第15話 婚約を潰したいわたくしと、なぜか面白がっている殿下では、最初から噛み合うはずがありませんわ
翌朝、レオノーラは目覚めた瞬間に思った。
行きたくありませんわね、と。
学院が嫌いなわけではない。
むしろ建物も設備も立派だし、学ぶ場としては申し分ない。
嫌なのは、そこに付随している人間関係である。
皇太子。
婚約話。
レティシア。
アーネスト。
そして一組という環境そのもの。
昨日一日で、危険要素が想定以上に近づきすぎた。
「お嬢様、お目覚めでございますか」
侍女長の落ち着いた声が扉の向こうから聞こえる。
「ええ」
「本日のご予定は、通常通り学院へご登校でよろしいでしょうか」
レオノーラは一瞬だけ「体調不良ということにして休めないかしら」と考えた。
だがそれは長期的に見て悪手だ。
前世の経験でも、避けるべき問題を初手で回避に回すと、たいてい余計にこじれる。
今必要なのは、様子見と情報収集であって、逃走ではない。
「ええ、参りますわ」
「承知いたしました」
そう答えた時点で、半分くらいは勝ちだった。
少なくとも、自分で自分の足を止めなかったのだから。
朝食の席には父ヴァルター、母エレオノーラ、そしてクラウスが揃っていた。
昨夜の小会議室ほど重い空気ではない。だが、完全にいつも通りでもない。
レオノーラが席につくと、父がまず言った。
「皇室側への返答はまだしていない」
「はい」
「だが、近いうちに何らかの形で意向確認は来るだろう」
「承知しておりますわ」
「学院では余計なことを言うな」
「努力いたしますわ」
「その返答に慣れてきた自分が嫌になる」
父が低く呟き、母が笑いをこらえる。
クラウスは冷静だった。
「本日は、昨日よりも注目が集まると考えた方が良いでしょう」
「でしょうね」
レオノーラもそれは理解している。
人は一度話題にした対象を、翌日には“答え合わせ”の目で見る。
昨日だけで終わるはずがないのだ。むしろ今日が本番まである。
「ですからお姉様」
クラウスはパンを切りながら淡々と言った。
「本日の目標は、目立たないことではなく、“自分から燃料を追加しないこと”です」
「それ、昨日も聞いた気がしますわ」
「昨日は失敗したので、本日は改訂版です」
ひどい言いようだったが、反論できないのが悔しい。
レオノーラはスープを一口飲み、静かに頷く。
「承知しましたわ。今日は必要以上に話さず、必要以上に剣を使わず、必要以上に印象を残しません」
母がそこで小首を傾げた。
「“必要以上に”ということは、“必要なら”話すし剣も使うのね」
「当然ですわ」
「まあ」
母は楽しそうだった。
父は頭痛をこらえるような顔をした。
「本当に、普通の令嬢に育ってくれんものか……」
「今さらですわね、お父様」
「それをお前が言うのか」
ごもっともである。
食後、馬車へ向かう前に、クラウスがさりげなく並んだ。
「お姉様」
「何かしら」
「念のため」
「ええ」
「本日、万が一殿下が婚約の話を振ってきても、教室では絶対に条件を口にしないでください」
レオノーラは一瞬だけ沈黙した。
クラウスが眉をひそめる。
「今の間は」
「いえ、分かっておりますわ」
「本当に?」
「本当にです」
「“竜を単騎で斃せぬ方は下の下ですわ”も駄目です」
「分かっております」
「“自分より弱い方はお断りですわ”も駄目です」
「分かっておりますってば」
「念のためです」
弟の信用のなさが悲しい。
だが、ここまで釘を刺されるのは、たぶん必要でもあった。
馬車が学院へ向かう道すがら、レオノーラはひたすら今日の行動方針を整理していた。
第一。
皇太子には自分から近づかない。
第二。
レティシアには感じ良く接しつつ、距離を詰めさせない。
第三。
アーネストの挑発には乗らない。
第四。
リヒャルトはまともなので、必要なら話を通す相手として観察。
第五。
セシリアとの関係は維持する。
悪くない。
かなり整理されている。
前世でも、危険人物や協力可能人物の初期分類は重要だった。
問題は、その分類対象が全員、学院の主要人物っぽいことだけである。
学院へ着くと、案の定というべきか、昨日以上に視線が多かった。
正門前。
中庭。
教室棟へ向かう回廊。
どこを歩いても、見られる。
露骨ではないが、確実に見られている。昨日は“巨大剣の公爵令嬢”としての視線が主だった。今日はそれに“婚約話の相手かもしれない公爵令嬢”という文脈まで乗っている。
