第37話 ようやく流れがこちらに寄ってきたと思った矢先に、次は殿下の方から動かれるのですから、本当に油断できませんわ
だからたぶん、今度はもっと上手くやれる。
そう思っていた矢先に、次は殿下の方ですわね、と自分で口にしてしまったのだから、もはや予感というより予定に近かったのかもしれない。
翌朝。
一組の教室へ入った瞬間、レオノーラは空気のわずかな違いに気づいた。
静かだ。
昨日までのような、あからさまなざわめきではない。
視線も少ない。
その代わり、何かを待つような、少しだけ張った空気がある。
これはよくない。
よくない種類の静けさである。
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはようございます、セシリア様」
いつも通りに挨拶を返しつつ、自席へ向かう。
前方ではアーネストが、妙ににやつきもせず、かといって平然とも言い難い顔をしていた。
リヒャルトはいつも通り静かだ。
レティシアは何か知っているようで知らないような、微妙な顔でこちらを見ている。
そしてアルベルトは、すでに席についていた。
教科書ではなく、封書を読んでいる。
嫌な予感がした。
「……何かございましたの?」
レオノーラが席につくより先にそう問うと、アーネストがぱっと顔を上げた。
「やっぱ分かるか」
「分かりますわよ」
「そんな顔をしておいて、何もない方が不自然ですもの」
リヒャルトが小さく息を吐く。
「その通りですね」
「何があったのです?」
レオノーラが改めて問うと、今度はアルベルトが封書を閉じた。
「まだ正式ではない」
その前置きが、すでに嫌だった。
「ですが?」
「週末の夜会に、君の名が含まれているらしい」
ああ、来ましたのね。
レオノーラは思わず目を閉じたくなったが、なんとか踏みとどまった。
夜会。
つまり貴族社会側の次の盤面である。
学院の中だけで整えた流れが、今度は外へ持ち出される。
「らしい、とは?」
「父上のところに、出席予定者の事前確認が来た」
アルベルトは淡々としていた。
「そこにアルトヴァイス公爵家の名があった」
「それは別に不思議ではございませんでしょう」
「普通ならな」
そこでアーネストが口を挟む。
「でも今回は、お前と殿下が両方入ってる時点で、周囲は絶対いろいろ言うだろ」
「言うでしょうね」
レオノーラは即答した。
「とても面倒ですわ」
「やっぱそう思うよな」
アーネストがどこか感心したように言う。
「思わない理由がございませんもの」
レティシアが少しだけ身を乗り出した。
「夜会、ですの?」
「ええ、どうやら」
「……それは、たしかに少し騒がれそうですわね」
少し、では済まない気がするのだが、今の段階ではそのくらいの表現でよいだろう。
リヒャルトが冷静に言った。
「学院での測定結果が、ちょうどよく外へ出るタイミングでもあります」
「ええ」
「だから余計に、ですね」
「その通りですわ」
レオノーラは静かに頷いた。
実力測定で“基準が違う”ことは見せた。
学院側にも騎士団側にも、ある程度の印象操作はできた。
だがそれを貴族社会がどう読むかは、また別問題だ。
そして夜会は、そういう解釈が一気に増幅する場である。
「君の家にはまだ正式連絡が来ていないのか?」
「少なくとも、今朝の時点では聞いておりませんわ」
「なら今日中には届くだろうな」
アルベルトはそう言って、机上へ封書を置いた。
その落ち着いた言い方が、少しだけ腹立たしい。
いや、腹立たしいというより、厄介なのだ。
この人は、こういう局面でも無用に煽らない。
淡々と現実だけを置いてくる。
「殿下は、その夜会へ出席なさいますの?」
「おそらく」
「そうですの」
「嫌そうだな」
アルベルトがごく自然に言う。
レオノーラは少しだけ視線を逸らした。
「嫌ですわね」
否定する必要もない。
「学院の中で整えたものを、外でまた別の文脈に組み直されるのは、かなり面倒ですもの」
「それはそうだな」
アルベルトはあっさり頷いた。
「だから確認しておきたかった」
「何をですの?」
「君が、その夜会を避けるかどうかだ」
なるほど。
そこを見ていたのですのね。
レオノーラは小さく息を吐いた。
避けるか。
行くか。
たしかに、ここでの判断はかなり大きい。
だが答えは、もうほぼ決まっていた。
「避けませんわ」
教室の空気が、ほんの少しだけ動く。
アーネストが目を丸くし、リヒャルトはわずかに眉を上げた。
レティシアも驚いた顔になる。
「へえ」
アーネストが最初に声を出した。
「意外だな」
「どうしてですの?」
「お前なら“絶対出たくありませんわ”って言うかと」
「そう思ってはおりますわよ」
「じゃあ何で出るんだ?」
「逃げる方が不利だからですわ」
その一言で、今度は本当にはっきり空気が静まった。
レオノーラは構わず続ける。
