第3話 訓練用の大剣を見た私は、これだと思った
帝国貴族学院の敷地へ足を踏み入れた途端、レオノーラは確信した。
やはり、目立っている。
周囲の視線が痛いほど集まっていた。
新入生らしき者たちは遠巻きに見ているし、案内係の上級生たちですら一瞬だけ言葉を失っていた。
もっとも、それも仕方ないだろう。
公爵令嬢が、どう見ても護身用では済まない巨大剣を背負って、完璧な礼儀作法で歩いているのだ。情報の処理が追いつかなくても無理はない。
「お姉様」
「何かしら」
「今ならまだ間に合います。せめて、その剣を馬車へ戻すという選択肢を一度ご検討ください」
「却下ですわ」
「即答でしたね」
「当然でしょう。ここからが本番なのですもの」
レオノーラは静かに学院の建物群を見回した。
壮麗な正門。
中央講堂へ続く広い石畳。
整えられた花壇と並木。
その向こうには、貴族子弟の教育機関にふさわしい壮大な校舎がそびえている。
美しい。
そして、どうにも信用ならない。
乙女ゲームの舞台というものは、なぜああも見栄えが良いのか。見栄えが良い場所ほど、ろくでもないイベントが起こるのは世の常である。
レオノーラが真剣にそんなことを考えていると、先ほど門の向こうにいた騎士科の青年が、こちらへ歩み寄ってきた。
近くで見ると、かなり整った顔立ちをしていた。
年は二、三歳ほど上だろうか。濃紺の騎士科上級生用制服がよく似合っている。肩幅は広く、目つきは鋭いが、品の良さもある。
武を修めた貴族の青年、という印象だった。
彼はレオノーラの前で足を止めると、まずクラウスへ軽く目礼し、次いでレオノーラへ視線を向けた。
「失礼。新入生か」
「ええ」
レオノーラは一礼した。
「アルトヴァイス公爵家が長女、レオノーラ・アルトヴァイスと申しますわ」
その名を聞いて、周囲がまた少しざわついた。
三大公爵家の名は、やはりそれだけで重い。
だが、青年の表情は名前よりも背中の剣に向いていた。
「……やはり、アルトヴァイスか」
「ご存じでしたの?」
「噂くらいはな」
青年は微妙な顔をした。
「領内で魔獣を狩ったとか、盗賊を縛り上げたとか、竜骨を持ち帰ったとか」
「少々、尾ひれがついておりますわ」
「どこまでが事実だ?」
「全部ですわ」
「全部か」
青年は無表情のまま黙り込み、そして数拍置いてから、妙に真面目な顔で言った。
「……いや、全部なのか」
「ええ」
クラウスが横で遠い目をした。
青年は一度額に手を当てたが、すぐに気を取り直したように姿勢を正した。
「騎士科三年、ルーク・ヴァンハイムだ。学院内の案内補助を任されている」
レオノーラはわずかに目を瞬いた。
ヴァンハイム。
どこかで聞いたような気がする。
乙女ゲームの攻略対象だったか、あるいはその周辺人物だったか。記憶が曖昧ではっきりしない。
だが、少なくとも武人であることは見て分かる。
「よろしくお願いいたします、ルーク先輩」
「ああ。……それで、一つ確認したい」
「何かしら」
「あの剣は学院への持ち込み許可を得ているのか」
来た。
クラウスが顔を覆いそうになる気配を見せる。
レオノーラは落ち着いて答えた。
「正式な確認はこれからですわ」
「つまり得ていないのだな」
「ただし、学院規則に“個人装備の持ち込みを一律禁止する”条文があるかは現時点で確認しておりません。武器携行についても、騎士科や魔導科の訓練用途を想定した例外があるのではなくて?」
ルークの眉がぴくりと動いた。
理屈で返されるとは思っていなかったらしい。
レオノーラは涼しい顔を崩さない。
別に喧嘩を売っているわけではない。本当に必要だから持ってきただけである。
「仮に条文上問題がなかったとしても、常識の範囲というものがある」
「その常識は、実際に身を守れますの?」
レオノーラが問うと、ルークは一瞬だけ黙った。
「……何?」
「世の中には“常識的だから安全”というものと、“安全のためには常識から外れる必要がある”ものがございますでしょう?」
「それは……」
「わたくしにとっては後者でしたの」
レオノーラは静かに答えた。
「だから持ってきましたわ。護身用に」
護身用。
その言葉に、近くにいた上級生二人が吹き出しかけ、慌てて口を押さえた。
