第32話 いよいよですわね、と口に出さずに思えた時点で、わたくしの中でも覚悟は決まっておりますわ
――いよいよですわね。
レオノーラはその言葉を口には出さず、胸の内だけで静かに転がした。
教室の空気が、いつもと違う。
ざわめきは少ない。
視線はある。
だがそれは、面白いものを見ようとする軽い熱ではなかった。
待っている空気。
確認しようとする空気。
そして、誰もが少しだけ緊張している空気。
来週の実力測定を前にして、一組全体がじわじわと同じ方向を向き始めているのだろう。
レオノーラは自席へ向かいながら、できるだけいつも通りの歩幅を意識した。
速すぎず、遅すぎず。
視線を泳がせず、だが睨みもせず。
こういう細かいところが、案外印象を決める。
「おはようございます、レオノーラ様」
セシリアが先に声をかけてきた。
「おはようございます、セシリア様」
「今日は、皆さま少し静かですわね」
「ええ」
レオノーラは小さく頷いた。
「たぶん、それぞれに考えることがあるのでしょうね」
「来週のこと、ですわよね」
「そうでしょうね」
短い会話だったが、それだけで十分だった。
今は余計な言葉を重ねる空気ではない。
それをセシリアも分かっている。
だからありがたい。
席へ着くと、前方のアーネストが振り返る気配を見せたが、今日はすぐには口を開かなかった。
珍しい。
その代わり、少し間を置いてから、いつもより低い声で言った。
「おはよう」
「おはようございます、アーネスト様」
「……今日は変に聞かない」
レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
「何をですの?」
「来週のこととか、準備とか」
アーネストは肩をすくめた。
「たぶん今、お前そういうの嫌だろ」
その気遣いは意外だった。
そして、かなり助かる。
「ええ」
レオノーラは素直に答えた。
「助かりますわ」
アーネストは照れたようでもあり、少しだけ落ち着かないようでもあった。
「おう」
そこへ、リヒャルトが静かに加える。
「こちらも、今日は無駄に刺激しない方がいいと判断しました」
「刺激、ですの?」
「ええ」
彼はいつもの無表情に近い顔で言った。
「あなたはわりと、余計な刺激があるほど綺麗に整えてくるので」
レオノーラは少しだけ眉を上げた。
「褒めておりますの?」
「半分くらいは」
クラウスと似たような言い回しだった。
まともな人間は、だいたいこういう言い方になるのかもしれない。
そして、前方中央の席ではアルベルトがすでに教科書を開いていた。
こちらを見ているわけではない。
だが、見ていないわけでもない。
その程度の気配がある。
嫌なような。
少しだけ落ち着くような。
そういう厄介な距離感だった。
一限目が始まる前、マグダ教員が入ってきた。
「静粛に」
教室がすぐに整う。
「本日は通常授業に加え、放課後に武芸選択者へ来週の実力測定の簡易説明を行います」
やはり来ましたのね。
レオノーラは心の中でそう思ったが、表情は変えない。
「なお、説明対象は武芸選択者のみですが」
そこでマグダ教員は、一度だけ教室全体を見回した。
「一組全体に関わる話でもありますので、噂や憶測で騒がぬように」
数人がわずかに姿勢を正す。
良い釘刺しだった。
かなり良い。
「実力測定は、個人の力を競うためだけのものではありません」
マグダ教員は続ける。
「自分の力量をどこまで把握し、どこまで制御できるかを示す場です」
その言葉に、レオノーラはほんの少しだけ安堵した。
教師側の主眼がそこにあるなら、こちらの設計とも噛み合う。
「ですから、見栄や意地で動くことは評価に繋がりません」
一瞬だけ、マグダ教員の視線がアーネストをかすめた。
アーネストがほんの少しだけ顔をしかめる。
図星なのだろう。
「肝に銘じなさい」
「はい」
教室の返事は揃っていた。
午前の授業は、妙に集中しやすかった。
教室全体が余計な私語へ流れず、どこか皆、各自の中で準備を進めているような空気だったからだ。