「夜会を避ければ、“何かある”と思われます」
「それはたしかに」
リヒャルトが低く言う。
「しかも今の状況で欠席すると、婚約話を避けているのだと、雑に結びつけられますもの」
「ええ」
「でしたら、出た上で整える方がまだましですわ」
アーネストが腕を組む。
「なるほどなあ」
「何ですの?」
「やっぱり、お前そういうとこ実務だよな」
その言い方は、少しだけ前よりましだった。
茶化しではなく、理解寄りの響きがある。
「夢も何もございませんけれどね」
「でも正しいだろ」
「正しいことと面倒でないことは別ですわ」
そこへ、アルベルトが静かに問う。
「出た上で、どう整えるつもりだ?」
来ますわよね、その問い。
レオノーラは少しだけ考え、それから答えた。
「まだ詳細は決めておりません」
「だが骨格はある」
「ええ」
「聞いても?」
「その問い方、最近お好きですわね」
「便利だからな」
少しだけ言い返したかったが、事実でもあるので困る。
「骨格だけなら」
レオノーラは小さく肩をすくめた。
「学院での延長ですわ」
「延長?」
「ええ。強く見せるのではなく、扱いづらく見せる」
アーネストが吹き出しかけ、リヒャルトが目元を押さえた。
アルベルトだけが、ほとんど表情を変えない。
「それは、なかなか直接的だな」
「実際そうでしょう?」
「否定はしない」
アルベルトの返答は静かだった。
「だが、夜会でどうやってそれを出す?」
「そこですのよね」
レオノーラは本気でそう思った。
武芸棟なら、剣と制御で見せられる。
だが夜会は違う。
必要なのは言葉、所作、距離感、会話の運び方だ。
つまり、こちらの土俵でありながら、今度はまったく別種の戦場になる。
「お姉様なら、こういう時どうするかしら」
ぽつり、とレオノーラは呟いた。
しまった、と思った時には少し遅かった。
「お姉様?」
レティシアが首を傾げる。
「いえ」
レオノーラはすぐに首を振る。
「こちらの話ですわ」
危ない。
今のは少し危なかった。
だが幸い、そこを深掘りする空気にはならなかった。
アルベルトが代わりに、別の角度から言った。
「夜会では、剣のような答え方はできないぞ」
「ええ」
「むしろ逆に、曖昧さや余白の扱いが問われる」
「そのくらいは分かっておりますわ」
レオノーラは少しだけ目を細めた。
「殿下こそ、わたくしが夜会では不利だと仰りたいのではなくて?」
「そうは言わない」
「では?」
「学院での君は、整えて勝った」
「ええ」
「なら、夜会でも同じことをするだけだろう」
その言葉は、不思議とレオノーラの胸にすっと入った。
同じことをするだけ。
たしかにそうかもしれない。
武芸棟でやったのは、ただ剣を振るうことではなかった。
見られ方を制御し、誤解を減らし、必要な印象だけを残した。
夜会でも、本質は同じだ。
剣ではなく、会話と距離と沈黙になるだけで。
「……そうですわね」
レオノーラはゆっくり頷いた。
「たしかに、同じかもしれませんわ」
「だろう」
アルベルトはそれだけ言った。
その一言が、妙に腹立たしくもあり、助かりもした。
なぜこの人は、こういう時だけこちらの思考をきれいに整理してしまうのか。
厄介である。
「でもよ」
アーネストがそこで言う。
「夜会ってことは、騎士科とか学院の連中とはまた違うぞ?」
「ええ」
「相手はもっと回りくどいし、噂話も早いし」
「存じておりますわ」
「だったら余計大変じゃないか?」
「大変ですわね」
「なのに出るんだな」
「だからこそ出るのですわ」
レオノーラは少しだけ口元を引き締める。
「向こうの土俵でも、こちらの輪郭は自分で決めませんと」
それを聞いたリヒャルトが、静かに一つ頷いた。
「筋は通っています」
「ありがとう」
「ただし」
「何かしら」
「学院より疲れるでしょうね」
「ええ。間違いなく」
そこは否定しようがない。
話しているうちに始業の鐘が鳴った。
マグダ教員が教壇へ立ち、教室の空気が授業へ切り替わる。
その後の座学中も、レオノーラの頭の片隅にはずっと夜会があった。
出る。
逃げない。
では、どう整えるか。
婚約を避けたい。
だが露骨に拒絶して角を立てるのも違う。
学院で見せた“基準のずれ”を、今度は言葉と振る舞いで出さなければならない。
となると――
必要なのは、“普通の令嬢の価値基準に乗らない”ことだ。
家格。
容姿。
舞踏。
社交辞令。
そういうもので測られても、こちらはその枠組みを最優先していないと自然に分からせる。
ただし、不敬にも無礼にも見せずに。
難しい。
だが、たぶんできる。
昼休み。
レティシアとセシリアは今日は揃ってこちらへ来たが、どちらも妙にそわそわしていた。
「……何かしら」
レオノーラが問うと、セシリアが少し言いにくそうに言った。
「夜会の噂、もう少し回っておりますわ」
早すぎませんこと?
