第29話 誰かの物語のためではなく、自分の意思のために立つと決めた以上、あとは積み上げるだけですわ
それは少しだけ、嬉しかった。
クラウスの言葉は、余計な飾りがない。
だからこそ、真っ直ぐに入ってくる。
父はまだ少し疲れた顔をしていたが、それでも娘を見て、深くうなずいた。
「ならば、やるべきことはもう分かっているな」
「ええ、お父様」
「来週まで、余計な火種を増やさないこと」
「努力いたしますわ」
「その返事しかできんのか」
父の呆れた声に、母がまた少し笑う。
「でも今回は、本気で分かっているのでしょう?」
「ええ」
レオノーラは素直に認めた。
「もう、来週の実力測定は避けるものではございませんもの」
「そうね」
母は扇を閉じ、静かに続けた。
「避けるより、使う方がいい段階に入っているわ」
「ええ」
レオノーラは小さく息を吐いた。
そう、そこなのだ。
婚約話が出る前なら、目立たぬことが最善だった。
騎士団での妙な人気が表面化する前なら、埋もれることにも意味があった。
だが、もうそこは過ぎた。
今やるべきは、目立たぬことではない。
目立つとしても、どう目立つかを自分で決めることだ。
「お姉様」
クラウスが言う。
「今夜はもう休んでください」
「まだ考えることが」
「あるのは分かっています」
弟は淡々としていた。
「ですが、今以上に詰めても、精度が上がるより疲労の方が増えます」
それは、たしかにそうだった。
レオノーラも無理はできる。
だが無理をした先の質が下がることも、前世の経験で知っている。
「……分かりましたわ」
「珍しく素直ですね」
「失礼ですわね」
「褒めています」
この弟は、本当にどこまで本気か分からない。
その夜、レオノーラは珍しく早めに床に入った。
もちろん、頭の中は完全には静かではない。
来週の実力測定。
学院側の評価。
皇太子。
騎士団。
婚約回避。
だが、それでも眠れたのは、問題の輪郭がだいぶ整理されていたからだろう。
翌朝。
朝食の席は、ここ数日では比較的穏やかだった。
父は新聞代わりの朝報に目を通し、母は変わらず優雅で、クラウスは姉の顔色を見ていた。
昨日の騎士団本部からの急使が、今日の朝まで持ち越すほどの爆弾ではなかったことに、少しだけ安心する。
「顔色は悪くありませんわね」
母が言う。
「ちゃんと眠れましたの?」
「ええ」
「それはよかった」
父も紙面から目を上げずに言った。
「来週までに倒れられては困るからな」
「倒れませんわ」
「お前は、倒れる時は倒れるまで気づかないだろう」
それは、少しだけ痛いところを突かれた。
レオノーラはスープを一口飲み、話題を変えるように言った。
「本日、学院で何か追加の動きがあると思われますか」
「あるでしょうね」
答えたのはクラウスだった。
「昨日の急使の件は、すぐに学院へ回らないでしょう。ただ」
「ただ?」
「お姉様が武芸棟で標的確認をしていた件と、朝の若手騎士の件は、もう別経路で広がっているはずです」
やはりそうですのね。
「つまり」
レオノーラが言う。
「今日もまた、静かではない」
「ええ」
クラウスは淡々と頷いた。
「ですが、“制御可能”へ寄せる一日にはできます」
その言い方は悪くない。
静かにする、ではなく、寄せる。
現実的だ。
「そうですわね」
レオノーラも頷いた。
「では本日の目標は、目立たぬことではなく、“扱いにくいが管理不能ではない”へ寄せることにいたしますわ」
父が新聞を畳んだ。
「管理不能とは誰も言っていないぞ」
「言われる前に潰すのです」
「……そのあたりの発想だけは本当に実務的だな」
褒められているのかどうか微妙だったが、間違ってはいない。
学院へ向かう馬車の中で、レオノーラは今日の行動目標を三つに整理していた。
一つ。
無用な会話を増やさない。
二つ。
聞かれたことには答えるが、余白を残す。
三つ。
来週の実力測定に向け、“自分の基準が周囲とずれている”ことを、言いすぎず滲ませる。
難しい。
だが、不可能ではない。
「お姉様」
クラウスが向かいの席で言った。
「何かしら」
「今日、殿下に余計なことを言わないでください」
「余計なこと、とは」
「“来週は面倒ですわね”とか、“殿下には理解されても困りますわね”とか、そういう刺さるやつです」
だいぶ具体的だった。
「刺さるつもりで言っているわけではございませんのに」
「そこが問題です」
ごもっともである。
学院へ着くと、やはりというべきか、朝から視線は多かった。
ただ、昨日までの“珍しいものを見る目”だけではない。
今日はそこへ、“話しかけていいのか見極めようとする目”が混ざっている。
たぶん、騎士団の若手や上級生との接点が増えたことで、周囲も距離の測り方を調整し始めているのだろう。
悪くない。
少なくとも、一方的に面白がられる段階からは少し動いている。
「お姉様、今日は私はここまでです」
教室棟の前でクラウスが止まる。
「ええ」
「ご武運を」
「だから、それは学院生活に使う言葉ではありませんわ」
「お姉様にはちょうどいいです」
まったく、この弟は。
一組の教室へ入ると、まだ半分ほどしか席は埋まっていなかった。