ルークは笑わなかった。むしろ、かなり真面目な目でレオノーラを見た。
「君は、本気でそれを護身用だと思っているのか」
「ええ」
「……そうか」
その返事のあと、ルークは奇妙な沈黙を挟んだ。
呆れられたのか。
あるいは変人を見る目を向けられるかと思ったが、そうではなかった。
彼はゆっくりと、レオノーラの背中にある大剣の柄と、剣帯の位置、肩の使い方、立ち姿、重心の置き方を見た。
武人の目だった。
ただの奇抜さではなく、それを本当に扱えるかどうかを見ている目。
「……飾りではないのだな」
「当然ですわ」
「抜けるのか、そこから」
「三拍あれば」
「遅いな」
「正装と儀礼を崩さずに、ですわ」
ルークの口元がわずかに動いた。
笑ったのではない。
だが少しだけ、興味を持った顔になった。
「なるほど」
「何がですの?」
「噂が誇張ばかりではないと分かった」
その言葉にクラウスがぼそりと呟く。
「むしろ噂の方が実態より穏当です」
「弟君、それはそれでどうなのだ」
「私もそう思います」
そんなやりとりをしているうちに、周囲のざわめきはさらに広がっていった。
新入生たちの視線は、完全にレオノーラへ向いている。
仕方ない。もう仕方ないと諦めるしかない。
目立たないように、という初志は、入門五分でやや危うくなっていた。
「お姉様」
「何かしら」
「目立たない、とは何だったのでしょう」
「……少々、想定より反応が大きいですわね」
「原因は明白です」
クラウスの冷静な指摘に、レオノーラはほんの少しだけ反省した。
ほんの少しだけ、である。
だが、必要性は揺るがない。
そもそも、なぜ自分がこの剣にここまで執着するのか。
その理由は、今も背中に馴染んでいる重みの始まりにあった。
脳裏に浮かぶのは、まだ幼かった頃の訓練場だ。
あの日、公爵家の訓練場で見つけた一振りの大剣。
騎士見習いたちが筋力鍛錬に使うためだけに置かれた、刃引きされた無骨な鉄の塊。
長く、幅広く、重く、実戦性より負荷だけを考えたような代物。
周囲の子供たちは木剣や軽い短剣に興味を示した。
だがレオノーラだけは違った。
最初に見た瞬間、思ったのだ。
これだ。
なぜかは分からなかった。
けれど直感した。
もしこれを扱えるようになれば、大抵のことは何とかなる気がした。
少なくとも、華奢な飾り剣を握っているよりは、よほど未来を切り開けそうだった。
五歳のレオノーラは、大剣の前で真顔になった。
周囲にいた騎士たちは微笑ましそうに見ていた。
どうせ持ち上がらないと思っていたのだろう。
実際、最初は持ち上がらなかった。
びくともしない。
両手で柄を握っても、床からわずかに浮く程度。
無理に引けば、自分の体がよろける。
『お嬢様、さすがにそれはまだ早うございます』
『木剣の方がよろしいかと』
『危のうございます』
そう言われても、レオノーラは首を横に振った。
『いえ、これがよろしいですわ』
『しかし』
『だって、これを扱えれば普通の剣はもっと軽く感じるでしょう?』
あまりに真っ当な理屈に、一瞬だけ誰も反論できなかった。
いや、真っ当ではないのかもしれない。
少なくとも五歳児の選択肢ではなかった。
それでも、レオノーラは毎日訓練場へ通った。
持ち方を変え、足の幅を調整し、腰を落とし、重心を探り、身体強化魔法が使えるようになると、それをほんの少しだけ腕と背に流した。
最初は持ち上げるだけ。
次に半歩動く。
それから構える。
やがて振り下ろす。
小さな積み重ねだった。
できないことを、できる形まで分解する。
昨日より一つだけ進める。
前世で働いていた頃に身についた感覚が、そのまま生きたのかもしれない。
いきなり完璧にやろうとすると壊れる。
重いものは、重いと理解した上で扱わなければならない。
そのあたりの考え方は、意外にも剣と相性が良かった。
『……振れましたわ』
初めてまともに振り下ろせた日のことを、レオノーラはよく覚えている。
手のひらは痺れ、腕は痛く、着地した足もぐらついた。
けれど、確かに振れた。
その瞬間、訓練場にいた騎士たちの空気が変わった。
子供の遊びを見る目ではなくなったのだ。
そして父――ヴァルター・アルトヴァイスは、しばらく沈黙したあと、妙に低い声でこう言った。
