第30話 見られていることに気づかないまま言葉を交わせる相手がいるのは、少しだけ救いかもしれませんわ
そのやり取りを、少し離れた席からアルベルトが見ていたことに、レオノーラはまだ気づいていなかった。
一限目開始の鐘が鳴り、レティシアは自席へ戻る。
レオノーラも手元の紙をそっと伏せ、教科書を開いた。
今日の授業は帝国法制基礎だった。
嫌いではない。
むしろ、かなり好きな部類に入る。
規則。
権限。
例外。
責任。
そういう言葉は、前世から妙に落ち着く。
感情より先に枠組みがある世界は、少なくとも整理ができる。
「では、本日は帝国貴族の監督責任と、私人による実力行使の制限について扱います」
マグダ教員がそう告げた瞬間、レオノーラは少しだけ嫌な予感を覚えた。
題材が今の自分に近すぎる。
案の定というべきか、教室の空気がわずかに変わった。
露骨ではない。
だが、何人かがほんの少しだけレオノーラを意識したのが分かる。
やめてくださいまし。
今日のわたくしは、法の具体例ではございませんわ。
マグダ教員は淡々と板書を進めた。
「帝国内では、武力の行使そのものが一律に禁じられているわけではありません。
ただし、その正当性は“誰が”“どこで”“何のために”“どの程度”行ったかによって厳密に判断されます」
ここまでは普通の講義である。
「特に高位貴族の子女については、単に個人としての責任だけでなく、家門の統制・監督責任が問題となります」
そこまで来た時点で、アーネストが一瞬だけ前を向いたまま肩を震わせた。
何が面白いのですの。
リヒャルトが机の下でその脇を軽く蹴ったように見えた。
よろしい判断である。
「では質問です」
マグダ教員が教室を見回す。
「正当防衛と認められる範囲であっても、高位貴族の子女が公的空間で武力を行使した場合、評価の論点は何になりますか」
嫌な設問ですわね。
かなり嫌な設問だった。
もちろんマグダ教員はレオノーラを指名しない。
そういう露骨なことはしない人だ。
だが他の生徒にとっては、考えやすい具体例が頭に浮かぶだろう。
つまり自分だ。
最初に答えたのは伯爵家の令息だった。
「行使自体の適法性に加え、過剰でなかったか、他の選択肢がなかったか、あたりでしょうか」
「半分正解です」
マグダ教員が頷く。
「では、もう半分は?」
今度はセシリアが手を上げた。
「家門の監督責任と、周囲へ与える影響……でしょうか」
「ええ、そうです」
マグダ教員は板書へ二語を加える。
統制責任 社会的波及
「法は行為そのものだけでなく、その行為がどのような秩序効果を持つかを見ます」
そこまで言ってから、彼女は一度だけ教室の後方へ視線を流した。
レオノーラの方だ。
露骨ではない。
だが、たしかに含みはある。
「たとえば」
マグダ教員は続ける。
「非常に高い実力を持つ者が、その力を適法かつ正当な理由で行使したとしても、周囲がそれをどう受け止めるかまでは別問題です」
教室の空気が少しだけ張った。
これは、かなり大事な話だった。
レオノーラ自身も、そこを痛感している。
強さは結果でしかない。
だが周囲は、その結果を勝手に物語化する。
だから今の自分は、まさに“社会的波及”そのものを処理している最中なのだ。
「レオノーラ・アルトヴァイス」
不意に、マグダ教員が名を呼んだ。
やはり来ましたのね。
レオノーラは静かに立ち上がる。
「はい」
「今の論点について、あなたはどう考えますか」
教室中の意識が、少しだけ集まるのを感じた。
問いは抽象的だ。
だが中身はかなり具体的である。
ここで重要なのは、自分を弁護することではない。
講義の論点として、きちんと切り分けて答えることだ。
「武力行使の適否と、その後の管理責任は分けて考えるべきかと存じます」
レオノーラは落ち着いて言った。
「ほう」
「行使時点で正当であっても、結果として周囲へ誤った模倣や過剰な象徴性を生むのであれば、その後の統制は別途必要です」
教室が静まる。
アーネストですら今は何も言わない。
よろしい。
「つまり」
マグダ教員が促す。
「力そのものより、“力の見え方”の管理が必要だと?」
「はい」
レオノーラは頷いた。
