第14話 婚約を遠ざけるための条件のはずでしたのに、なぜ火種が増えておりますの?
アルトヴァイス公爵家の小会議室にて。
竜を単騎で斃せることを婚約条件にする、と言い切ったレオノーラに対し、父ヴァルターは深い疲労をにじませた顔で椅子へ背を預けていた。
母エレオノーラは、いまだ少し面白そうである。
弟クラウスは、もはや驚いてはいなかった。諦めに近い理解の表情だった。
「確認しておくが」
父が低く言った。
「お前は本気で、その条件なら話が自然に消えると思っているのか」
「ええ」
レオノーラはきっぱり答えた。
「普通に考えて、竜を単騎で討てる殿方などそうそうおりませんでしょう?」
「普通に考えれば、婚約条件に竜殺しを出す令嬢もおらん」
「ですが、わたくしには必要ですわ」
そこだけは一歩も引く気がなかった。
必要条件なのだ。
相手の見栄や名誉の問題ではなく、こちらの人生の問題である。
父は娘の顔を見て、それが冗談でも意地でもなく、本気の基準なのだと改めて悟ったらしい。深く、長く息を吐いた。
「……それで、お前の中では皇太子殿下は完全に基準外か」
「現時点では」
「現時点では、か」
父の言い方には微妙な引っかかりがあった。
レオノーラは小さく首を傾げる。
「何かしら」
「いや。お前、万が一にも相手がその条件を満たした場合はどうするつもりだと思ってな」
レオノーラは一瞬だけ黙った。
そこは、考えていなかった。
いや、正確には、考える必要がないと思っていた。
皇太子が竜を単騎で討つ。そんな展開は想定外もいいところである。政治的にも護衛体制的にも、普通はさせないはずだ。
だが父の問いは、非常に実務的だった。
「……その場合は、その時に改めて考えますわ」
「考えていなかったのね」
母が柔らかく笑う。
「だって、あり得ませんもの」
「あなた、“あり得ませんもの”と思っていることほど引き寄せるでしょう?」
その指摘に、レオノーラはぐっと言葉に詰まった。
言われてみればそうだった。
悪役令嬢だと気づいてからこっち、できれば避けたいと思ったことほど、妙に正面から来る。
皇太子との接触もそうだ。ヒロイン級の少女との邂逅もそうだ。今日一日のすべてがそうだった。
母の観察眼は鋭い。
「お母様」
「なあに?」
「縁起でもないことを仰らないでくださいまし」
「でも本当でしょう?」
「……否定しづらいですわね」
クラウスが静かに口を開く。
「でしたら、条件は条件として維持しつつ、“達成された場合の次善策”も持つべきです」
良い指摘だった。
前世の感覚でも、その通りだ。
交渉条件を一つだけにすると、想定外の突破を食らった時に脆い。複数の防衛線を張るべきである。
レオノーラは弟を見た。
「たとえば?」
「たとえば」
クラウスは迷いなく答える。
「強さだけではなく、価値観の一致、実務能力、有事対応能力、そしてレオノーラ姉上が納得して従えるかどうか、です」
「最後の条件がかなり重いですわね」
「当然です。姉上は相手に従う気が薄いのですから」
ひどい言い方だったが、これもだいたい事実だった。
レオノーラは“守られるだけの伴侶”も嫌だが、“理不尽に命令してくる相手”ももっと嫌だ。
少なくとも、自分が筋が通っていると認められる相手でなければ困る。
母が頷いた。
「ええ、そこは大事ね。レオノーラは強いだけの男では駄目だもの」
「そうですわ」
レオノーラはそこにすぐ乗った。
「ただ強いだけの方では困ります。わたくし、力で押さえつけられるのはもっと嫌ですもの」
「では、そこも条件に入れればいいのではなくて?」
母の言葉に、レオノーラは少し考え込む。
強さ。
有事対応。
価値観。
そして、自分が納得できること。
悪くない。
かなり悪くない。
だが、そこまで条件を増やすと、婚約回避のためというより、“理想の伴侶像”の話になってしまいそうで嫌だった。
レオノーラはそこをきっぱり分けたい。