いや、もう驚いても仕方ない。
「どこまで?」
「まだ“フローレンス家も来るらしい”とか、“殿下も出られるらしい”とか、その程度ですけれど」
レティシアが小さくうなずく。
「母にも、何か連絡が入っていたようでした」
やはりそうですのね。
もう学院内だけの空気ではない。
話が貴族社会側へ接続し始めている。
「でしたら」
レオノーラは落ち着いて言った。
「なおさら、変に避けられませんわね」
「出られるのですか?」
セシリアが問う。
「ええ。そのつもりですわ」
「すごいですわね……」
レティシアが素直に言う。
「嫌ではございませんの?」
「とても嫌ですわ」
二人が同時に目を丸くした。
「ですが」
レオノーラは続ける。
「嫌だからといって、最善手を捨てるわけには参りませんもの」
セシリアが、少しだけ納得したような顔になる。
「そういうところ、本当にレオノーラ様らしいですわね」
「そうかしら」
「ええ。感情を否定しないのに、判断は別に置くところが」
それは、たぶん前世からの癖だ。
怖い。嫌だ。面倒だ。
そういう感情はある。
だが、それとは別に、何をするのが得かは考える。
「でも」
レティシアが少しだけ身を乗り出す。
「夜会では、あまり無理をなさらないでくださいませね」
「ええ」
「学院と違って、逃げ場が少ないですもの」
その言葉は、思った以上に的確だった。
武芸棟には線がある。
評価項目もある。
だから整えやすい。
だが夜会は違う。
会話も視線も偶然を装って流れ込んでくる。
逃げ場が少ない。
その通りだ。
「覚えておきますわ」
レオノーラがそう答えた時、前方の席からアルベルトが立ち上がった。
昼休みの終わりが近い。
彼は教室を出る前に、一度だけこちらを見た。
「夜会」
「ええ」
「君がどう整えるか、また確認だな」
やはり、そう来ますのね。
レオノーラはほんの少しだけ苦笑した。
「殿下は、本当にその言葉がお好きですのね」
「便利だからな」
昨日と同じ答えだった。
だが、今日は少しだけ違う。
「でしたら」
レオノーラは静かに言う。
「今度は、学院の時ほど素直に確認できると思わないでくださいまし」
アルベルトが一瞬だけ足を止めた。
「ほう」
「夜会ですもの」
レオノーラはわずかに顎を上げる。
「わたくしも、少しくらいは貴族らしく曖昧になりますわ」
その返しに、アーネストが吹き出し、リヒャルトが目を伏せた。
セシリアとレティシアは、なぜか少しだけ楽しそうな顔をしている。
アルベルトだけが、ほんの少しだけ目を細めた。
「それはそれで、厄介だな」
「ええ」
「ですが、それが普通ですわ」
アルベルトは数秒だけ何も言わなかった。
そしてごく小さく笑う。
「楽しみにしている」
やめてくださいまし。
本当にやめてくださいまし。
だが今はもう、そこへ過剰に反応しない。
「そう見えるなら、まだ整え方が足りませんわね」
そう返すと、アルベルトは何も言わずに教室を出た。
その背中を見送りながら、レオノーラは静かに思った。
やはり次は、この人だ。
学院での第一ラウンドは終わった。
なら、次は夜会での第二ラウンド。
戦場が変わるだけで、本質は同じ。
自分の輪郭を、自分で決める。
それだけだ。
その日の帰り道、迎えの馬車へ向かう途中で、クラウスが待っていた。
「お姉様」
「何かしら」
「顔を見れば分かります」
「何がですの?」
「もう次の戦場を見ているお顔です」
レオノーラは少しだけ笑った。
「ええ、そうかもしれませんわね」
「夜会ですか」
「ええ」
「勝てそうですか」
その問いに、レオノーラはほんの一瞬だけ考えた。
「学院より難しいですわ」
「ですが?」
「勝ち筋はございます」
クラウスが小さく頷いた。
「それなら十分です」
馬車へ乗り込み、窓の外を見る。
学院の石造りの建物が、ゆっくり遠ざかっていく。
今度は、夜会。
剣ではなく、言葉と視線と沈黙。
面倒だ。
とても面倒だ。
だが、それでも。
もう最初の頃のように、ただ巻き込まれるだけではない。
だからたぶん、今度も大丈夫だ。




