのではなく、繋がったからこそ雑に扱えないと思っておりますの」
セシリアは、少しだけ安心したように微笑んだ。
「それを聞けてよかったですわ」
助かる。
こういう確認なら、むしろ輪郭が整う。
そこへ、アーネストが我慢できなくなったらしい。
「なあ」
「何かしら」
「昨日の続き、いいか?」
「よくありませんわ」
「即答するなよ!」
「嫌なものは嫌ですもの」
「少しだけ!」
リヒャルトが静かに割って入る。
「少しだけ、で済んだ試しがないでしょう」
「今回は済ます!」
「信用がないですね」
本当にその通りである。
「一つだけだ」
アーネストが指を立てる。
「一つだけ、なら」
「エルフって、どうやって友達になるんだよ」
教室の空気が、微妙に止まった。
そこですの?
そこを聞きますの?
「……ずいぶん根本から来ますわね」
「だって分かんねえだろ」
「わたくしにも、一般論は分かりませんわ」
「お前の例でいいよ」
困りますわね。
レオノーラは少しだけ考えた。
この問いに対して、変に盛ると神話になる。
だが曖昧にしすぎても、余計に奇妙な物語が生まれる。
「森で知り合いました」
まずは事実だけ置く。
「森?」
「ええ」
「修行中に?」
「ええ」
「そこで仲良くなった?」
「最初は矢を向けられましたわ」
「は?」
アーネストが間の抜けた声を出す。
リヒャルトまで少しだけ目を上げた。
「矢?」
「ええ」
「やっぱり?」
「やっぱり、の意味が分かりませんけれど」
「いや、何となく」
何となくで矢を向けられる前提を作らないでいただきたい。
「その後、少し話し合いましたの」
「話し合いで済むのか、それ」
「済みましたわ」
「どうやって?」
アーネストが身を乗り出す。
そこへアルベルトが、ふいに口を挟んだ。
「たぶん、普通の話し合いではないな」
その言い方は少し腹立たしいが、たぶん当たっている。
「……少し実力確認は入りましたわ」
「やっぱり!」
アーネストが机を叩きそうな勢いで言う。
「何ですの、その嬉しそうな声は」
「いや、だってお前らしいだろ」
「嬉しくございませんわ」
セシリアが、少し困ったように尋ねる。
「つまり」
「ええ」
「最初は敵対的だったけれど、その後に認められた、と」
「そうなりますわね」
それなら話としては通る。
そして、少なくとも“偶然お茶会で仲良くなりました”みたいな方向ではないことも伝わる。
「その“少し実力確認”って」
アーネストがまだ続けようとする。
「そこから先は省略ですわ」
「何でだよ」
「長いですもの」
「そこ一番気になるところだろ!」
「それを今ここで全部話すのは、あまりに御伽話寄りですわ」
その返しに、リヒャルトが小さく頷いた。
「それは正しいですね」
「ちぇっ」
アーネストが引いた。
偉い。
少しだけ成長なさっておりますわね。
そこへレティシアが、きらきらした目のまま言った。
「でも、少し分かりましたわ」
「何がかしら」
「レオノーラ様が、普通の“お友達がたくさん”という方ではないことです」
「そこは昨日でもう十分伝わったと思っておりましたの」
「ええ。でも」
レティシアは本当に楽しそうだった。
「“変だから気に入られる”の意味が、少しだけ分かりましたの」
やめてくださいまし。
その理解のされ方は、少々複雑ですわ。
その時、始業の鐘が鳴った。
ちょうどいい。
これ以上掘られると、さすがに工房だの竜骨だのまで繋がっていきかねない。
午前の授業は比較的静かに進んだ。
だが静かなだけに、レオノーラは逆に自分の中の整理が進んでいくのを感じていた。
エルフ側へ打診するなら、手紙か。
それとも別の伝達手段か。
ハイエルフ王族へ直接ではなく、まずはエルフの友人経由が筋だろう。
そう考えていた矢先、二限と三限の間の短い休憩で、教室の外から声がした。
「アルトヴァイス嬢」
学院の事務方の人間だった。
「はい」
「学院長室より伝言です」
来ましたわね。
「本日中に、特別講義の件で正式回答をお持ちいただきたいとのことです」
「承知しましたわ」
「加えて」
「まだございますの?」
「講義には、上級生側からも同席希望者が出ております」
それは、少々予想していた。
していたが、実際に言われると面倒さが増す。
「誰ですの?」
「その点も含めて、学院長室にて」
答えないのですね。
それはそれで賢明だと思う。
事務方が去ったあと、教室へ戻ると、空気が少しだけ張っていた。
「増えましたわね」
クラウスが、いつの間にかまた来ていた。
「ええ」
「上級生側の同席希望者?」
「そのようですわ」
「騎士科でしょうね」
「でしょうね」
そして、その時点でレオノーラは嫌な予感を持っていた。
騎士科上級生。
実力測定。
特別講義。
高出力個体。
この流れで手を挙げる人物など、だいたい一種類しか思いつかない。
「お姉様」
「何かしら」
「顔に出ています」
「何が?」
「たぶん、“心当たりがあって、それが嫌な方向”の顔です」
だいぶ鋭い。
そしてだいぶ正しい。
レオノーラは窓の外を見た。
青い空。
穏やかな日差し。
だが、その穏やかさに反して、こちらの周囲は少しも落ち着いてくれない。
けれど、それでも。
前へ進む種類の面倒なら、まだ整えられる。
だから今は、その一つ先に何が来るのかを見極めるだけだった。




