第21話 朝から上級生に呼び止められた時点で、静かな一日の可能性はほぼ消えましたわね
――本当に、静かに始まる日は来ませんのね。
レオノーラは教室棟の前で足を止めたまま、心の中で深くそう思った。
目の前には、騎士科三年のルーク・ヴァンハイム。
昨日、入学初日にも何度か関わった上級生であり、少なくとも話が通じる相手ではある。
それでも。
朝から上級生が教室前で待ち構えているという時点で、静かではない。
「ごきげんよう、ヴァンハイム先輩」
レオノーラは完璧な礼を取りながら応じた。
「ごきげんよう。……と言いたいところだが、少し急ぎだ」
ルークの声音はいつもより真面目だった。
軽口の余地がない。
その時点で、レオノーラの警戒度は一段上がる。
「何かございましたの?」
「ここでは少し話しづらい」
ルークはそう言って、ちらりと周囲を見た。
たしかに、朝の登校時間である。
廊下にも中庭にも人が多い。
しかも今のレオノーラは、視線を集めやすい状態だ。
ここで長話をするのは良くない。
「少しだけなら」
レオノーラが答えると、ルークは頷いた。
「武芸棟まで来てくれ。騒ぎにするつもりはない」
騒ぎにするつもりはなくても、なる時はなるのですわよね。
レオノーラはそう思ったが、口にはしない。
この相手は少なくとも、面白半分で来ているわけではない。
それは見れば分かる。
「分かりましたわ」
そう答えたところで、背後からクラウスの声が飛んだ。
「お姉様」
レオノーラが振り返ると、弟はかなり嫌そうな顔をしていた。
朝から姉が上級生に連行されかけているのだから、当然である。
「何かしら」
「本当に、静かに始める気はあるのですか」
「わたくしはありますわ」
「周囲が許していないだけですね」
「ええ、非常に遺憾ですわ」
クラウスはルークへ一礼した。
「姉にどのようなご用件でしょうか」
弟としては当然の確認だ。
ルークもそれを無礼とは取らず、むしろ短く答えた。
「悪い話ではない。だが、少し先に伝えておいた方がいいと思った」
「先に?」
「来週の実力測定の件だ」
来ましたわね。
レオノーラは心の中でそう呟いた。
昨日の時点で、まだ何かしらの追加調整があるだろうとは思っていた。
問題はそれが何か、である。
「お姉様」
クラウスが低く言う。
「行かれるなら、教室開始前に戻ってきてください」
「努力いたしますわ」
「その言い方が」
「分かっておりますってば」
レオノーラは小さくため息をつき、ルークと並んで武芸棟へ向かった。
朝の石畳を歩きながら、ルークはしばらく黙っていた。
その沈黙が妙に重い。
「……先輩」
レオノーラが先に口を開く。
「何だ」
「そこまで仰らないということは、学院側の正式通知ではなく、個人的なご配慮ですの?」
ルークは少しだけ目を細めた。
「鋭いな」
「そのくらいは分かりますわ」
「まあ、半分正解だ」
半分。
ということは、個人的な配慮でありつつ、内容自体は学院内で共有されている話なのだろう。
ルークは歩きながら続けた。
「昨日の授業後、武芸系の教員と上級生補助の間で話があった」
「実力測定について?」
「ああ」
「わたくしの扱いが面倒だ、と?」
「言い方はもう少し穏当だった」
つまり概ねその通りなのだろう。
レオノーラは特に傷つきもせず、小さく頷いた。
「それで?」
「来週の実力測定、お前だけ完全別枠にする案が出た」
足が止まりかけた。
完全別枠。
それはよろしくない。
非常によろしくない。
「……やめていただきたいですわね」
「だろうな」
ルークも即答した。
「だから先に来た」
少しだけ見直した。
いや、だいぶ見直した。
この人、思った以上にこちらの嫌がることが分かっている。
「完全別枠になりますと、どうなりますの?」