レオノーラ自身も、今日はあまり来週の構成をいじらなかった。
もう細部を動かしすぎる段階ではない。
制御。
安全。
基準のずれ。
面倒さを残す。
骨格はこれでいい。
あとは当日、何を聞かれ、どう返すか。
そこだけを意識すれば足りる。
昼休み。
今日のレティシアは、いつもより少し静かだった。
無理に話しかけてくることもなく、ただ近くの席で昼食を取りながら、ときどきこちらを見る程度である。
それはそれで少し意外だった。
「レティシア様」
レオノーラの方から声をかけると、彼女は少し目を丸くした。
「はい?」
「今日は静かですのね」
レティシアは、少しだけ困ったように笑った。
「昨日、少し考えたのです」
「何をですの?」
「わたくし、レオノーラ様へ話しかけすぎていたかもしれないと」
それは意外だった。
この子は、自分の距離感を振り返れるらしい。
「不快、でしたか?」
その問いはまっすぐだった。
だから、こちらも曖昧には返したくない。
「不快ではございませんわ」
レオノーラは落ち着いて答える。
「ただ、今は少し、余白が必要なだけですの」
レティシアはその言葉をゆっくり受け止めていた。
「……余白」
「ええ」
「それなら、分かりますわ」
彼女は小さく頷いた。
「わたくしも、緊張している時に、ずっと見られたり話しかけられたりすると、息が詰まりそうになりますもの」
それもまた、少しだけ意外だった。
この子は、もっと何でも自然にこなす側だと思っていたからだ。
「そうですの?」
「ええ。あまりそう見えないかもしれませんけれど」
そこでレティシアは、自嘲とまではいかない、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
「わたくし、何も考えていないように見られがちですの」
ああ。
そういうことですのね。
レオノーラはそこで、ようやくはっきり理解した。
この子もまた、一つの見られ方に雑に収められてきたのだ。
可憐。
愛らしい。
守りたくなる。
そういう言葉の中へ。
「……それは、少し雑ですわね」
レオノーラが言うと、レティシアは本当にほっとしたように笑った。
「ええ。少しだけ」
その会話は、レオノーラにとって思った以上に心地よかった。
見られ方の窮屈さ。
期待の重さ。
そこに少し似た感覚を持つ相手とは、意外と静かに話せるものらしい。
「では、来週までは少し余白を意識いたしますわ」
レティシアが言う。
「ありがとう」
「ですが」
彼女は少しだけ悪戯っぽい顔になった。
「終わったら、またお話ししたいです」
「その時のわたくしが生きておりましたら」
「生きていてくださいませ」
少しだけ笑った。
セシリアも、そこへ柔らかく加わる。
「きっとご無事ですわ」
「そう願いたいですわね」
その昼休みの空気は、ここ数日でいちばん穏やかだったかもしれない。
午後の授業を終え、放課後。
武芸選択者だけが武芸棟の一角へ集められた。
人数は多くない。
一組からは、レオノーラ、アルベルト、アーネスト、リヒャルト。
他クラスからも数名いるが、やはり空気の中心は一組へ寄っている。
その事実が少しだけ嫌だったが、もう仕方ない。
説明役は、昨日の剣術教官補佐と、武芸担当のガレス教員だった。
「来週の実力測定について説明する」
ガレス教員の低い声が訓練場に響く。
「通常の基礎試験と違い、今回は“技量”“制御”“指示理解”の三点を見る」
その三語に、レオノーラは小さく納得した。
やはりそこへ寄せてきた。
ならば想定通りだ。
「なお」
ガレス教員は一拍置く。
「一部の受験者については、安全管理上、課題内容を調整する」
ざわ、とまではいかない。
だが空気は少し動いた。
レオノーラは顔を上げる。
「名指しはせんが、自分が該当すると分かっている者は、後で個別確認を受けろ」
それは、配慮だった。
ここで公然と特別扱いを告げない。
それだけでかなり違う。
ガレス教員は続ける。
「通常課題は、基礎打ち込み、停止、軌道保持、模擬対人の四つ」