レオノーラはいつもの後方窓際席へ向かう。
その途中で、セシリアが柔らかく会釈した。
「おはようございます、レオノーラ様」
「おはようございます、セシリア様」
「今日は少し、お元気そうですわね」
その言い方が少しおかしくて、レオノーラはわずかに口元を緩めた。
「一昨日と昨日が、少々濃すぎただけかもしれませんわ」
「ええ、それは本当に」
セシリアは心から同意するように頷いた。
こういう会話ができるのは助かる。
過剰に持ち上げず、過剰に踏み込まず、それでいて気遣いはある。
その時、前方の席からアーネストが振り返った。
「今日は騎士団は来てないのか」
朝一番から雑ですわね。
「教室にまで押しかけられては困りますわ」
「でも応接間までは来たんだろ?」
レオノーラは少しだけ目を細めた。
「どこまで広がっておりますの、その話」
「だいたい」
「だいたい、では困りますわ」
「まあまあ正確に」
「余計に困りますわね」
アーネストは楽しそうに笑ったが、リヒャルトがすぐ後ろから言う。
「お前は朝から少し静かにしろ」
「何でだよ」
「本人が嫌そうだからだ」
「それは分かるけど」
「分かるなら止めろ」
ありがたい。
本当にありがたい。
そこへ、今日はアルベルトが少し遅れて入ってきた。
いつもより周囲の空気が一拍遅れて締まる。
「おはよう」
短い挨拶だった。
だが、その一言が教室全体へ向けたものでもあり、レオノーラたちへのものでもあるのが分かる。
「おはようございます、殿下」
レオノーラも礼を返す。
アルベルトは席へ向かう前に、ほんの一瞬だけこちらを見た。
「昨夜は静かだったか?」
やめてくださいまし。
その聞き方では、静かではなかったと答えたくなるでしょう。
「どういう意味ですの?」
あえて問い返す。
するとアルベルトは少しだけ目を細めた。
「そのままの意味だ」
「……少々、増えましたわ」
レオノーラは結局、やや曖昧に認めた。
アーネストの顔がまた輝きかけたが、リヒャルトが先に脇腹をつついた。
もはや反射である。
「やはり何かあったのだな」
アルベルトは淡々と受け止める。
「ええ」
「学院の外でも、か」
「ええ」
そこまでで止める。
これ以上は広げない。
そう決めていた。
アルベルトも、珍しく深追いしなかった。
「そうか」
それだけ言って、自席へ向かう。
助かった、とレオノーラは思った。
この人は時々、こちらの“ここで止めたい”を察して止まる。
だから余計に困る。
一限目が始まるまでの短い時間、レオノーラは静かに自分の席で書き物をしていた。
紙の端に、小さく書く。
今日の目標
・余白を残す
・語りすぎない
・格好よく見せない
そこまで書いたところで、ふと、レティシアが席の横へ来た。
「レオノーラ様」
「何かしら」
「朝のお邪魔でなければ」
この子はそこが丁寧だ。
いきなり踏み込まず、ちゃんと確認を挟む。
「ええ、大丈夫ですわ」
「よかった」
レティシアは少しだけ安心したように微笑んだ。
「昨日から、少し考えていたのです」
「何をですの?」
「レオノーラ様は、強いのに、強いと言われるのがお好きではないのだなって」
ずいぶん核心を突いてくる。
レオノーラはすぐには答えず、言葉を選んだ。
「好きではない、というより」
「ええ」
「“強い”だけでまとめられるのが、少し違うのですわ」
これは本音だった。
強いこと自体を否定する気はない。
否定できるはずもない。
だが、その一言で全部を済まされると、そこへ至る考え方や、運用や、警戒や、面倒くささまで消される。
レティシアはじっと聞いている。
「強さは結果の一つでしかございませんもの」
レオノーラは続けた。
「それだけで見られると、だいぶ雑ですわ」
言ってから、少しだけ言いすぎたかしら、と思った。
だがレティシアは嫌な顔をしなかった。
むしろ、静かに頷いた。
「……分かる気がしますわ」
それは意外だった。
「本当ですの?」
「ええ」
レティシアは少しだけ視線を落とした。
「わたくしも、いつも“守ってあげたい”とか、“可愛らしい”とか、そういう見られ方ばかりですもの」
その言葉に、レオノーラは少しだけ息を止めた。
なるほど。
この子も、この子で一種類の見られ方に閉じ込められているのかもしれない。
強いから雑に見られる。
可憐だから雑に見られる。
方向は違っても、構造は少し似ている。
「……それは、少し面倒ですわね」
レオノーラがそう言うと、レティシアはふっと笑った。
「ええ。少しだけ」
その瞬間、レオノーラの中で、レティシアに対する見え方がほんの少しだけ変わった。
この子は、ただ無邪気にこちらを“素敵”と言っているだけではない。
たぶん、自分なりの窮屈さも分かっている。
「レオノーラ様」
「何かしら」
「来週の実力測定、頑張ってくださいませ」
「ありがとう」
「でも、わたくしは」
レティシアは少しだけ悪戯っぽく笑った。
「やっぱり格好いいと思いますわ」
やはりそこへ戻るのですわね。
レオノーラは思わず小さく笑ってしまった。
「もうそこは諦めますわ」
そのやり取りを、少し離れた席からアルベルトが見ていたことに、レオノーラはまだ気づいていなかった。