「お前だけ時間を分ける。別課題。別採点。見学制限つき」
最悪である。
安全管理としては正しいかもしれない。
だがそんなことをすれば、学院中に
“あの公爵令嬢は通常枠では扱えない存在”
という印象を与えることになる。
静かな学院生活からは、さらに遠ざかる。
婚約回避という意味でも、良し悪しが難しい。
“扱いづらい”は出せるが、同時に“希少価値が高い”とも受け取られかねない。
「嫌そうだな」
「当然ですわ」
レオノーラはきっぱり答えた。
「わたくし、普通の枠で参加した上で、制御可能だと示したいのですもの」
「やはりそう考えるか」
「むしろ先輩は、そう考えると見越して来られたのでしょう?」
ルークは苦笑した。
「まあな」
少し間を置いてから、彼は言う。
「お前、強いのは間違いない。だが厄介なのは、強さそのものより、“普通に混ざった時にどこまで制御できるか”だろ」
その認識は正しい。
レオノーラは素直に頷いた。
「ええ。その通りですわ」
「だったら、完全別枠は悪手だ」
「先輩もそう思われまして?」
「ああ」
ルークの声は静かだが、はっきりしていた。
「別枠にすれば安全管理は楽になる。だが、それは“学院が扱いきれない”と認めるのと同じだ」
その一言で、レオノーラはかなりすっきりした。
やはりそこだ。
問題の本質は。
「先輩」
「何だ」
「だいぶありがたいことを仰いますわね」
「一応、昨日から見ているからな」
そこでルークは少しだけ視線を横へ流した。
「お前がただ暴れるだけの奴じゃないのは、分かってるつもりだ」
その言い方に、レオノーラは少しだけ驚いた。
この学院で、自分をそう見てくれる人間はまだ少ないと思っていたからだ。
「ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
武芸棟の脇にある小さな談話区画へ入る。
朝の時間帯で人は少ない。
ルークは壁にもたれ、腕を組んだ。
「俺が聞いた範囲だと、別枠案を押しているのは安全性重視の教員側だ」
「分かりますわ」
「逆に、通常枠に一部制限つきで混ぜるべきだと言っているのは、武芸実務寄りの連中だ」
「それも分かりますわね」
「で、俺は後者に賛成だ」
ルークはそこで、まっすぐレオノーラを見た。
「だから確認したい。お前、自分でどこまでできると思ってる?」
良い質問だった。
漠然と“強いです”ではなく、実務的に線を引くための問いだ。
レオノーラは少し考えてから答える。
「対人模擬を除けば、通常枠に混ざること自体は可能ですわ」
「根拠は」
「空間制御、停止精度、出力調整はできます」
「昨日の延長だな」
「ええ」
「なら、もし標的・軌道・停止の複合課題になっても?」
「問題ありませんわ」
ルークは黙って聞いている。
「ただし」
レオノーラは続けた。
「条件がございます」
「何だ」
「大剣使用時は、周囲二人分ほど余白がほしいですわ」
「二人分」
「ええ。横の生徒と同条件は、さすがに安全管理上よろしくありません」
「そこは自分で言うんだな」
「当然でしょう。危ないものを危ないまま押し通す気はございませんもの」
ルークの表情が、少しだけ和らいだ。
「やっぱりお前、そっちなんだな」
「そっち、とは」
「強さを押し通す側じゃなく、運用を考える側だ」
その評価は悪くない。
むしろかなりありがたい。
レオノーラはほんの少しだけ口元を緩めた。
「前世仕込みですわ」
「前世?」
「いえ、こちらの話です」
そこは流す。
ルークは深追いしなかった。
「分かった。じゃあ、俺から言えることは一つだ」
「何かしら」
「もし今日か明日にでも、教員側から“完全別枠でどうだ”と打診されたら、お前ははっきり言え」
「何と?」
ルークは迷いなく答えた。
