第八話 壺を抱えた服が無理でした
厠に行った翌朝、俺はまた見てしまった。
ミーナが、俺の部屋の小さな壺を運んでいた。
布はかけられている。中身は見えない。けれど、分かる。俺が使った壺だ。
大きい方は昨日、奥廊下の厠で済ませた。だが、小さい方は別だ。三歳の体で昼も夜も間に合うように厠まで行けるわけがない。だから部屋の壺は残る。残る以上、誰かが運ぶ。
今はミーナだった。彼女は壺を胸の前で抱えている。落とさないためだろう。けれど、前掛けが壺の丸い側面に触れそうになっていた。
「――ミーナ」
「はい、坊ちゃま」
「その持ち方はやめて」
ミーナは立ち止まった。壺を抱えたまま不思議そうに俺を見る。
「持ち方でございますか?」
「抱えないで」
「ですが、落とすといけませんので」
「落とすのはもっと駄目」
「では、抱えた方がよろしいのでは?」
「よろしくない」
「落とすよりは?」
「落とさず、抱えないで」
ミーナは困った顔をした。
俺も困っていた。前世の俺は、排泄物入りの壺を運ぶ人を想定していなかった。想定していなかったことが、今、目の前にある。
「坊ちゃま、これは奥廊下の厠へ持っていきます」
「――知ってる」
「穴へ空けて、そのあとに壺を洗います」
「それもなんだか嫌だな。怖い」
「怖いのでございますか」
「ああ、怖い」
「では、どうすれば……?」
ミーナは壺を少しだけ体から離そうとした。その瞬間、壺がぐらりと揺れた。
「待って! 落とさないで!」
「では、抱えます!」
「抱えないで!」
「では、どう持てばよろしいのでしょうか!」
「俺にも分からない!」
部屋の中が沈黙した。
俺は三歳児。
ミーナは十二歳の見習い侍女。
その間にあるのは、布をかけられた小さな壺だった。
俺の人生は、今、壺に支配されている。
ミーナは慎重に壺を持ち直した。体から少し離して腕だけで支えている。かなりつらそうだった。
「――ごめん」
思わず謝った。
ミーナが悪いわけではない。
壺を運ばなければならないのは分かる。
壺を落とせないのも分かる。
抱えた方が楽で安全なのも分かる。
けれど、それでも無理なものは無理だった。
「坊ちゃまは、壺がお嫌なのですか」
ミーナは壺を持ったまま少し首をかしげた。
「嫌」
「中身が見えないよう布はかけております」
「見えなければいいわけじゃない」
「左様でございますか」
「その壺が何の壺か、俺は知ってる」
「……はい」
「その壺が服に触れるのが嫌」
「服――でございますか」
「そう。服」
「手は洗ってまいります」
「手じゃない」
俺は毛布を握った。
声が少し強くなった。
「服だよ」
ミーナが黙った。
俺は続けた。
「手は洗える。でも、前掛けや服に壺が触れても、そのままだろ」
「はい」
「その服で、俺を抱っこするの?」
ミーナの目が少し大きくなった。
ようやく、俺の言いたいことが少し届いたらしい。
「朝食の時に椅子へお乗せするから、でございますか」
「そう」
「壺が触れた前掛けで、坊ちゃまを抱いてはいけない」
「そう」
「手を洗っても服が触れたら駄目なのですね」
「そう!」
俺は思わずうなずいた。
「ミーナが汚いって言ってるんじゃない」
俺が言うと、ミーナはまた目を丸くした。
「はい?」
「ミーナが悪いんじゃない。壺が悪い。いや、壺も悪くない。壺は必要だし」
何を言っているんだ、俺は。
壺の弁護をしている場合ではない。
「悪いのは決まりがないこと」
「決まり、でございますか」
「壺を運ぶ時の服と、俺を抱く時の服が同じなのが駄目」
ミーナは自分の前掛けをつまんだ。少し考えてから、ゆっくり言った。
「――では、壺を運ぶ時だけ別の前掛けをつければよろしいのでしょうか」
俺は固まった。
それだ。
それでいい。
いや、それしかない。
「それだ!」
「それ――でございますか」
「壺用の前掛けだよ!」
「壺用……」
ミーナは小さく繰り返した。
言葉にすると最悪だった。
壺用の前掛け。
人生で聞きたくなかった単語が、また一つ増えた。
けれど必要だった。
必要なものは、だいたい名前をつけないと混ざる。
前世の俺はそれを知っている。
名前のないものは、誰かが勝手に別のものと同じ扱いにする。
「壺用の前掛けをつける」
「はい」
「そして壺を運ぶ」
「はい」
「終わったら外す」
「はい」
「その前掛けでは俺を抱かない」
「はい」
「食卓に近づかない」
「はい」
