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悪役令嬢のはずが、悪役になる前に剣聖になっていた  作者: 翡翠


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第2話 五歳の私は、断罪される前に鍛えることにした

 帝国貴族学院へ向かう馬車の中で、レオノーラは静かに背もたれへ体を預けていた。


 背中の大剣は、さすがに馬車の座席では邪魔であるため、今は専用の固定具に収められている。もっとも、レオノーラとしては膝の上に置いておきたいくらいだったのだが、さすがにそれは母と侍女長に止められた。


 安全面と見た目の問題である。


 もっとも、見た目については今さらではないかと、レオノーラは少しだけ思っている。


「お姉様」


 向かいの席に座るクラウスが、紅茶の入った小さなカップを手にしながら、いかにも考え込んだ顔で言った。


「先ほどからお気づきですか」


「何にかしら」


「外です」


 言われて窓の外へ目を向けると、帝都の通りを歩く人々の視線が、かなりの割合でアルトヴァイス公爵家の馬車へ向けられていた。


 それだけならおかしくない。


 三大公爵家の紋章が入った馬車なのだから、目を引くのは当然である。


 問題は、視線の種類だった。


 明らかに、恐る恐る、確認するように見ている者が多い。


 レオノーラは首を傾げた。


「何かしら」


「その反応をされると、むしろこちらが困るのですが」


「……ああ」


 少し考えて、レオノーラは理解した。


「剣ですわね」


「はい」


「気にしすぎではなくて?」


「お姉様はご自身の知名度をもう少し自覚なさった方がよろしいかと」


 クラウスは淡々と言ったが、声にはほんの少し疲労が滲んでいた。


「十歳で訓練用の大剣を振り回した時点で、我が家の騎士団の中では有名でした」 「十二歳で山賊を壊滅させたあたりで、領内でもかなり」 「十四歳で亜竜討伐に加わって以降は、帝都まで噂が届いております」 「そして昨年、竜骨を持ち帰って剣を再鍛造した件で、もはや隠しようがなくなりました」


