第七話 厠に行くのが無理でした
俺は、前世の記憶が戻ってから一度も大きい方をしていない。
小さい方はした。
昼も夜も、部屋に置かれた小さな壺にした。
三歳の体では奥廊下の厠まで一人で行けない。そもそも、前世の記憶が戻った俺にはこの屋敷の厠へ入る勇気がなかった。
だから、小さい方は壺で済ませていた。
それ自体は、ぎりぎり受け入れた。前世の日本にも子ども用のおまるはあった。でも、大きい方だけは壺にするのは嫌だった。
一日。
二日。
前世の記憶が戻ってから、俺はずっと我慢していた。
その結果、限界が来た。
朝から腹が痛い。寝台の上で丸くなる。腹の中で何かが重く固まっている。動くたびに痛い。汗がにじむ。これは駄目だ。清潔以前に、俺の体が駄目になる。俺は毛布を握りしめた。
「……無理だ」
扉のそばにいたミーナが振り返った。
前世の記憶が戻ってから俺の周りは少しだけ変わっている。
マルタは忙しかった。
リリアの部屋へ行き、母上の様子を見て、兄上たちの支度にも顔を出す。俺ひとりに付ききりではいられない。
だから最近、俺のそばにいる時間が増えたのがミーナだった。
十二歳の見習い侍女。
俺付きだと決められたらしい。
気の毒に。
今の俺付きになるなんて運が悪い。
これまでもミーナは部屋にはいた。服を畳み、桶を運び、マルタに言われたことを黙ってこなしていた。けれど、前世の記憶が戻ってからの俺には彼女のことを意識する余裕がなかった。
侍女服はまだ少し大きいが、背筋だけはいつもまっすぐだった。
「アルノ坊ちゃま、お腹が痛いのですか」
ミーナは俺の顔を覗き込むなり言った。
「……痛い」
「奥様をお呼びしますか。もしくはマルタ様を――」
「呼ばなくていい」
これは薬草でも祈祷でもどうにもならない。
出さなければならない。
ただ、それだけのことだ。
「――厠に行く」
俺は腹を押さえたまま絞り出すように言った。
「……厠でございますか」
ミーナが固まった。
「そう」
「坊ちゃまが?」
「俺が」
「小さな壺ではなく?」
「壺は嫌だ」
「ですが、坊ちゃまは昼も夜も、いつも壺に――」
「小さい方だけ、だ」
言ってから、顔が熱くなった。恥ずかしい。何を真剣に説明しているんだ。三歳児の体なのに、中身は前世の記憶を持った男だ。屈辱がすごい。でも腹はもっと痛い。
「大きい方は壺にしたくない」
「さ、左様でございますか……」
ミーナも赤くなった。
最悪だ。
朝から何の話をしているんだ。
「――で、では、奥廊下の厠へ」
ミーナは慌てて扉を開けた。
俺は靴を履いた。腹が重い。歩くたびに痛い。ミーナが手を差し出し、俺は少し迷ってからその手を取った。今は、潔癖より腹の痛みが勝った。
俺たちは廊下へ出た。屋敷の奥へ進む。普段、俺があまり行かない方だ。石壁が厚くなり、窓が小さくなる。外の風がどこかから入り込み、廊下の空気が冷たい。ミーナが小声で説明した。
「ここが、奥廊下の厠でございます。旦那様や若様方もお使いになります」
「父上も?」
「はい」
「兄上たちも?」
「はい」
つまり、この屋敷で一番偉い人たちが普通に使っている。
それならそこそこ整っているはずだ。
そう思いたかった。
だが、扉の前に立った瞬間、無理だった。
匂いがした。
ひどい悪臭というほどではない。
でも、分かる。
前世で嗅いだことのある古い公園の便所に近い匂いだった。
木の扉は、下の方だけ色が濃くなっていた。何度も水で拭かれたのか、それとも湿気を吸ったのか、表面が少し波打っている。
中は狭かった。
石の床は冷たく、壁の一部だけが屋敷の外へ張り出している。小さな窓のような隙間から外の風が入り込んでいた。そのせいで空気はこもりきってはいないが、鼻の奥に残る、厠の匂いがあった。
部屋の中央には、木の座板が据えられていた。人が座るために磨かれたのか縁だけが鈍く光っている。その真ん中に、丸い穴が開いていた。
下は暗くて見えない。見えないのが余計に怖い。穴の奥から冷たい風が上がってくる。
「坊ちゃま?」
「ここに座るの?」
俺は入口で固まった。
「はい」
「誰が座った?」
「旦那様や若様方が」
「……そのあと、拭いた?」
「拭く――でございますか?」
終わった。
聞くべきではなかった。
聞いたら余計に無理になると分かっていた。
でも聞かずにはいられなかった。
「座るところ。手を置くところ。それから床だよ」
「汚れていれば掃除はいたします」
「汚れが目に見えて分かったときだけ?」
