第36話 学院の応接室に呼ばれた時点で、ただの授業後の話で済むはずがないと分かっておりますわ
やはり、次が来ましたのね。
レオノーラは席を立ちながら、心の中で静かにそう思った。
応接室。
それは、授業や訓練の延長ではない。
学院の外と内が接続される場所だ。
保護者、来客、外部関係者。
そういうものが出入りする空間である。
つまり、学院の中だけで完結しない話だ。
「……何でしょうね」
セシリアが小さく呟いた。
「さあ」
レオノーラは短く答える。
「ですが、穏やかな内容ではないでしょうね」
アーネストが前の席で振り返る。
「何かやらかしたのか?」
「その聞き方は失礼ですわね」
「でも、お前の場合あり得るだろ」
「あり得ませんわ」
「本当に?」
「少なくとも、本日は心当たりがございません」
そこへリヒャルトが静かに挟む。
「“本日は”と言うあたりに少し不安がありますね」
「……気のせいではなくて?」
「そうは思えません」
まことに失礼だが、反論しきれないのが少し悔しい。
アルベルトは椅子から立ち上がりながら、こちらを見た。
「応接室なら、学院の外部対応だろうな」
「でしょうね」
「昨日の件が、もう外へ広がったか」
鋭い。
かなり鋭い。
「その可能性はございますわ」
レオノーラがそう答えると、アルベルトは少しだけ考えるような顔になった。
「保護者か」
「貴族家か」
「あるいは騎士団か」
アーネスト、リヒャルト、アルベルトが順に言う。
どれでも嫌ですわね。
レオノーラは心の中でそう思ったが、表には出さない。
「では」
マグダ教員が淡々と言った。
「アルトヴァイス嬢、来なさい」
「はい」
レオノーラは一礼し、教室を出る。
廊下へ出た瞬間、ざわめきが一枚外側に残されたような感覚があった。
教室の中の視線はもう追ってこない。
代わりに、これから向かう先の内容を考える時間が生まれる。
マグダ教員は歩きながら言った。
「先に言っておきます」
「何でしょう」
「今回は、あなた個人を叱責するためのものではありません」
「そうですの」
「意外そうね」
「ええ」
レオノーラは正直に認めた。
「最近、その種の呼び出しが多うございますもの」
「自覚はあるのね」
「多少は」
マグダ教員は少しだけ息を吐いた。
「今回の用件は、あなたに関する話ではありますが、あなたの落ち度を問う場ではありません」
ならば、やはり外部か。
応接室の前まで来ると、扉の脇に学院職員が控えていた。
かなり丁寧な扱いだ。
マグダ教員が軽く頷く。
「失礼します」
扉が開く。
中にいたのは、二人。
一人は、見覚えのある女性だった。
年の頃は四十前後。
柔らかな色味のドレスに、無駄のない所作。
フローレンス侯爵夫人――つまり、レティシアの母。
そしてもう一人は、学院の事務統括と思しき年配の男性である。
……なるほど。
レオノーラは一瞬で状況を測る。
騎士団ではない。
皇室でもない。
保護者寄り。
だが、学院も同席している。
つまり完全な私的訪問ではなく、“学院内で生じた関係についての穏当な事前調整”と見てよさそうだった。
「失礼いたしますわ」
レオノーラは一礼した。
「お呼びとのことでしたので参りました」
フローレンス侯爵夫人は立ち上がり、たいへん優雅に一礼を返した。
「お時間を取らせてしまってごめんなさいね、アルトヴァイス嬢」
「いえ」
「突然で驚かれたでしょう?」
「少しは」
レオノーラがそう答えると、侯爵夫人はほんの少しだけ笑った。
「正直でよろしいわね」
レティシアに少し似ている。
ただしこちらは、言葉の運びがだいぶ大人だ。
「本日は、娘のことで少しお話がしたくて参りました」
やはりそこですのね。
マグダ教員がレオノーラへ着席を促す。
四人が応接の形で座る。
「先に申し上げますわ」
フローレンス侯爵夫人は穏やかに言った。
「これは抗議でも苦情でもありませんの」
「はい」
「むしろ逆です」
逆。
その一語に、レオノーラは少しだけ警戒を強めた。
苦情の方がまだ分かりやすい。
“逆”の方が、往々にして扱いづらい。
「レティシアが、あなたを大変気に入ってしまっていて」
やはりそうですのね。
レオノーラは静かに目を伏せたくなったが、もちろんそんなことはしない。
「娘は昔から、人を見る時に妙なところで一直線になることがありますの」
「妙なところ、と申しますと」
「強さ、ですとか」
「まっすぐさ、ですとか」
