↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、いつの間にか衛生改革になっていました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一章 小さな手洗い台

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/15

第八話 壺を抱えた服が無理でした

 厠に行った翌朝、俺はまた見てしまった。

 ミーナが、俺の部屋の小さな壺を運んでいた。

 布はかけられている。中身は見えない。けれど、分かる。俺が使った壺だ。

 大きい方は昨日、奥廊下の厠で済ませた。だが、小さい方は別だ。三歳の体で昼も夜も間に合うように厠まで行けるわけがない。だから部屋の壺は残る。残る以上、誰かが運ぶ。

 今はミーナだった。彼女は壺を胸の前で抱えている。落とさないためだろう。けれど、前掛けが壺の丸い側面に触れそうになっていた。

 

「――ミーナ」


「はい、坊ちゃま」


「その持ち方はやめて」


 ミーナは立ち止まった。壺を抱えたまま不思議そうに俺を見る。


「持ち方でございますか?」


「抱えないで」


「ですが、落とすといけませんので」


「落とすのはもっと駄目」


「では、抱えた方がよろしいのでは?」


「よろしくない」


「落とすよりは?」


「落とさず、抱えないで」


 ミーナは困った顔をした。

 俺も困っていた。前世の俺は、排泄物入りの壺を運ぶ人を想定していなかった。想定していなかったことが、今、目の前にある。


「坊ちゃま、これは奥廊下の厠へ持っていきます」


「――知ってる」


「穴へ空けて、そのあとに壺を洗います」


「それもなんだか嫌だな。怖い」


「怖いのでございますか」


「ああ、怖い」


「では、どうすれば……?」


 ミーナは壺を少しだけ体から離そうとした。その瞬間、壺がぐらりと揺れた。


「待って! 落とさないで!」


「では、抱えます!」


「抱えないで!」


「では、どう持てばよろしいのでしょうか!」


「俺にも分からない!」


 部屋の中が沈黙した。

 俺は三歳児。

 ミーナは十二歳の見習い侍女。

 その間にあるのは、布をかけられた小さな壺だった。

 俺の人生は、今、壺に支配されている。

 ミーナは慎重に壺を持ち直した。体から少し離して腕だけで支えている。かなりつらそうだった。


「――ごめん」


 思わず謝った。

 ミーナが悪いわけではない。

 壺を運ばなければならないのは分かる。

 壺を落とせないのも分かる。

 抱えた方が楽で安全なのも分かる。

 けれど、それでも無理なものは無理だった。


「坊ちゃまは、壺がお嫌なのですか」


 ミーナは壺を持ったまま少し首をかしげた。


「嫌」


「中身が見えないよう布はかけております」


「見えなければいいわけじゃない」


「左様でございますか」


「その壺が何の壺か、俺は知ってる」


「……はい」


「その壺が服に触れるのが嫌」


「服――でございますか」


「そう。服」


「手は洗ってまいります」


「手じゃない」


 俺は毛布を握った。

 声が少し強くなった。


「服だよ」


 ミーナが黙った。

 俺は続けた。


「手は洗える。でも、前掛けや服に壺が触れても、そのままだろ」


「はい」


「その服で、俺を抱っこするの?」


 ミーナの目が少し大きくなった。

 ようやく、俺の言いたいことが少し届いたらしい。


「朝食の時に椅子へお乗せするから、でございますか」


「そう」


「壺が触れた前掛けで、坊ちゃまを抱いてはいけない」


「そう」


「手を洗っても服が触れたら駄目なのですね」


「そう!」


 俺は思わずうなずいた。


「ミーナが汚いって言ってるんじゃない」


 俺が言うと、ミーナはまた目を丸くした。


「はい?」


「ミーナが悪いんじゃない。壺が悪い。いや、壺も悪くない。壺は必要だし」


 何を言っているんだ、俺は。

 壺の弁護をしている場合ではない。


「悪いのは決まりがないこと」


「決まり、でございますか」


「壺を運ぶ時の服と、俺を抱く時の服が同じなのが駄目」


 ミーナは自分の前掛けをつまんだ。少し考えてから、ゆっくり言った。


「――では、壺を運ぶ時だけ別の前掛けをつければよろしいのでしょうか」


 俺は固まった。

 それだ。

 それでいい。

 いや、それしかない。


「それだ!」


「それ――でございますか」


「壺用の前掛けだよ!」


「壺用……」


 ミーナは小さく繰り返した。

 言葉にすると最悪だった。

 壺用の前掛け。

 人生で聞きたくなかった単語が、また一つ増えた。

 けれど必要だった。

 必要なものは、だいたい名前をつけないと混ざる。

 前世の俺はそれを知っている。

 名前のないものは、誰かが勝手に別のものと同じ扱いにする。


「壺用の前掛けをつける」


「はい」


「そして壺を運ぶ」


「はい」