『……本当にやるとはな』
レオノーラは誇らしかった。
ようやく一歩進んだ気がした。
断罪回避への道は、たぶん遠い。
でも、自分は確かに前へ進める。
それが嬉しかった。
「……お姉様?」
クラウスの声で、レオノーラは現在へ意識を戻した。
「何かしら」
「少し遠い目をされていましたが」
「昔を思い出しておりましたの」
「訓練場の大剣ですか」
「ええ」
レオノーラは背中の剣を軽く叩いた。
「すべての始まりですもの」
その仕草に、ルークが反応した。
「始まり?」
「元は訓練用の大剣でしたの」
「……それが?」
「ええ」
ルークは絶句した。
「待て。それが、元は訓練用?」
「正確には、何度も折り返し鍛錬と再鍛造を繰り返しておりますけれど」
「何をどうしたらそうなる」
「色々ありましたの」
色々。
だいぶ雑なくくりだが、説明し始めると長いので仕方ない。
魔鋼を混ぜた。
芯材の相談をした。
竜骨が欲しくなった。
ドワーフたちが乗ってきた。
最後はオリハルコンまで入った。
どこを切っても色々としか言いようがない。
「……君は本当に新入生か?」
ルークがしみじみと問う。
「戸籍上はそうですわ」
「聞き方が悪かったな。新入生というより、何だ、その……」
「災害予備軍みたいに聞こえます」
クラウスが横から言うと、ルークは否定できない顔をした。
レオノーラはやや不服だった。
「失礼ですわね。わたくし、穏やかに過ごすつもりですのに」
「その予定は、入学前から崩れ始めているように見えるが」
「気のせいですわ」
「気のせいではありません」
弟と先輩の声がきれいに揃った。
レオノーラは小さく咳払いをした。
「ともあれ、案内をお願いできますかしら。立ち話をしていると、さらに注目を集めてしまいますわ」
「その自覚はあるのか」
「ええ。ですから移動したいのです」
それは正論だった。
ルークは半ば呆れながらも頷いた。
「……分かった。まずは新入生受付だ。そのあと所属ごとの説明になる。弟君は途中まで同行可能だが、その先は在校生以外入れない区域がある」
「承知しております」
クラウスが応じる。
レオノーラたちはルークの先導で石畳の道を歩き始めた。
左右から注がれる視線は、なおも多い。
それでもレオノーラは背筋を伸ばし、ゆったりとした歩幅を崩さない。
公爵令嬢としての所作は叩き込まれている。
問題は背中の剣だけだが、もうそれは仕方ない。
「……しかし」
歩きながら、ルークがぽつりと言った。
「君の話を聞いていると、妙に納得する」
「何をですの?」
「その剣を背負っている理由だ」
レオノーラは少しだけ目を丸くした。
初対面の相手にしては、意外な言葉だった。
「理解していただけますの?」
「完全には無理だ」
ルークは即答した。
「だが、ただの見栄や奇矯ではないとは分かる。君にとっては必要なのだろう」
「ええ」
「それなら、まずはそれでいい」
レオノーラはほんの少しだけ驚いたあと、素直に口元を緩めた。
「……ありがとうございます」
「礼を言われるほどのことではない。むしろ、学院側がどう反応するかは別問題だ」
「そこは必要なら交渉しますわ」
「必要なら?」
「必要なら、ですわ」
その言い方に、ルークはなぜか少し嫌な予感を覚えたようだった。
だが、それ以上は何も言わなかった。
そうして三人が受付棟の前へ差しかかった時、前方から華やかな声が聞こえてきた。
令嬢たちの一団である。
鮮やかな髪飾り、よく仕立てられた制服、取り巻きを従えた中心の少女。
いかにも高位貴族の娘らしい立ち姿だった。
彼女たちはこちらを認めると、一瞬で会話を止めた。
そして、中心にいた少女の視線がレオノーラの背中の剣に吸い寄せられる。
「……まあ」
その一言に、クラウスが小さく目を閉じた。
「お姉様」
「何かしら」
「たぶん、穏便な学院生活の第一歩が始まります」
「望むところですわ」
「その返答がもう穏便ではありません」
少女たちの一団が近づいてくる。
レオノーラは静かに息を吸った。
どうやら学院生活は、受付前から本格的に動き始めるらしい。
それでも彼女の手は、剣の柄には伸びなかった。
まだ必要ない。
ならばまずは、公爵令嬢らしく。
優雅に、丁寧に、隙なく応じるだけである。




