第33話 誰かの期待に応えるためではなく、自分の意思を守るために勝ちに行くのなら、もう迷っている暇はございませんわ
ならば、勝ちに行く顔にもなるだろう。
クラウスの言葉を否定しなかったのは、たぶんそれが図星だったからだ。
迎えの馬車に揺られながら、レオノーラは窓の外の暮れかけた街並みを見ていた。
実力測定の構成は整った。
学院側が何を見るかも分かった。
騎士団や上級生たちの視線も、だいたい予測がつく。
あとは、本番で崩さないこと。
その一点に尽きる。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は、かなり良い意味で諦めがついたように見えます」
クラウスが静かに言う。
「諦め、ですの?」
「ええ」
「何を諦めたというのかしら」
「静かな学院生活です」
レオノーラは数秒だけ黙った。
そして、素直に頷いた。
「……ええ」
「やはり」
「そこは、もう難しいと認めますわ」
言葉にしてみると、不思議と少しだけ楽になった。
静かにしたい。
目立ちたくない。
その願いは今も本物だ。
だが現実として、もうそこへは戻れない。
婚約話も、騎士団の妙な人気も、学院側の注目も、全部いったん動いてしまっている。
だったら、未練がましく“目立たないように”へしがみつくより、目立つとしても自分の土俵へ引き込む方がいい。
「そう考えると」
レオノーラは小さく息を吐いた。
「だいぶ楽ですわね」
「でしょう」
クラウスは当然のように答える。
「お姉様は、防戦より制御の方が向いていますから」
それも、たぶん当たっている。
屋敷へ戻ると、その日は珍しく父ヴァルターも母エレオノーラも、来週の件を細かくは聞かなかった。
レオノーラの顔を見て、もう今夜は追加で何か言う段階ではないと判断したのだろう。
それは助かった。
夕食後、自室へ戻ったレオノーラは、机の上の紙を一枚だけ見返した。
見せるな。出すな。整えろ。
昨日書いたその一文に、今夜はもう一つだけ書き足す。
迷うな。
それだけで十分だった。
翌朝。
実力測定前日ということもあってか、学院全体の空気も少し違った。
いつものざわめきはある。
だがその下に、どこか張り詰めた糸のようなものが通っている。
一組の教室も同じだった。
アーネストはいつもより静かで、リヒャルトはさらに静かで、セシリアもレティシアもどこか落ち着かない。
そしてアルベルトだけが、見た目にはほとんど変わらない。
そこがまた少し厄介だった。
「おはようございます」
教室へ入ったレオノーラへ、マグダ教員がまだ授業前だというのに声をかけた。
「おはようございます、先生」
「本日、通常授業の後、武芸選択者は最終確認に入ります」
「承知しておりますわ」
「あなたは終了後、少し残りなさい」
またですのね。
とは思ったが、今さら顔には出さない。
「かしこまりました」
授業自体は、普段通りに進んだ。
だがレオノーラの意識は、やはり明日へ向いている。
だからこそ逆に、目の前の板書と説明へ集中した。
今さら頭の中だけで実力測定のシミュレーションを繰り返しても、精度は上がらない。
それよりも、普段通りの集中力を保つ方が重要だ。
一限目。
二限目。
三限目。
時間は淡々と進む。
昼休み、レティシアが今日は少し離れた席から小さく手を振っただけで、こちらへは来なかった。
セシリアも必要以上には話しかけない。
ありがたい配慮だった。
「みんな、気を遣っておりますわね」
レオノーラが小さく言うと、クラウスが教室前まで届けに来た書類を渡しながら返す。
「お姉様が思っているより、周囲は空気を読んでいます」
「そうかしら」
「ええ。少なくとも一組は」
それは少し救いだった。
話が通じない相手ばかりなら、とっくに疲弊していただろう。
だがこの学院には、案外、こちらの意図を汲む相手もいる。
だから戦いやすい。
午後、武芸棟。
最終確認は簡潔だった。
開始位置。
移動経路。
標的配置。
停止位置。
口頭指示の入り方。
レオノーラは一つひとつを確認し、必要最低限の質問だけをした。
「この位置から複合板標的までの歩数、当日は固定ですの?」
「固定だ」
「口頭指示は一回のみ?」
「原則一回。聞き返しは認めない」
「承知しましたわ」
ガレス教員も教官補佐も、余計なことは言わない。
それが今はありがたい。
「アルトヴァイス嬢」
「はい」
「明日、妙に気負うな」
レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
「気負って見えまして?」
「見えはせん」
ガレス教員は腕を組んだまま言う。
「だが、お前は考えすぎる側だ」
図星だった。
しかもかなり痛いところを突かれた。
「……否定はいたしませんわ」
「なら十分だ」
それだけ言って、ガレス教員は確認を終えた。
武芸棟を出る時、ルークが壁際に立っていた。
今日もまた、さりげなく見ていたらしい。
「終わったか」
「ええ」
「どうだ」
「整いましたわ」
ルークはその返答に小さく頷いた。
「ならいい」
「先輩」
「何だ」
「明日、見にいらっしゃいますの?」
聞くつもりはなかった。
だが、気づいたら口に出ていた。
ルークは少しだけ意外そうな顔をした後、素直に答える。
「行く」
「そうですの」
「悪いか?」
「いえ」
レオノーラは静かに首を振る。
「悪くはございませんわ」
それは本心だった。
少なくとも、この人が見ているなら、雑な“怪物扱い”だけにはなりにくい気がする。
「ただ」
ルークが続ける。
「助ける気はないぞ」
「分かっておりますわ」
「だったらいい」
その距離感も、ちょうどよかった。
帰り道、アーネストとリヒャルト、それにアルベルトも自然に同じ方向になった。
昨日までなら、その並びだけでレオノーラは少しうんざりしていたかもしれない。
だが今日は違った。
もう避ける段階ではない。
ただ、余計な会話を増やさないだけだ。
「明日だな」
アーネストが言う。
「ええ」
「俺、見てるからな」
「存じておりますわ」
「嫌そうだな」
「少しだけ」
「少しか?」
「かなりですわ」
アーネストが笑う。
リヒャルトはため息をついた。
「お前は本当に正直だな」
「今さら隠しても仕方がございませんもの」
「それはそうだが」
「ですが、見られること自体は、もう織り込み済みですわ」
「……へえ」
アーネストが目を細める。
「じゃあ、もう腹括ったのか」
「ええ」
「どこまで?」
「勝つところまで」
一瞬、空気が止まった。
言いすぎたかしら、とレオノーラは少しだけ思った。
だが引っ込める気もない。
アルベルトが静かに問う。
「何に対して?」
良い質問だった。
レオノーラは前を向いたまま答える。
「誤解に、ですわ」
それは本心だった。
学院の誤解。
騎士団の誤解。
婚約に都合のいい誤解。
全部まとめて、少しずつずらす。
「なるほど」
アルベルトの声は静かだった。
「それは、面白い答えだな」
やめてくださいまし。
やはりそこへ戻るのですわね。
だが今はもう、それにいちいち反応しない。
「そう見えるなら、まだ困りますわね」
レオノーラがそう返すと、アルベルトはほんの少しだけ笑った。
「そうか」
それ以上は言わなかった。
その夜、レオノーラは本当に短くしか準備しなかった。
剣の手入れ。
明日の制服確認。
睡眠の確保。
机の上の紙はもう見返さない。
考える段階は終わった。
あとは動く。
寝台へ入る直前、クラウスが最後に部屋をのぞいた。
「お姉様」
「何かしら」
「大丈夫ですか」
珍しい聞き方だった。
レオノーラは少しだけ考えてから答える。
「怖くはございますわ」
「ええ」
「でも、逃げたいほどではありません」
クラウスはその返答に、小さく頷いた。
「なら十分です」
「そうかしら」
「ええ」
弟は静かに言う。
「お姉様が本当に危ない時は、“怖い”より先に“面倒だからやめたい”になりますから」
少しだけ笑ってしまった。
「それは、否定しにくいですわね」
「でしょう」
クラウスは一礼し、扉のところで振り返る。
「明日」
「ええ」
「勝ってきてください」
その一言に、レオノーラは少しだけ目を見開いた。
そして、ゆっくり頷く。
「ええ」
返事は短かった。
だが、それで十分だった。
翌朝。
実力測定当日。
学院の空気は、もう普段とは完全に違っていた。
武芸棟へ向かう回廊。
すれ違う生徒たちの視線。
上級生たちの妙に静かな熱。
全部が、何かを待っている。
レオノーラは、その中心へ向かって歩いていた。
背には大剣。
足取りは静か。
心は思ったより、落ち着いている。
そして武芸棟の手前で、アルベルトが並んだ。
「来たな」
「ええ」
「確認だ」
また、その言葉だった。
レオノーラはほんの少しだけ口元を緩めた。
「ええ。確認ですわね」
そこで二人は、それ以上何も言わずに武芸棟の扉をくぐった。