「……予想はしておりましたけれど」
レオノーラが小さく呟くと、クラウスが隣で言った。
「今日は私はここまでです」
教室棟の手前だ。
昨日と同じ位置で、姉弟は足を止める。
「分かっておりますわ」
「ご武運を」
「学院生活に対して使う言葉ではありませんわね」
「お姉様には適切です」
ひどい。
だが、今日は笑う余裕も少しあった。
「また後で」
「ええ、また後で」
弟と別れ、一人で教室棟へ入る。
一組の教室へ向かう間にも、何人かの新入生から挨拶された。
昨日より増えている。
これは二面性がある。
敵意を向けられているわけではない。
むしろ“顔を売っておきたい”という貴族的な合理性が働いているのだろう。
だから対応自体は簡単だ。
微笑み、礼を返し、必要以上に言葉を増やさない。
問題は、それを繰り返しているだけで目立つことだった。
一組の教室へ入ると、まだ半分ほどしか席は埋まっていなかった。
レオノーラは昨日と同じ、一番後ろの窓際、壁寄りの席へ向かう。
定位置は大事だ。人間は位置が固定されると認知負荷が下がる。
「おはようございます、レオノーラ様」
声をかけてきたのはセシリアだった。
二列前、同じ窓際席。やはりちょうどいい距離感である。
「おはようございます、セシリア様」
「昨日は……その、大変でしたわね」
「ええ、少々」
「少々で済むのですね」
困ったように笑われた。
悪意がないので、こちらも少し気が楽だ。
「本日は静かに過ごしたいものですわ」
レオノーラが本音を漏らすと、セシリアは少しだけ目を丸くし、それから本当に同情するような顔をした。
「心からお祈りしておりますわ」
「ありがとうございます」
そのやり取りが終わるのと、教室の前方が少しざわつくのが、ほぼ同時だった。
嫌な予感がした。
見れば、アルベルトが教室へ入ってきたところだった。
その後ろにアーネスト、リヒャルト。少し遅れてレティシアも入る。
主要人物勢揃いである。
朝から濃い。
レオノーラは視線を合わせないよう、さりげなく鞄の位置を整えた。
だが、その努力は半分しか実らなかった。
「おはよう、レオノーラ嬢」
アルベルトの方から声をかけてきたのだ。
周囲の空気が微妙に固まる。
やめてほしい。
朝の教室で、そんな自然に話しかけないでほしい。
「ごきげんよう、殿下」
だが無視はできない。
レオノーラは完璧な微笑みで応じる。
「昨日は失礼した」
アルベルトが言った。
「教室でする話ではなかった」
意外だった。
昨日の件を、こうして改めて詫びてくるとは思っていなかった。
「お気になさらず」
「いや、気にするべきだろ」
アーネストが横から笑う。
「空気、凍ってたぞ」 「お前は少し黙れ」
リヒャルトが即座に切った。
この流れ、少し見慣れてきた自分が嫌だった。
レオノーラは一瞬だけ迷い、それから穏当に返した。
「昨日の件は、わたくしも家で確認いたしましたわ」
アルベルトの目が少しだけ変わる。
周囲の空気もまた微妙に動く。
しまったかしら、と思ったが、もう遅い。
「そうか」
アルベルトはそれ以上踏み込まなかった。
代わりに、ほんの少しだけ真面目な声音で言う。
「なら、少なくとも誤解は減ったわけだな」
「ええ、多少は」
それは事実だった。
婚約話が“正式決定ではないが動いている”という認識を持てただけで、昨日よりずっとマシだ。
曖昧な恐怖は薄れた。あとは対処の問題である。
「よかった」
アルベルトは自然にそう言った。
その自然さが、レオノーラには少しだけ厄介だった。
上からでもなく、軽くでもなく、妙にまっすぐ来る。
こういう相手は扱いにくい。
「殿下」
レオノーラは少しだけ声を整えた。
「何だ」
「わたくし、本日は静かに過ごしたく存じますの」
はっきり言った。
だが、拒絶ではなく要望として。
するとアーネストが吹き出しかけ、リヒャルトは目元を押さえ、アルベルト自身もほんの少しだけ意表を突かれた顔をした。
「……それは、私が邪魔をしていると言いたいのか?」
「そうは申しませんわ」
「だが、含みはあるな」
「ご想像にお任せいたします」
我ながら、悪くない返しだった。
するとアルベルトは、一拍置いてから、ごく僅かに笑った。
「分かった。今日は必要以上に話しかけないようにしよう」
本当ですの?