「少し誇張が入っておりますわ、クラウス」


「どこがです」


「山賊は壊滅させたというより、無力化して縛り上げただけですもの」


「結果が一番物騒なのです」


 クラウスはため息をついた。


「だいたい、お姉様は昔からそうです。やることなすこと規模がおかしい」


「必要なことをしていただけですわ」


「五歳児が起き抜けに“断罪に備えて鍛えますわ”と言い出した時点で、必要の基準が狂っていたのですが」


 その言葉に、レオノーラはわずかに目を細めた。


 五歳の、あの日。


 すべての始まりだった。


 高熱を出した翌朝、目覚めた時には頭の奥に妙な違和感があった。


 知らない記憶がある。


 知らないはずの知識がある。


 けれど、その知らないはずのものが、なぜか自分自身のものとして馴染んでいた。


 前世、というらしい。


 前の人生の自分は、平凡な社会人だった。

 特別美人でも、特別モテるわけでも、特別賢いわけでもない。

 仕事をして、たまに友人と食事へ行き、家で乙女ゲームをやる程度の、ごく普通のアラサー女だった。


 そして、思い出したのだ。


 この世界が、昔遊んだ乙女ゲームに似ていることを。

 そして自分が、そのゲームに出てくる悪役令嬢であるらしいことを。


 細かい部分は曖昧だった。


 攻略対象の好みも、イベント分岐も、ヒロインの名前も、はっきりしない。

 もともと恋愛シミュレーションの細部に執着するタイプでもなかったのだ。

 覚えているのは、ざっくりとした流れだけ。


 皇太子の婚約者。

 学園。

 ヒロイン。

 婚約破棄。

 断罪。

 投獄。


 その中でも“投獄”だけは妙に嫌な現実味を伴って残っていた。


 牢屋など嫌に決まっている。


 薄暗くて、寒くて、じめじめしていて、何より自由がない。

 前世の記憶と今の自分の感覚、その両方が全力で拒否していた。


 だから、五歳のレオノーラは考えた。


 婚約を回避する方法は分からない。

 断罪を完璧に防ぐ方法も分からない。

 陰謀やら派閥やら言われても、子供の自分に政治は無理だ。

 だったらどうするか。


 答えは簡単だった。


 強くなればいい。


 捕まらないくらい。

 捕まっても脱出できるくらい。

 断罪されても生き残れるくらい。

 戦争になっても自分で何とかできるくらい。


 五歳児にあるまじき結論である。


 だが、当時のレオノーラには、これ以上ないほど明快だった。


 レオノーラは窓の外から視線を外し、懐かしいような、呆れるような気持ちで小さく息をついた。


「……今にして思えば、もっと他に手段はあったのかもしれませんわね」


「え」


 クラウスが目を見開いた。


「そう思われることがあるのですか」


「失礼ですわね。多少はあります」


「多少なのですね……」


「けれど、あの時のわたくしは五歳でしたもの。政治も社交も分かりません。分かるのは、嫌な未来を避けるためには、今できることを積むしかないということだけでしたわ」


「それで剣へ行くのが、お姉様らしいと言えば、お姉様らしいですが」


「前世の影響もあるのでしょうね」


「前世の?」


「ええ。力仕事は段取りと体の使い方が大事ですの。大きな物を動かすには、勢い任せでは駄目。重心、足場、角度、手順――そういうものを見ていましたわ」


「……それが、剣に?」


「ええ」


 レオノーラは平然と頷いた。


「重いものの扱い方は、案外似ておりますもの」


 普通は似ていない。


 だが、クラウスはもう口にしなかった。


 彼は知っている。

 姉にとっては本当に似ているのだ。


 最初にそれを見たのは、レオノーラが六歳の頃だった。


 公爵家の訓練場。

 騎士見習いたちですら持ち上げるのがやっとの、無骨な訓練用大剣。

 筋力作りのために置かれた鉄塊のような代物へ、まだ幼かった姉が真っ直ぐ向かっていったのだ。


 父も騎士たちも、最初は微笑ましいものを見る顔をしていた。


 どうせ持ち上がらないだろう、と。


 実際、最初は持ち上がらなかった。


 レオノーラはふらつき、尻もちをついた。

 ドレスは土で汚れ、手のひらには赤みが差した。


 しかし泣かなかった。


 怒りもしなかった。


 立ち上がって、また剣を見たのだ。


『持ち方が悪いのですわね』


 六歳児とは思えない冷静な顔で、そう言った。


『重いのなら、重いなりの持ち方がございますわ』


 父も騎士たちも、その時は苦笑していた。


 だが翌日も、その翌日も、そのまた翌日も、レオノーラは訓練場へ通った。

 木剣ではなく、大剣を見るために。

 持ち上げられないなら、持ち上げられるようになるために。


 無属性の身体強化魔法しか適性がないと分かった時も、彼女は落ち込まなかった。


 むしろ少しだけ嬉しそうですらあった。


『筋力と体の制御に使えるなら、十分ですわ』


 宮廷魔導士は困惑していた。

 普通なら落胆する場面だったからだ。


 属性魔法が使えない。

 派手な遠距離攻撃も、広域魔法もない。

 貴族社会では、どうしても見劣りする。


 だがレオノーラは違った。


『つまり、わたくしの体をより強く、より速く、より安定させられるということですわね?』


『……理屈としては、そうだが』


『十分ではなくて?』


 その時の宮廷魔導士の顔を、クラウスは今でも覚えている。


 理解できないものを見る目だった。


 それからしばらくして、理解不能は諦めへ変わった。


 レオノーラは本当に強くなっていったからである。


「お姉様」


「何かしら」


「今さらですが、一つだけ確認してもよろしいですか」


「ええ」


「学院へ行かれても、本気で“目立たないように”過ごすおつもりなのですか」


「もちろんですわ」


 レオノーラは即答した。


「わたくしの目的は、あくまで平穏無事に学園生活を終え、婚約破棄なり断罪なりの危険を遠ざけることですもの。必要以上に目立つつもりはありませんわ」


「ですが、お姉様」


 クラウスは極めて冷静に言った。