「“通常枠で参加可能です。ただし安全管理上の条件設定は必要です”とな」
それは実に良い。
感情論にならない。
反抗でもない。
だが、向こうの判断を一段引き戻せる。
「採用ですわ」
「だろうな」
「先輩、かなり優秀でいらっしゃるのね」
「褒めても何も出ないぞ」
「事実を申し上げただけですわ」
そこでふいに、武芸棟の入り口側から複数の足音が聞こえた。
談話区画は半ば開けている。
つまり、こちらが見える位置に来れば普通に見つかる。
ルークが小さく舌打ちした。
「早いな」
誰が、と思う間もなく、その足音の主は姿を見せた。
アルベルト。
アーネスト。
リヒャルト。
なぜ朝からこの顔ぶれが揃っておりますの。
レオノーラは一瞬で頭痛を覚えたが、顔には出さない。
「ルーク先輩」
最初に声を出したのはリヒャルトだった。
「朝からこちらにいらっしゃるとは珍しいですね」
「ちょっとした確認だ」
ルークの返しは自然だった。
だが、アーネストの目はすでに面白そうに細められている。
「へえ。レオノーラと?」
「お前は反応が早すぎる」
「だってそうだろ?」
やめてくださいまし。
レオノーラは心の中でそう言ったが、アルベルトがそこでこちらへ視線を向けた。
「何か問題でもあったのか?」
その問いは、純粋な確認としては自然だった。
だがレオノーラには十分に厄介である。
ここで変に隠すと余計に怪しい。
だが全部正直に言う必要もない。
「来週の実力測定について、少々」
レオノーラは穏当に答えた。
「少々?」
アーネストが繰り返す。
「ええ、少々ですわ」
それ以上は広げない。
すると、ルークが代わりに言った。
「完全別枠にするかどうかの話が出てる。俺はその確認に来ただけだ」
言いましたわね。
かなりはっきり言いましたわね。
レオノーラは一瞬だけルークを見た。
だが、隠してもいずれ伝わるなら、このくらい正面から出した方がむしろいいのかもしれない。
案の定、アーネストが即座に反応した。
「別枠?」
アルベルトの目もわずかに細くなる。
「それは本人の希望か?」
そこへ行きますのね。
「違いますわ」
レオノーラは即答した。
「わたくしは、通常枠で参加可能と考えております」
「へえ」
アーネストが笑う。
その笑い方が非常に嫌だった。絶対に“やっぱりそう言う”と思っている顔だ。
アルベルトは、こちらをじっと見た。
「条件つきで、か」
図星である。
「ええ」
「どの程度の条件だ」
どこまで踏み込まれますの。
だが、ここは妙に隠さない方がいい気がした。
少なくとも、ルークが味方に回ってくれている今なら。
「大剣使用時、周囲の安全余白を通常より広く取ること」
レオノーラは落ち着いて言う。
「対人模擬ではなく、標的・軌道・停止中心の評価にすること」
「なるほど」
アルベルトは短く頷いた。
「つまり、“混ざれない”のではなく、“混ざるための条件設定が必要”ということか」
「その通りですわ」
ルークが小さく笑った。
「理解が早くて助かるな」
アーネストは腕を組んだ。
「でも別枠の方が分かりやすくないか?」
その一言に、レオノーラより先にルークが返した。
「分かりやすいのは楽なだけだ」
声が少し低くなる。
「学院が扱いきれないって認めるのと同じになる」
その場が少し静まる。
リヒャルトがそこで静かに言った。
「……それはたしかに悪手ですね」
アルベルトも、数秒だけ考え込んだ。
「別枠は特別扱いになる」
「ええ」
レオノーラが答える。
「わたくしとしても望みませんわ」
「なぜだ?」
アーネストが聞く。
レオノーラは少しだけ視線を上げた。
「静かに過ごしたいからですわ」
一瞬、全員が黙った。
次の瞬間、アーネストが吹き出した。
「いや、今の状況で?」
「本気ですわ」
「それは分かる」