「自分には持てないものを持っている相手、ですとか」
非常に分かりやすい。
そして、かなり困る。
「誤解しないでくださいね」
侯爵夫人は続ける。
「わたくしは、それ自体を止めたいわけではありませんの」
「では?」
「娘が、あなたに無遠慮になっていないかを確認したかったのです」
そこは少し意外だった。
もっとこう、仲良くしてほしいとか、逆に距離を置いてほしいとか、そういう要望型かと思っていたからだ。
「レティシアからは、“レオノーラ様はとても格好よくて、でも余白が必要な方だと思う”と聞いております」
レティシア様、そこまで伝えておられましたのね。
レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
「ですので」
侯爵夫人の声音は終始柔らかい。
「母としては、その余白を娘が無神経に踏み荒らしていないか、そこだけ気になりまして」
……それは、だいぶまともな話だった。
かなりありがたいくらいに。
「結論から申し上げますと」
レオノーラは静かに答える。
「不快ではございません」
侯爵夫人の目元が、ほんの少しだけ和らぐ。
「本当ですの?」
「ええ」
「娘は少し、一直線なところがございますけれど」
「ええ」
「悪意はございませんし、距離を見直そうとする柔らかさもございます」
それは、実際にそうだった。
レティシアは押してくる時もある。
だが、こちらが余白を必要としていると分かれば、考え直すこともできる。
その時点で、かなり話が通じる相手だ。
「でしたらよかった」
侯爵夫人は小さく息を吐いた。
「娘は昔から、好意の向け方だけは真っ直ぐすぎるものですから」
そこは否定しにくい。
「ただ」
レオノーラは少しだけ言葉を選んだ。
「はい」
「学院内で、わたくしが少し注目を集めているのは事実です」
「ええ」
「ですので、レティシア様がわたくしへ近づくことで、余計な見られ方をなさる可能性はございますわ」
その点は、伝えておいた方がいい。
侯爵夫人はその一言で、少しだけ表情を引き締めた。
「たとえば?」
「たとえば、派閥めいたものに見られること」
「……なるほど」
「あるいは、婚約話の周辺で、不要な憶測に巻き込まれること」
そこまで言うと、侯爵夫人は完全に理解したようだった。
「たしかに、それはあり得ますわね」
「ええ」
「あなたは、娘を遠ざけたいのではなく、巻き込みたくないのね」
その整理は正確だった。
「はい」
レオノーラは頷く。
「レティシア様ご本人には、少しだけ似た窮屈さも感じておりますもの」
侯爵夫人の目が、ほんの少しだけ見開かれた。
「娘が?」
「はい」
レオノーラは静かに続けた。
「“可憐”や“守ってあげたい”のような見られ方で、雑にまとめられる息苦しさが、たぶん少しおありですわ」
応接室が、一瞬静まった。
マグダ教員は何も言わない。
だが、フローレンス侯爵夫人はしばらく本当に何も言葉を出さなかった。
そしてやがて、ゆっくりと微笑む。
「……まあ」
「何か間違っておりました?」
「いいえ」
侯爵夫人は首を振った。
「驚いただけです」
「驚き、ですの?」
「ええ。娘のそういう部分を、まだ数日しか接していないあなたが、そこまできちんと見てくださっていたのだと思って」
その言い方は、少しだけくすぐったい。
褒められたくて見たわけではないからだ。
「わたくしも、似たようなものですもの」
レオノーラは短く答えた。
「見られ方の窮屈さ、ですわね」
「ええ」
侯爵夫人は扇をそっと閉じた。
「安心しました」
「そうですの?」
「娘が一方的に憧れているだけではなく、あなたも娘を一人の人間として見てくださっているのだと分かりましたもの」
そういう見方をされると、少し困る。
困るが、悪くはない。
そこへ、これまで黙っていた学院事務統括が口を開いた。
「では、学院としても確認しておきましょう」
年配の男性は、落ち着いた声で言った。
「フローレンス嬢とアルトヴァイス嬢の関係について、保護者間で特段の懸念はない」
「はい」
「ただし、外部からの不要な憶測を避けるため、学院内では過剰な接近として見えぬよう配慮は要する」
「ええ」
レオノーラも侯爵夫人も頷いた。
要するに、結論はこうだ。
仲違いではない。 だが、目立つ形での過剰接近は避ける。 互いに相手を雑に扱わない。
かなりまっとうである。
「アルトヴァイス嬢」
侯爵夫人が改めてレオノーラへ向き直る。