「その発言を、竜骨とオリハルコン入りの大剣を背負って学院へ向かっている人物がしている時点で、説得力がありません」


「……」


 レオノーラは一瞬だけ考え込んだ。


「剣を隠すべきだったかしら」


「今さらすぎます」


「けれど、あれは必要ですもの」


「必要の基準が」


「だって、学院でしょう?」


 レオノーラの表情が、少しだけ引き締まる。


「乙女ゲーム本編の舞台。ヒロインと攻略対象が出揃い、婚約や派閥や感情のもつれが一気に動き出す場所。何が起きてもおかしくありません」


「お姉様の認識では、学院は魔窟か戦場のどちらかなのでしょうか」


「両方の可能性もありますわ」


「ありません」


 クラウスは断言した。


 が、断言しながらも、少しだけ自信がなかった。


 なぜなら姉が関わると、本来そうでない場所まで戦場になることがあるからだ。


 もっとも、それは概ね姉のせいではなく、姉に絡んだ相手の方に問題があるのだが。


 レオノーラは窓の外を見ながら、静かに手を組んだ。


 帝都の中心が近づいてくる。

 学院のある区画へ近づくにつれ、周囲には同じように仕立ての良い馬車が増えていた。

 新入生やその家族だろう。


 彼らも今日から学園生活を始める。


 恋をし、競い合い、友を作り、時には対立し、貴族としての人脈を築いていくのだろう。


 そういう場に、自分は来てしまった。


 少しだけ気が重い。


 けれど、怯えはない。


 ここまでやったのだ。

 泣いて終わるつもりは毛頭ない。


 必要なら戦う。

 必要なら逃げる。

 必要なら叩き潰す。


 そのための準備を、五歳から積み上げてきた。


「……大丈夫ですわ」


 レオノーラがぽつりと呟くと、クラウスが怪訝そうに眉を上げた。


「何がですか」


「わたくしです」


 レオノーラは、自分に言い聞かせるように言った。


「前世の記憶を思い出した時は、正直、少しだけ怖かったのです。自分の知らないところで、未来が決まっているのではないかと思って」


 クラウスは黙って聞いていた。


「けれど、鍛えましたわ。剣も、体も、魔法も。考え方も。だから、今なら思えますの」


 レオノーラはゆっくりと笑う。


 それは社交用の微笑みではなく、もっと素直な、自分の芯から出た笑みだった。


「決まっている未来など、ねじ伏せればよろしいのだと」


 クラウスは一瞬だけ言葉を失った。


 やはりこの姉はおかしい。


 おかしいのだが、同時に、どうしようもなく強い。


 その強さは腕力だけではなく、生き方そのものにあるのだと、クラウスは時々思う。


「……学院の皆様には、ぜひ気の毒にならない程度に頑張っていただきたいものです」


「どういう意味かしら」


「深い意味はありません」


 そう言った直後、馬車がゆるやかに速度を落とした。


 窓の外に見える景色が変わる。

 広い門。

 手入れの行き届いた並木道。

 壮麗な石造りの校舎群。

 帝国貴族学院である。


 ついに着いたのだ。


 乙女ゲーム本編の開始地点。

 レオノーラ・アルトヴァイスにとっての危険地帯。

 そして同時に、未来を変える最初の舞台。


 馬車が止まる。


 外では多くの新入生や関係者が行き交い、学院の使用人たちが整然と案内を行っていた。

 華やかな声。

 貴族らしい笑顔。

 高揚と不安が入り混じった空気。


 レオノーラは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。


「参りますわ」


「ええ。どうか、本当に穏便に」


「善処します」


「その返答が一番不安なのです」


 馬車の扉が開く。


 先にクラウスが降り、レオノーラへ手を差し出した。

 レオノーラは礼を言ってその手を借り、優雅に地面へ足を下ろす。


 次の瞬間、周囲の空気が一瞬だけ止まった。


 視線が集まる。


 公爵令嬢だからではない。


 背中にあるもののせいだ。


 学院の朝日に鈍く光る、常識外れの巨大剣。

 繊細な制服姿の少女の背にあるには、あまりにも不釣り合いで、しかし妙に似合っていた。


「……え」


「まさか、あれを……?」


「誰だ?」


「アルトヴァイス公爵家の……」


「うそだろ」


 小さなざわめきが波のように広がっていく。


 レオノーラはその視線を真正面から受け止めた。


 やはり目立つ。


 少し反省するべきかもしれない。


 だが、必要な装備を外すつもりはない。


 彼女は小さく顎を引き、完璧な公爵令嬢の微笑みを浮かべた。


「ごきげんよう」


 その一言だけで、さらに周囲が固まる。


 声音は美しく、所作は優雅。

 なのに背中には巨大剣。


 情報が噛み合っていないのだ。


 クラウスが遠い目をした。


「始まりましたね、お姉様」


「ええ」


 レオノーラは学院の門を見上げた。


 恐れる必要はない。

 ここが本編の始まりなら、こちらも準備は終わっている。


 断罪でも陰謀でも、来るなら来ればいい。


 その時、門の向こうから歩いてくる一団が見えた。

 騎士科の制服を着た上級生たちだ。

 その中でもひときわ目立つ、背の高い青年が、レオノーラの大剣に気づいて足を止めた。


 鋭い目つき。

 鍛えられた体。

 いかにも武の道に生きる者の空気。


 青年はしばし無言でレオノーラを見つめ、それから低く呟いた。


「……あれを、背負ってきたのか」


 その声には嘲りも軽視もなかった。

 ただ、純粋な驚きと、武人としての警戒があった。


 レオノーラは一瞬だけ目を細める。


 誰かしら。

 攻略対象だったか、それともただの上級生だったか。

 記憶は曖昧だ。


 だが一つだけ確かなことがある。


 学院生活は、どうやら入門前から静かでは済まなそうだった。


 そしてレオノーラは、ほんの少しだけ口元を引き締める。


 ――上等ですわ。


 そう心の中で呟きながら、彼女は帝国貴族学院の敷地へ、最初の一歩を踏み入れた。

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