「リリアの部屋に入らない」
リリアの名前を出した瞬間、ミーナの背筋が少し伸びた。
「リリア様の部屋にも――でございますね」
「絶対に駄目」
「承知いたしました」
ミーナは壺を持ったまま深くうなずこうとして、途中で止まった。
壺が揺れるからだ。
賢い。
今のは賢い。
俺は少しだけ感心した。
ミーナは壺を慎重に持ち直す。
「マルタ様に古い前掛けをいただいてまいります」
「――今?」
「この壺を空けて、洗ってからでございます」
「……そうだね」
順番がある。
嫌だが順番がある。
今すぐ前掛けを取りに行ってほしい。
でも、その間ずっと壺が部屋にあるのも嫌だ。
先に壺を片づけるしかない。
俺は寝台の上で膝を抱えた。
ミーナは壺を抱えすぎないように、けれど落とさないように、ぎこちない姿勢で部屋を出ていった。
扉が閉まる。
俺は息を吐いた。部屋の空気が少し軽くなった気がした。
しばらくして、ミーナが戻ってきた。その後ろから、マルタも来た。手には古びた前掛けが一枚あった。
「……坊ちゃま。こちらを壺用にいたします」
マルタは前掛けを見せた。
「壺用……」
俺が言うと、マルタの眉が少し動いた。
「……本当に、その名でよろしいのですか」
「分かりやすいから」
「そうでございますか」
マルタは諦めた顔をした。
最近、この顔をよく見る。
俺のせいだ。
分かっている。
前掛けは古かった。
ところどころ布が薄くなっている。
洗われてはいる。
だが、他の前掛けと混ざったら終わる。
俺は前掛けを見つめた。
「印がいる」
「印でございますか」
「他の前掛けと混ざらないように」
「刺繍でも入れましょうか」
「時間がかかる」
「では、紐を」
ミーナが言った。
「赤い糸を結んではいかがでしょうか」
俺はミーナを見た。
ミーナは少し不安そうに俺を見返している。
「赤なら、すぐ分かります」
「赤か」
「はい。古い糸でよければ裁縫箱にございます」
赤い糸。
それはいい。
目立つ。
間違えにくい。
文字が読めなくても分かる。
俺はうなずいた。
「赤い糸を結ぶ」
ミーナはほっとしたように息を吐いた。
すぐに裁縫箱から赤い糸を持ってきて前掛けの紐の根元に結んだ。
小さな結び目だった。
ただの糸だ。
でも、他の前掛けとは違う。
これなら分かる。
これなら少なくとも混ざりにくい。
ミーナは赤い糸のついた前掛けを手に取った。
「壺を運ぶ時だけこちらをつけます」
「うん」
「終わったら外します」
「うん」
「こちらをつけたまま、坊ちゃまを抱きません」
「うん」
「食卓にも近づきません」
「うん」
「リリア様の部屋には入りません」
「絶対にだよ」
「絶対に」
ミーナは真面目な顔で繰り返した。
俺は少しだけ肩の力を抜いた。
通じた。
また一つだけ、通じた。
それで全部が解決するわけではない。
壺はまだ部屋にある。
誰かが運び、厠へ空け、洗って、また戻してくる。
考え始めると、いくらでも怖い。
でも今は、全部を直せない。
直せないなら、まず境目を作るしかない。
壺を運ぶ時。
俺を抱く時。
食卓へ行く時。
リリアに近づく時。
同じ服で全部をつなげない。
それだけだ。
それだけなのに、こんなに大変だった。
「前掛けは、どこに置きましょうか」
ミーナが赤い糸の結ばれた前掛けを見下ろした。
「他のものと混ざらない場所がいい」
「壺のそばの籠では……駄目でしょうか」
俺は想像した。
壺のそば。
籠。
前掛け。
あまり置いておきたくない。
でも、他の衣服や前掛けと混ざるよりはましだった。
「専用の籠なら」
「専用――でございますね」
「壺用前掛け用の籠を置こう」
言ってから、俺は頭を抱えたくなった。
壺用前掛け用の籠。言葉がどんどん最悪になっていく。
ミーナも少しだけ口元を引き結んでいた。
笑うのを我慢しているのかもしれない。
笑ってもいい。
俺だって少し笑いたい。
でも本気だった。
本気で必要だった。
「分かりました。籠も分けます」
ミーナはそう言って、赤い糸のついた前掛けを畳んだ。
他の前掛けとは別にして、一度部屋を出る。
戻ってきた時には小さな籠を持っていた。
籠は、壺から少し離れた壁際に置かれた。
こうして、その日の朝、俺の部屋には赤い糸の結ばれた古い前掛けが一枚増えた。
壺を運ぶ時だけ使う前掛けだ。
ただの布だ。
けれど俺には、それが汚れたものと清潔にしたいものの間に置かれた、小さな境界線に見えた。