これは夢見る令嬢の条件整理ではない。あくまで破滅回避の実務である。
「……まずは第一条件だけで十分かと存じますわ」
「竜殺しが第一条件なのね」
母が笑う。
「ええ」
「本当にあなたらしいこと」
父がそこで、机上を指先で二度叩いた。
「話を戻す」
その声で空気が引き締まる。
「皇室側へは、こちらからすぐに返答を出すことはしない。だが曖昧に引き延ばしすぎるのも危険だ」
「はい」
「そこでだ。明日以降、お前は学院でこれまで以上に慎重に動け」
レオノーラはわずかに眉を寄せた。
「慎重に、とは」
「皇太子殿下本人に条件を匂わせるな。レティシア嬢にも余計なことを言うな。他の生徒に婚約話を広げるな。まず家が動く」
非常に正しい。
レオノーラも反論はなかった。
「承知しましたわ」
「本当にか?」
父が疑わしげに言う。
「本当ですわ」
「その返事は信用しづらい」
「お父様もですの?」
「当然だ」
母とクラウスが同時に頷いた。
家族全員からの信用が薄い。
心外である。
「ですが、わたくしだって状況は分かっておりますわ」
レオノーラは真顔で言った。
「婚約回避が目的であって、学院での無用な衝突が目的ではございませんもの」
「その認識だけは正しいのよねえ」
母がしみじみ言う。
「なのに、どうして毎回こうも大事になるのかしら」
「それはわたくしも知りたいですわ」
そこは本当に心からそうだった。
静かに始めたかった。
目立たず、危険要素を避け、皇太子ともヒロイン級の少女とも適度な距離を取りたかった。
だが結果として、学院初日に顔も名前も完全に覚えられ、婚約話まで教室で出てしまっている。
計画と現実が噛み合わなさすぎた。
「では、具体的にどう動かれるのですか」
クラウスの問いは、実務そのものだった。
「明日からです」
レオノーラは少し考え、それから整理するように言った。
「まず、皇太子殿下とは必要以上に接触しません」 「レティシア嬢とも、敵対はせず、ですが深くは関わりません」 「アーネスト様は距離感がおかしいので警戒します」 「リヒャルト様は比較的まともですので、必要なら情報の質で見ます」 「セシリア様とは穏当に関係を築きます」
父が途中で額を押さえた。
「お前、初日でどれだけ整理した」
「必要でしたので」
「必要でしたので、で片付く情報量ではない」
だがクラウスはむしろ納得している様子だった。
「合理的です。少なくとも、誰が危険で誰が話が通じるかの初期分類はできています」
「ありがとう、クラウス」
「褒めてはいません」
辛辣である。
それでもレオノーラは少しだけ楽になった。
行動指針が言語化されると、恐怖は減る。前世でもそうだった。
曖昧な不安は人を鈍らせるが、整理された課題は処理できる。
「あと一つ」
母がふいに言った。
「レオノーラ、あなた、殿下をどう見たの?」
「どう、とは」
「強さでも、政治でも、人格でも。あなたなりの評価があるでしょう?」
鋭い質問だった。
レオノーラは少しだけ考え込む。
アルベルト皇太子。
顔立ちは整っている。
立ち居振る舞いも美しい。
言葉の選び方も、場の収め方も、王族としてよく教育されている。
そして、ただの飾りではない。
武にも関心があり、少なくともレオノーラの剣を“実用品”として見抜いた。
そこまでは認めざるを得ない。
「……厄介なお方ですわね」
「評価になってない」
父が即座に言った。
だがレオノーラは本気だった。
「だって、軽く見てくださらないではありませんか」
「そちらの方がよいのではなくて?」
「よくありませんわ。軽く見てくだされば、こちらも距離を取れますもの」
それは本音だった。
レオノーラにとって一番扱いやすいのは、こちらを“変わった公爵令嬢”とだけ思ってくれる相手だ。
だがアルベルトは違う。妙に本質を見てくる。そこが困る。
「剣を見ても、あまり侮りませんでしたわ」 「武芸棟でも、ただ珍しがっているだけではありませんでした」 「婚約の話も、変に誇るでも押しつけるでもなく、確認しようとしておりましたし」