「……はい」
無理だ。
絶対、無理だ。
俺は腹を押さえた。けれど、もう引き返せない。これ以上我慢したら別の意味で俺が壊れる。大きい方を漏らすなど絶対にあってはならない。
俺は震えながら厠の中へ入った。そこで、座板の横に小さな木箱があることに気づいた。中には、乾いた苔と柔らかく揉まれた干し草、それから古い布の切れ端が入っている。
「……これは何?」
俺が聞くと、扉の外で待っていたミーナが当然のように答えた。
「お使いになった後に拭くものでございます」
「――――」
俺は絶句した。
分かっていた。
紙がないことくらい、うすうす分かっていた。
この世界に前世のような白く巻かれた紙があるはずもない。
でも。
苔。
干し草。
古布。
これで――。
これで――拭くのか。
考えた瞬間、腹がさらに痛くなった。
「坊ちゃま、お済みになったらお呼びください。お拭きいたします」
俺は固まった。
「……何を?」
「お尻を、でございます」
「しなくていい!」
「ですが、坊ちゃまはまだお小さいので」
「小さいけど、そこは自分でやる!」
「マルタ様からは坊ちゃまのお世話をするようにと」
「これは世話じゃない。尊厳の問題だ」
「そんげん……?」
「――外で。外で待ってて」
ミーナは困った顔をした。
三歳児を厠に一人で入れるのは危ない。
それは分かる。
分かるが、今だけは譲れない。
俺にも守りたいものがある。
尻だ。
いや、違う。
尊厳だ。
「扉の外におります。何かあれば、すぐお呼びください」
「うん」
扉が半分だけ閉まった。
俺は座板を見た。
触りたくない。
座りたくない。
でも座らなければならない。
腹はもう限界だった。
俺は服の裾が床につかないように持ち上げ、できるだけ座板の端に触れないようにして震えながら腰を下ろした。
冷たい。
怖い。
下から風が来る。
穴の向こうは暗い。
俺はなるべく何も考えないようにした。
そして――この世界で初めて俺は、大きい方を終えた。
いや、まだ終わっていない。
次は木箱だ。
俺は箱の中を見た。
苔。
干し草。
古布。
前世の俺なら絶対に使いたくない。
でも、もう選べない。
俺は息を止め、古布ではなく苔を取った。
布は怖い。
洗って再利用されている可能性がある。
苔も怖い。
干し草も怖い。
それでも、どれか一つを選ばなければならない。
地獄の三択だった。
俺は苔をできるだけ端でつまみ、他の苔に触れないようにした。
箱の内側にも触れないようにした。
自分の服にも触れないようにした。
苔を当てた瞬間、尻がひやりとした。
柔らかい。
思っていたより柔らかい。
けれど、ところどころに細い茎のようなものが混じっていて肌にざらりと引っかかった。
湿ってはいない。
乾いている。
前世の紙とは明らかに違う。薄くもなければ均一でもない。どこまで拭けたのかも分からない。
ただ尻を拭くだけで額に汗がにじむ。
使った苔は穴へ落とした。
俺は息を整え、なんとか服を直した。
生きている。
俺は生きている。
ただ厠を使っただけなのに生還したような気分だった。
「坊ちゃま、大丈夫でございますか」
扉の外からミーナが声をかけてきた。
「大丈夫じゃない」
「お腹がまだ痛みますか」
「違う」
「では……」
「聞きたいことがある」
「はい」
聞かない方がいい。
絶対に聞かない方がいい。
けれど、もう気づいてしまった。
気づいた以上、聞かずにはいられない。
俺は座板の穴を見た。下は暗い。冷たい風が上がってくる。
「この下、どうなってるの?」
聞いた瞬間、自分でも少し後悔した。
でも、もう遅かった。
ミーナは扉の外で何でもないことのように答えた。
「屋敷の外側へ落ちるようになっております。下には溜める場所があって、たまると人が出して、しばらく置いてから畑の方へ運ぶそうです」
俺は黙った。
落ちる。
溜まる。
しばらく置かれる。
人が掻き出し、桶に入れて、畑へ運ぶ。
土に混ぜて、そこから作物が育ち、食卓へ来る。
考えるな。
考えてはいけない。
でも、もう遅かった。
暗い穴の下と畑と食卓が頭の中でつながってしまった。
厠はあった。
穴もあった。
拭くものもあった。
処理する仕組みも一応あった。
この世界の人間は何も考えていないわけではない。
けれど、俺にはその全部が怖かった。
俺は、知らないまま食べていたのかもしれない。
「坊ちゃま?」
ミーナの声がした。
俺は穴を見たまま心の底から思った。
聞くんじゃなかった。