「高位者であればなおさらですわ。
行為の正しさだけで足りるとは限りませんもの」
マグダ教員は数秒だけ沈黙し、それから静かに言った。
「ええ、正しい整理です。着席なさい」
「はい」
座りながら、レオノーラは小さく息を吐いた。
悪くない。
かなり悪くない答えだった。
しかも、“強さの見え方を管理する”という自分の今の課題も、自然に言語化できた。
前の席でアーネストが、今度は本当に静かに振り返った。
「……お前」
「何かしら」
「やっぱり、そういう考え方なんだな」
茶化しではない声音だった。
「そういう、とは」
「強いかどうかの話を、いつも運用と責任に落とす」
そこへリヒャルトも小さく加わる。
「珍しいですよ」
レオノーラは少しだけ考えてから答えた。
「強いこと自体は、結果でしかございませんもの」
一拍。
「重要なのは、どう使うかですわ」
言ったあとで、また少しだけ反省した。
今のも割と刺さる言い回しだった気がする。
だが、今回は思ったより反応が静かだった。
アーネストはただ小さく「なるほどな」と言っただけ。
リヒャルトも、それ以上は何も言わない。
そして、前方のアルベルトだけが、ほんの少しだけ顔を横に向けた。
視線は合わない。
だが、聞いているのは分かった。
授業が進み、二限目、三限目と過ぎる頃には、レオノーラの中に一つの確信が生まれていた。
今日の座学は、来週の実力測定に向けてかなり有効だ。
なぜなら、今の自分が周囲へ残したのは
強い公爵令嬢 ではなく、 力の運用と責任を当然のように語る公爵令嬢 だからである。
これは悪くない。
昼休み。
今日はセシリアとレティシアが、なぜか自然な流れで近くの席に集まった。
困るような、困らないような距離感である。
「先ほどのご回答、とても分かりやすかったですわ」
セシリアがそう言う。
「ありがとう」
「でも、少しだけ不思議でしたの」
今度はレティシアが言う。
「何がですの?」
「レオノーラ様は、強さそのものを誇る方ではないのですね」
またそこへ来るのですわね。
だが、今のこの問いは悪くない。
「誇っても、仕方がございませんもの」
レオノーラはそう答えた。
「使い方を誤れば害にもなりますわ」
セシリアが目を丸くする。
「そこまで考えるのですね」
「考えますわ」
「どうして?」
レティシアが問う。
レオノーラは一瞬だけ迷い、それから正直に言った。
「わたくし、自分の力が“見られ方次第で別の意味を持つ”と、最近よく分かりましたもの」
かなり本音だった。
騎士団の若手。
学院の視線。
婚約話。
全部そうだ。
同じ剣でも、同じ行為でも、見る側が意味を足す。
「ですから」
レオノーラはパンを小さくちぎりながら続ける。
「力そのものより、その後始末の方が面倒なこともあるのですわ」
レティシアが小さく息を呑む。
「……それは、少し寂しいですわね」
「そうかしら」
「ええ。だって、本当に努力して手に入れたものなのに」
その言葉に、レオノーラは少しだけ目を瞬いた。
思いもよらない方向から来た。
「それを素直に“すごい”と思ってはいけないみたいで」
レティシアは少しだけ俯く。
「なんだか、惜しい気がいたします」
レオノーラはすぐには答えられなかった。
セシリアも、言葉を挟まない。
昼休みの教室が、少しだけ静かになる。
惜しい。
その感覚は、レオノーラにはあまりなかった。
自分の力は、生き残るための手段であり、実務であり、備えだったからだ。
だが、誰かがそれを“惜しい”と感じるのは、たぶんそれだけ、その努力の中身を見ようとしているのだろう。
「……そうですわね」
レオノーラはゆっくり言った。
「素直に“すごい”と思うことまで、否定する気はございません」
レティシアが顔を上げる。
「本当ですの?」
「ええ」
「ただし」
「ただし?」
「その先で、勝手に物語を足さないでいただけると助かりますわ」
レティシアは一瞬きょとんとして、それからふっと笑った。
「それは、気をつけますわ」
「助かります」
「でも」
「何かしら」
「格好いいと思うことまでは、やはりやめられませんの」
やはりそこは残るのですわね。
レオノーラは小さくため息をつき、それでも少しだけ笑った。