「娘を気遣ってくださってありがとう」
「いえ」
「そして、娘が無遠慮になりそうでしたら、どうか遠慮なく線を引いてくださいな」
それは助かる申し出だった。
「そうさせていただきますわ」
「ええ。それで十分です」
話はそこで終わった。
応接室を出る時、侯爵夫人は最後に、ほんの少しだけ微笑んでこう言った。
「レティシア、あなたのことを本当に格好いいと思っているのよ」
やめてくださいまし。
その言葉だけは、娘さんと同じ方向ですのね。
レオノーラは心の中でそう思ったが、表には出さず、一礼だけ返した。
「光栄ですわ」
応接室の外へ出ると、マグダ教員が廊下を少し先まで一緒に歩いた。
「先生」
「何かしら」
「これは、学院としては火消しですの?」
マグダ教員は少しだけ考え、それから答えた。
「火消し、というより事前整理ね」
「なるほど」
「あなたの周囲、少し話題が増えすぎていますから」
「ええ。自覚はございますわ」
「でしたら結構」
そこでマグダ教員は足を止め、静かに言った。
「今日の対応は良かったわ」
「そうですの?」
「ええ。娘を拒絶するでもなく、無責任に近づけるでもなく、きちんと線を引いた」
それは、来週の婚約話にも繋がる話かもしれない。
近づけるか、切るか、ではなく、距離を選ぶ。
「覚えておきなさい」
マグダ教員は続ける。
「あなたは、極端に振るより、境界を決める時が一番強い」
その言葉は、妙に腑に落ちた。
前世でもそうだった気がする。
白か黒かではなく、どこまでを許容し、どこから先を切るか。
その線引きの時に、自分は一番冷静だった。
「……ありがとうございます」
「礼は不要よ」
マグダ教員はそこで去っていった。
教室へ戻る道すがら、レオノーラはほんの少しだけ息を吐く。
予想していた“次”とは少し違った。
だが、悪い話ではなかった。
むしろ、静かな調整だ。
そしてそういう調整こそ、長い目で見れば一番効く。
教室へ戻ると、もう他の生徒はほとんど帰り支度を終えていた。
アーネストが真っ先に反応する。
「何だった?」
「少々ですわ」
「またそれか」
「便利ですもの」
「便利すぎるだろ」
リヒャルトが鞄を持ちながら、静かに言う。
「厄介事では?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「整理ですわ」
それを聞いて、アルベルトがほんの少しだけ視線を上げた。
「整理、か」
「ええ」
「君の周囲は、本当にそういう言葉が多いな」
レオノーラは少しだけ肩をすくめた。
「実際、そういうことばかりですもの」
アルベルトは、その返しに小さく笑った。
「たしかに」
そのまま彼は立ち上がる。
「では、また明日」
「ええ」
「ごきげんよう、殿下」
「ごきげんよう」
短い。
だが、それで十分だった。
今日の“次”は、少なくとも悪手ではない。
そう思えた時点で、レオノーラの中ではかなり上出来である。
迎えの馬車へ向かう途中、クラウスがいつもの位置で待っていた。
「お姉様」
「何かしら」
「顔色は悪くありませんね」
「ええ」
「応接室は厄介事ではなかった?」
「半分くらいは」
「残り半分は?」
「整理でしたわ」
クラウスが少しだけ目を細める。
「……今日はその言葉が多いですね」
「そうかしら」
「ええ。でもたぶん、今のお姉様には一番合っています」
レオノーラはその言葉を聞いて、少しだけ笑った。
「かもしれませんわね」
勝った後の余波。
騎士団。
婚約。
レティシアとの距離。
どれも一足飛びには終わらない。
だが、だからこそ、順番に整理していくしかない。
そしてたぶん、それは自分の得意分野だった。
誰かの期待に応えるためではない。
誰かの物語に都合よく収まるためでもない。
自分の意思の輪郭を守るために。
必要なだけ、引いて、切って、残していく。
「……ようやく、流れがこちらに寄ってきましたわね」
馬車へ乗り込みながらそう呟くと、クラウスが小さく頷いた。
「ええ」
「なら、次は?」
弟の問いに、レオノーラは窓の外へ視線を向けた。
「次は」
少しだけ考える。
「殿下の方ですわね」
婚約話は、まだ終わっていない。
むしろ今日の実力測定で、こちらの輪郭を見せたからこそ、向こうも次の出方を決めるだろう。
ならば、その“次”に備える。
戦い方は、もう最初の頃とは違う。
だからたぶん、今度はもっと上手くやれる。