アルベルトがぽつりと言った。
「君は本当にそう思っているんだろう」
その言い方は、少しだけずるい。
冗談にせず、ちゃんと受け取るから、こちらも変に構え直してしまう。
「……ええ」
レオノーラは短く答えた。
アルベルトはそこで結論を出したように言う。
「なら、別枠は避けるべきだな」
早いですわね。
「殿下?」
アーネストが見る。
「学院内での評価の問題だ」
アルベルトは淡々としていた。
「完全別枠は、“管理不能”の印象を与える。本人が制御可能と主張し、実際にその根拠があるなら、通常枠に条件付きで混ぜた方が合理的だ」
そこまで言ってから、レオノーラへ視線を戻す。
「違うか?」
「……違いませんわ」
非常に助かる。
だが同時に、なぜこんなに話が早いのかと少しだけ怖くもある。
ルークが肩をすくめた。
「じゃあ決まりだな。こっちからもそう押す」
レオノーラはそこで、ようやく少しだけ安心した。
これで少なくとも、“完全別枠”という最悪の未来はかなり遠のいた。
「ありがとうございます」
素直にそう言うと、アーネストが妙に楽しそうな顔をした。
「お、ちゃんと礼言うんだな」
「何だと思っておりますの」
「もっとこう、“当然ですわ”って流すかと」 「場合によりますわ」
リヒャルトが小さく息を吐く。
「お前は本当に分かりやすいな」
「褒め言葉と受け取っておきます」
それからレオノーラは、改めてルークへ一礼した。
「先にお声がけくださって助かりましたわ」
「気にするな」
「いえ、本当に」
ルークは少しだけ気まずそうに視線をずらした。
「……ただ、今後もこういう話は出るかもしれん。お前、自分で思ってるより周囲に影響がでかい」
そこは否定しづらい。
「肝に銘じますわ」
「肝に銘じるだけで終わらせるな」
「努力いたします」
「その言い方」
アルベルトが少しだけ笑った。
やめてくださいまし。
そういう小さな反応も、妙に気になりますの。
その時、一限目開始の鐘が鳴った。
朝の談話は強制終了である。
「では、教室へ戻りますわ」
レオノーラがそう言うと、ルークは片手を上げた。
「引き留めて悪かった」
「有意義でしたわ」
それは本心だった。
教室へ戻る道すがら、アーネストがやたら機嫌良さそうに言った。
「朝から濃いな」
「あなたが言いますの?」
「俺だけのせいじゃないだろ」 「半分くらいはそうです」
リヒャルトが即答する。
レオノーラは、ほんの少しだけ気が楽になっている自分に気づいていた。
完全別枠を避けられる見込みが立った。
それだけでだいぶ違う。
だが同時に、もう一つ分かったこともある。
アルベルトは、“面白がっているだけ”ではない。
状況を見て、合理的に判断し、必要ならこちらの立場も拾う。
それはありがたい。
ありがたいが――やはり婚約回避という観点では、非常に厄介だった。
「……」
教室へ入る前、レオノーラは小さく息を吐いた。
「どうした?」
アルベルトが気づく。
「いえ」
「何かあるなら言え」
「そのお言葉自体が、少々厄介ですの」
アルベルトが珍しく言葉を失った。
アーネストが吹き出し、リヒャルトが口元を押さえた。
「……そうか」
数秒後、アルベルトがようやくそれだけ返す。
「ええ、そうですわ」
レオノーラはにこやかに言った。
だが本音だった。
助けてくれる。
理解も早い。
無駄に押しつけてもこない。
そういう相手だからこそ、婚約回避には厄介なのだ。
単純な嫌な相手なら、嫌えば済む。
だが、まともで理にかなっている相手を排除するのは、ずっと難しい。
そして、それを自覚してしまった時点で、レオノーラは少しだけ嫌な予感を強めていた。
この婚約話、潰すだけなら簡単ではない。
かなり面倒な戦いになる。
そう、はっきり思ってしまったのである。