「調整対象者については、模擬対人を別評価へ置換し、標的・軌道・停止・指示対応へ振り分ける」
レオノーラは静かに聞いていた。
悪くない。
かなり悪くない。
完全別枠ではない。
だが、必要な調整は入っている。
理想に近い。
説明が終わり、他の生徒が散り始めたあと、ガレス教員が視線だけでレオノーラを呼んだ。
「アルトヴァイス嬢」
「はい」
「確認に来い」
レオノーラは前へ出る。
後ろでアーネストが何か言いたそうな顔をしたが、リヒャルトが止めた。
ガレス教員と教官補佐の前で立ち止まる。
「来週、お前の課題順はこうだ」
教官補佐が紙を示した。
「一、停止精度」
「二、複合板標的への軌道制御」
「三、金属帯補強丸柱への衝撃分散」
「四、口頭指示に従った即応調整」
かなりいい。
驚くほどいい。
「ご意見は?」
教官補佐が問う。
「妥当かと存じますわ」
レオノーラは即答した。
「ただし」
「何だ」
「四つ目の口頭指示、指示内容は抽象寄りではなく、できるだけ具体的な方が助かります」
「理由は?」
「評価の焦点を“理解力”ではなく“調整力”へ寄せたいからですわ」
ガレス教員が、ふっと目を細めた。
「欲がないな」
「ございますわ」
「どこがだ」
「焦点がぶれるのが嫌なだけです」
すると、ガレス教員は少しだけ笑った。
「……いいだろう。調整しておく」
「ありがとうございます」
そのやり取りを、少し離れた位置からアルベルトが見ていた。
今度はレオノーラも気づいていた。
だが、あえて視線は合わせない。
今は確認の場であって、会話の場ではない。
話が終わると、ガレス教員が最後に言った。
「アルトヴァイス嬢」
「はい」
「来週、お前が何を見せたいかは知らん」
ぎくりとした。
「だが少なくとも、学院側は“お前がどこまで自分を制御できるか”を見ている」
「はい」
「そこだけは外すな」
「承知しておりますわ」
レオノーラはきっぱり答えた。
そこだけは、外さない。
むしろそこが最初の軸だ。
その日の帰り、武芸棟を出る時、アルベルトが静かに並んだ。
「かなり具体的に詰まったようだな」
「ええ」
「納得したか」
「だいぶ」
「そうか」
短い会話だった。
だが、その一問一答が妙に落ち着いていた。
「殿下は」
レオノーラの方から珍しく口を開く。
「何を見ようとなさっているのです?」
アルベルトは少しだけ意外そうな顔をした。
「ずいぶん直接聞くんだな」
「今さら回りくどくしても仕方がございませんもの」
それもそうか、と彼は小さく息を吐いた。
「確認だ」
またその言葉だった。
「君がどこまで整えてくるのか」
「整える、ですの?」
「ああ」
アルベルトの視線は真っ直ぐだった。
「君は、強さそのものより、“どう出すか”を先に決めるだろう」
レオノーラは一瞬だけ黙った。
そこまで読まれているのか。
やはり厄介だ。
「そうかもしれませんわね」
曖昧に返す。
だがアルベルトはそれ以上踏み込まない。
「なら、来週で十分だ」
そのまま彼は先へ歩いていく。
期待でもなく、圧でもなく、ただ確認。
その距離感は、やはり簡単には嫌いになれない。
だから困るのだが。
迎えの馬車に乗り込んだ時、クラウスがすぐ顔を向けた。
「どうでした」
「だいぶ整いましたわ」
「よかったです」
「ええ」
「では、あとは」
「本番だけですわね」
レオノーラは窓の外を見る。
空は少しだけ赤い。
風は静かだ。
だが、自分の中はもう静かなだけではない。
怖さもある。
面倒もある。
だが、それ以上に、形にする段階へ来た感覚がある。
「お姉様」
「何かしら」
「今のお顔」
「ええ」
「だいぶ勝ちに行く顔です」
レオノーラは少しだけ目を細めて、それから小さく笑った。
「そうかもしれませんわね」
否定はしなかった。
なにせ、ここまで積み上げてきたのだ。
誰かの期待に応えるためではない。
誰かの物語を盛り上げるためでもない。
自分の意思を、自分で守るために。
ならば、勝ちに行く顔にもなるだろう。