「終わったら外す」


「はい」


「その前掛けでは俺を抱かない」


「はい」


「食卓に近づかない」


「はい」


「リリアの部屋に入らない」


 リリアの名前を出した瞬間、ミーナの背筋が少し伸びた。


「リリア様の部屋にも――でございますね」


「絶対に駄目」


「承知いたしました」


 ミーナは壺を持ったまま深くうなずこうとして、途中で止まった。

 壺が揺れるからだ。

 賢い。

 今のは賢い。

 俺は少しだけ感心した。

 ミーナは壺を慎重に持ち直す。


「マルタ様に古い前掛けをいただいてまいります」


「――今?」


「この壺を空けて、洗ってからでございます」


「……そうだね」


 順番がある。

 嫌だが順番がある。

 今すぐ前掛けを取りに行ってほしい。

 でも、その間ずっと壺が部屋にあるのも嫌だ。

 先に壺を片づけるしかない。

 俺は寝台の上で膝を抱えた。

 ミーナは壺を抱えすぎないように、けれど落とさないように、ぎこちない姿勢で部屋を出ていった。

 扉が閉まる。

 俺は息を吐いた。部屋の空気が少し軽くなった気がした。

 しばらくして、ミーナが戻ってきた。その後ろから、マルタも来た。手には古びた前掛けが一枚あった。


「……坊ちゃま。こちらを壺用にいたします」


 マルタは前掛けを見せた。


「壺用……」


 俺が言うと、マルタの眉が少し動いた。


「……本当に、その名でよろしいのですか」


「分かりやすいから」


「そうでございますか」


 マルタは諦めた顔をした。

 最近、この顔をよく見る。

 俺のせいだ。

 分かっている。

 前掛けは古かった。

 ところどころ布が薄くなっている。

 洗われてはいる。

 だが、他の前掛けと混ざったら終わる。

 俺は前掛けを見つめた。


「印がいる」


「印でございますか」


「他の前掛けと混ざらないように」


「刺繍でも入れましょうか」


「時間がかかる」


「では、紐を」


 ミーナが言った。


「赤い糸を結んではいかがでしょうか」


 俺はミーナを見た。

 ミーナは少し不安そうに俺を見返している。


「赤なら、すぐ分かります」


「赤か」


「はい。古い糸でよければ裁縫箱にございます」


 赤い糸。

 それはいい。

 目立つ。

 間違えにくい。

 文字が読めなくても分かる。

 俺はうなずいた。


「赤い糸を結ぶ」


 ミーナはほっとしたように息を吐いた。

 すぐに裁縫箱から赤い糸を持ってきて前掛けの紐の根元に結んだ。

 小さな結び目だった。

 ただの糸だ。

 でも、他の前掛けとは違う。

 これなら分かる。

 これなら少なくとも混ざりにくい。

 ミーナは赤い糸のついた前掛けを手に取った。


「壺を運ぶ時だけこちらをつけます」


「うん」


「終わったら外します」


「うん」


「こちらをつけたまま、坊ちゃまを抱きません」


「うん」


「食卓にも近づきません」


「うん」


「リリア様の部屋には入りません」


「絶対にだよ」


「絶対に」


 ミーナは真面目な顔で繰り返した。

 俺は少しだけ肩の力を抜いた。

 通じた。

 また一つだけ、通じた。

 それで全部が解決するわけではない。

 壺はまだ部屋にある。

 誰かが運び、厠へ空け、洗って、また戻してくる。

 考え始めると、いくらでも怖い。

 でも今は、全部を直せない。

 直せないなら、まず境目を作るしかない。

 壺を運ぶ時。

 俺を抱く時。

 食卓へ行く時。

 リリアに近づく時。

 同じ服で全部をつなげない。

 それだけだ。

 それだけなのに、こんなに大変だった。


「前掛けは、どこに置きましょうか」


 ミーナが赤い糸の結ばれた前掛けを見下ろした。


「他のものと混ざらない場所がいい」


「壺のそばの籠では……駄目でしょうか」


 俺は想像した。

 壺のそば。

 籠。

 前掛け。

 あまり置いておきたくない。

 でも、他の衣服や前掛けと混ざるよりはましだった。


「専用の籠なら」


「専用――でございますね」


「壺用前掛け用の籠を置こう」


 言ってから、俺は頭を抱えたくなった。

 壺用前掛け用の籠。言葉がどんどん最悪になっていく。

 ミーナも少しだけ口元を引き結んでいた。

 笑うのを我慢しているのかもしれない。

 笑ってもいい。

 俺だって少し笑いたい。

 でも本気だった。

 本気で必要だった。


「分かりました。籠も分けます」


 ミーナはそう言って、赤い糸のついた前掛けを畳んだ。

 他の前掛けとは別にして、一度部屋を出る。

 戻ってきた時には小さな籠を持っていた。

 籠は、壺から少し離れた壁際に置かれた。

 こうして、その日の朝、俺の部屋には赤い糸の結ばれた古い前掛けが一枚増えた。

 壺を運ぶ時だけ使う前掛けだ。

 ただの布だ。

 けれど俺には、それが汚れたものと清潔にしたいものの間に置かれた、小さな境界線に見えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。