レオノーラは心の中でそう思った。
だが表ではにこやかに返す。
「助かりますわ」
「ただし」
やはり続きがある。
「必要があれば別だ」
やめてほしい。
“必要”の解釈が絶対にこちらと違う。
「……なるべく、その必要が生じないことを祈っておりますわ」
「善処しよう」
善処。
その言い回しに、レオノーラはほんの少しだけ顔をしかめた。
昨夜、自分も父に同じ言葉を使った。
そしてその信用度の低さを痛感したばかりだ。
つまり今、皇太子に“善処しよう”と言われた自分は、父と同じ気持ちなのだろう。
少し嫌だった。
「おはようございます、皆さま」
そこへ、レティシアが柔らかな笑みで加わってきた。
逃げ道が塞がる。
「ごきげんよう、フローレンス様」
「レオノーラ様、昨日はあまりお話しできませんでしたわね」
しましたわよ。
結構しましたわよ。
と、レオノーラは思ったがもちろん言わない。
「そうでしたかしら」
「ええ、もっと伺いたいことがたくさんございますもの」
やめてくださいまし。
アーネストが露骨に面白がる目を向けてくる。
リヒャルトだけが少し気の毒そうだった。
「たとえば?」
アルベルトが何気なく聞くと、レティシアは迷いなく答えた。
「剣のことですわ」
教室の空気が一瞬だけ緩んだ。
婚約の話ではない。
そこに行かないだけで、だいぶマシである。
レティシアは本当に悪意なく続けた。
「どうしてあんなに大きな剣を、あれほど綺麗に扱えるのかしらって」
そこか。
それならまだ対応しやすい。
レオノーラは少しだけ肩の力を抜いた。
「慣れですわ」
短く返す。
だがレティシアは目を輝かせた。
「やはり鍛錬ですのね」
「ええ、まあ」
「素敵ですわ」
また素敵と言われた。
どう返すのが正解なのだろう。
困っていると、アーネストが笑いながら言う。
「レティシア嬢、それを本人に真正面から言うと困るタイプだぞ」
「まあ、そうなのですか?」
そうなのです。
とてもそうなのです。
レオノーラが頷く前に、リヒャルトが低く補足した。
「過剰に持ち上げられるのが得意ではないだけだ」
助かる。
本当に助かる。
「そうでしたのね。失礼いたしましたわ」
レティシアは素直に引いた。
この子はこの子で、悪意がない分、扱いが難しい。
だが今のように一度で引いてくれるなら、まだいい。
その時、教室の扉が開き、マグダ教員が入ってきた。
「席に着きなさい」
空気が締まる。
アルベルトたちは前方の席へ戻り、レティシアも自分の席へ向かった。
アーネストだけが去り際に振り返って、にやりと笑う。
「静かな朝になりそうでよかったな」
全然よくありませんわ、とレオノーラは心の中で返した。
だが、ひとまず大事にはなっていない。
それで十分だ。
マグダ教員は出席を確認し、今日の予定を告げる。
「午前は座学、午後は選択基礎です。一組は早期に実力別振り分けを行いますから、最初から気を抜かぬよう」
嫌な予感しかしない単語が混ざっていた。
実力別振り分け。
武芸だけでなく、座学や魔術も含めたクラス内序列の初期形成だろう。
学院としては合理的だ。だがレオノーラとしては、もうこれ以上目立つ材料はいらない。
「……」
しかし前世仕込みの現実的な思考が、すぐに別の結論を出す。
ここでわざと落とすのは悪手だ。
不自然な抑えは、別の疑念を呼ぶ。
ならば淡々と、必要な水準を出すしかない。
面倒ですわね、本当に。
そんなことを考えているうちに、一限目の歴史学が始まった。
教科自体は嫌いではない。
むしろ前世知識のない世界の歴史は興味深い。問題は、授業中ですら時折感じる視線だった。
前から。
斜めから。
たまに後ろから。
特にアーネストは、教師に見つからない程度にちらちら振り向いてくる。
うるさい。
非常にうるさい。
だが、レオノーラは無視した。
ノートを取る。
話を聞く。