「そこは、もう仕方ありませんわね」
その昼休みのやり取りを、前方の席からアルベルトが聞いていたことにも、レオノーラはやはり気づいていなかった。
午後。
武芸棟での基礎訓練は、昨日よりさらに落ち着いて進んだ。
教官側も、おそらく来週を意識しているのだろう。
余計な派手さより、停止、間合い、足運び、指示への反応を細かく見てくる。
レオノーラにとっては好都合だった。
派手さを抑え、制御を見せる。
今の目標と噛み合っている。
「止め」
教官の号令で、大剣の軌道をぴたりと止める。
「保持」
重みを逃がさず、体幹で受ける。
「解除」
そこで初めて力を抜く。
見ていた教官補佐が、今日は何も言わずに小さく頷いた。
それだけで十分だった。
授業終わり際、ルークが訓練場の端から一度だけこちらを見て、そして何も言わずに去っていった。
たぶん、それも悪くない評価なのだろう。
放課後。
レオノーラが帰り支度を整えていると、前の席のアーネストが珍しく机に肘をついたまま、後ろを見ずに言った。
「来週さ」
「何かしら」
「たぶん俺、お前が何を見せたいのか、少し分かってきた」
レオノーラは動きを止めた。
「そうですの?」
「全部じゃないけどな」
「では、何が分かったのかしら」
「“強いですごい”で終わらせたくないんだろ」
それは、かなり核心に近かった。
リヒャルトも鞄を持ちながら続ける。
「むしろ逆ですね」
「逆?」
「“強いだけでまとめるな”に近い」
「……ええ」
レオノーラは静かに認めた。
「その通りですわ」
アーネストはそこで初めて振り返った。
「じゃあ、来週はそこを見ればいいわけだ」
「見世物ではございませんわよ」
「分かってる」
彼は今日は妙に落ち着いていた。
「でも、見る側にも見方ってあるだろ」
「ええ」
「だったら、こっちも勝手な見方はしないように見る」
「……それは」
少しだけ、嬉しかった。
かなり意外な形で、だったが。
「助かりますわ」
アーネストは少しだけ照れくさそうに鼻を鳴らした。
「おう」
そのやり取りの横で、アルベルトが立ち上がる気配がした。
彼は鞄を持ち、静かにこちらを見る。
「来週」
「はい」
「君がどう見せるつもりか、楽しみにしている」
やめてくださいまし。
その言い方は、本当にやめてくださいまし。
だが、今さらそれを言っても仕方ない。
「……期待されるのは、あまり好きではございませんわ」
レオノーラはやや遠回しに返す。
「期待ではない」
アルベルトは静かに言った。
「確認だ」
その一言に、レオノーラは少しだけ言葉を失った。
期待より、確認。
それはたしかにこの人らしい。
そして、その言い回しが、妙に心へ残るのが嫌だった。
「そうですか」
最終的に、それだけ返す。
アルベルトはそれ以上何も言わず、一礼して教室を出ていった。
アーネストとリヒャルトも続く。
静かになった教室で、レオノーラは一人、机へ手をついた。
「……確認、ですって」
小さく呟く。
期待ではなく、確認。
面白がるのでもなく、試すのでもなく、ただ“どう出るのかを見る”。
やはり、単純な相手ではない。
単純な嫌な相手なら、婚約回避ももっと楽だっただろうに。
そうではないから、厄介なのだ。
そしてその日の帰り道。
クラウスは迎えの馬車の前で姉を見るなり、ほんの少しだけ目を細めてこう言った。
「お姉様」
「何かしら」
「今日は少し、戦いやすそうな顔をしています」
レオノーラは一瞬だけ黙り、それからゆっくり答えた。
「ええ。たぶん」
「何か見えましたか」
「少しだけ」
馬車へ乗り込みながら、レオノーラは窓の外を見る。
来週の実力測定。
学院の評価。
騎士団の偶像化。
婚約回避。
全部まとめて面倒だ。
だが、それでも少しずつ、自分のやるべきことは見えてきた。
「わたくし」
ぽつりと呟く。
「誰かの期待に応えるつもりはございませんけれど」
「ええ」
「確認には、答えてもよろしいかもしれませんわね」
クラウスはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「それは、だいぶお姉様らしいですね」
その返答は、少しだけ心地よかった。