母が少しだけ目を細める。
「ずいぶん見ているのね」
「見られていたから、見返しただけですわ」
そこに他意はない。
ないはずだ。
クラウスがぼそりと言う。
「姉上、その評価はわりと高い方では」
「だから厄介なのです」
レオノーラは即答した。
「単純に嫌な相手なら、嫌えば済みますもの」
それはたしかにそうだった。
父も母も、その点については何も言わなかった。
おそらく、レオノーラの言葉に一理あると判断したのだろう。
「まあいい」
父が最終的に話を締める。
「今日はもう休め。明日から学院は続く」
「はい」
「こちらもこちらで動く。お前は余計な挑発をするな」
「善処いたしますわ」
「そこを善処にするな」
重ねて叱られた。
だが、レオノーラとしても本当にそう思っている。
挑発したいわけではない。たいてい勝手に向こうが引っかかるだけで。
会議が終わり、小会議室を出たあと、クラウスが廊下で並んだ。
「お姉様」
「何かしら」
「一つだけ」
「ええ」
「本当に、学院で“竜を単騎で斃せぬ方は下の下ですわ”とは言わないでください」
レオノーラは少しだけ黙った。
クラウスが嫌な顔をする。
「今の間は何ですか」
「いえ、その……文脈次第では?」
「文脈を作らないでください」
まったくもって正論だった。
レオノーラは肩をすくめる。
「努力いたしますわ」
「その返事しかできないのですか」
弟の呆れを受け流しながら、自室へ向かう。
重い一日だった。
だが、少なくとも今は方針がある。
婚約話はまだ決定ではない。
ならば潰せる。
学院での立ち回りにも修正をかける。
そして条件は、家側から丁寧に伝える。
問題はただ一つ。
その条件が、皇太子側にどう受け取られるかだった。
そしてその夜、アルトヴァイス公爵家とは別の場所でもまた、一つの会話が交わされていた。
皇城の一角、皇太子アルベルトの私室にて。
「……竜を単騎で、か」
アルベルトは机上に肘をつき、静かにその言葉を繰り返した。
対面のアーネストは、面白くてたまらないといった顔で笑っている。
「すごい条件だよな。普通、家格とか将来性とか言うだろ」 「君に向かって“竜も斃せないなら話になりません”はなかなかだ」 「しかも、あの顔で本気っぽい」
リヒャルトは窓辺に立ったまま、低く言う。
「まだ本人が言ったわけではない。推測で断定するな」
「でも、言いそうじゃないか?」
「それは否定しない」
アルベルトは小さく息を吐いた。
今日一日だけで、レオノーラ・アルトヴァイスという少女は、あまりにも印象を残しすぎた。
巨大剣。
剣の制御。
自己紹介での妙な物々しさ。
そして婚約の話を聞かされていなかったらしい、あの顔。
面白い、で片付けてよい相手ではない。
だが、軽く扱うべき相手でもない。
「殿下」
リヒャルトが振り返る。
「どうされますか」
アルベルトは少し考え、それから静かに答えた。
「どうもしない」
アーネストが片眉を上げた。
「へえ?」
「まだ、だ」
アルベルトの目は冷静だった。
「向こうがどう出るかを見る。少なくとも、軽々しく進める話ではないと分かった」
その判断に、リヒャルトはわずかに頷いた。
アーネストだけが、少し残念そうに肩をすくめる。
「つまらないな」
「お前は黙っていろ」
「でも気になるだろ?」 「気にはなる」
そこはリヒャルトも否定しなかった。
アルベルトは窓の外を見た。
夜の皇都は静かだ。
だがその静けさの裏で、貴族も皇族も、それぞれに思惑を巡らせている。
そしてその中心にいるはずのレオノーラは、おそらく今ごろ、本気でこの婚約話を潰す方法を考えているのだろう。
そう思うと、アルベルトはほんの少しだけ口元を緩めた。
「……竜を単騎で、か」
もう一度その言葉を口にする。
常識外れだ。
だが、嫌いではなかった。
もっとも、それをレオノーラ本人が知れば、心底嫌そうな顔をするだろうけれど。