必要な箇所に印をつける。
無駄に反応しない。
これも前世で覚えたことだ。無駄に反応するほど、相手は調子に乗る。
すると不思議なことに、十分ほどでアーネストの視線は減った。
人間、反応が薄いと次の刺激を探すのだろう。
小さな勝利だった。
そして一限目が終わり、短い休憩時間になった時。
レオノーラは少しだけ安堵した。
今のところ、昨日ほどの爆発はない。
このままいけるかもしれない。
そう思った矢先、前の席からアーネストがくるりと振り向いた。
「レオノーラ」
呼び捨てになっている。
即座に訂正したくなったが、それより先に彼は言った。
「午後の選択基礎、武芸取るだろ?」
ああ、やはりそちらへ来ますのね。
レオノーラは静かに息を吐いた。
婚約話の次は武芸。
この男、実に分かりやすい。
「……まだ決めておりませんわ」
半分は嘘だった。
実際には武芸を取るつもりだ。
だが今ここで素直に認めるのも癪だった。
するとアーネストは、心底楽しそうに言った。
「へえ。じゃあ取らない可能性もあるのか?」
挑発である。
見え透いている。
だがレオノーラは乗らない。
「可能性は常に複数あるべきですわ」
「理屈っぽい返しだな」 「お前が分かりやすすぎるだけだ」
リヒャルトが切る。
今日もありがたい。
しかしアーネストは止まらなかった。
「でも、もし取るなら楽しみだ。昨日の続きが見られる」
レオノーラは初めて、正面から彼を見た。
赤髪。
軽薄そうな笑み。
だが、その奥には純粋に“強さ”を見たがる目がある。
この人はたぶん、悪い人間ではない。
ただし、レオノーラにとってはかなり厄介だ。なにせこちらの事情など関係なく、“面白いかどうか”で近づいてくる。
「……アーネスト様」
「何だ?」
「わたくし、見世物ではございませんの」
一瞬、教室の空気が止まった。
アーネストが目を丸くする。
リヒャルトは少しだけ感心した顔。
斜め前のアルベルトも、気配だけで反応したのが分かった。
レオノーラは穏やかに続ける。
「武芸はわたくしにとって必要な技術であって、人を楽しませるためのものではございませんわ」
やや厳しすぎただろうか。
だが、ここは言うべきだと思った。
曖昧に笑って流すと、この先ずっと“面白いから見たい”で押される。
前世でも、最初の線引きは重要だった。
アーネストは数秒黙り、それから、意外にも素直に言った。
「……悪い。たしかにそうだな」
あっさり認めた。
レオノーラの方が少し驚いたくらいである。
「いや、見る側の感覚で言ってた」 「本人からすれば違うよな」 「すまん」
教室の空気がふっと緩む。
これは、思ったより悪くない流れかもしれない。
レオノーラも少しだけ表情を和らげた。
「分かっていただけたなら、それで十分ですわ」
そのやり取りを、アルベルトが静かに聞いていた。
そして彼は振り向かないまま、ぽつりと言った。
「君は本当に、筋の通らない扱いを嫌うんだな」
レオノーラは一瞬だけ答えに迷い、それから率直に返した。
「嫌いですわ」
「そうか」
それだけだった。
だが、なぜかその短い返答が、妙に心に残った。
休憩終了の鐘が鳴る。
次の授業が始まる前、レオノーラは窓の外へ一度だけ目をやった。
婚約を潰したい。
静かに過ごしたい。
その気持ちは変わらない。
だが同時に、昨日までより少しだけ分かってきたこともあった。
皇太子アルベルトは、思ったより厄介だが、思ったより話は通じる。
アーネストは騒がしいが、線引きすれば引く。
リヒャルトはまとも。
レティシアはまっすぐで強い。
要するに――
全員、想像していたより面倒で、想像していたより単純ではない。
「……本当に、噛み合いませんわね」
小さく漏らしたその言葉に、誰も気づかなかった。
だがレオノーラだけは分かっている。
この学院生活、たぶんそう簡単には終わらない。




