第九話 兄上たちが笑ってきました
赤い糸の前掛けができたあと、俺は久しぶりに食事の間へ連れていかれた。
前世の記憶が戻ってから食事はほとんど部屋で取っていた。
水差しも、木の杯も、食具も気になった。
母上はリリアのそばを離れられず、俺も俺で何かを見るたびに騒ぐ。
そんな三歳児をすぐ家族の食卓に戻せるはずがなかった。
食事の間は、家族だけで朝食を取るための部屋だ。客人や領内の有力者を迎える大広間とは違う。壁には、鹿を追う男たちの姿が織られた古い壁掛けが掛かっていた。細長い窓から朝の光が斜めに差している。
中央には厚い木の卓があり、父上の席だけ背もたれの高い椅子になっていた。
兄上たちの席は、それより少し小ぶりな椅子だ。
母上の席は空いていた。産後の体はまだ本調子に戻っていない。今朝もリリアのそばで、粥と薬湯を取ると聞いている。
母上が食事の席にいないのは寂しい。けれど、今はリリアのそばにいてくれる方がいい。
父上は上座にいた。濃い灰色の上着を着て、幅の広い肩を椅子の背に預けている。髪は黒に近い茶色で、短く整えられていた。顎には薄く髭が残っている。
怖い顔だ。
前世の記憶が戻る前のアルノは、たぶん、ただの怖い父だと思っていた。けれど今は少し違う。父上は、俺の言うことを全部信じているわけではない。それでも、リリアの部屋の前に手洗い台を置かせた。話を聞かない人ではない。
父上の右に長兄が座っていた。
八歳だったと思う。俺より五つ上だ。紺色の上着をきちんと着て、襟元の紐まで曲がっていない。父上に似て、背筋がまっすぐだった。
その隣で、次兄が足を揺らしている。
たしか六歳だ。明るい茶色の髪が少し跳ねていた。上着の袖口には、朝の稽古でついたのか、薄く土の跡が残っている。本人は気にした様子がない。けれど、俺は少し気になった。
俺が入ると、兄上たちの目がこちらを向いた。
嫌な予感がした。
子どもの目だ。
何か面白いものを見つけた時の目だった。
食事の間では言葉遣いを崩してはいけない。
三歳のアルノの記憶にも、それは残っていた。兄上たちが相手でも、父上の前ではきちんと話す。食べ物で遊ばない。席で大声を出さない。
前世の記憶が戻った俺には少し面倒だったが、ここではそういうものらしい。
だから俺は、兄上たちにもできるだけ丁寧に話すことにした。
できるだけ、だ。
「――アルノだ」
次兄が言った。
「久しぶりだな」
長兄も言った。
声は普通だった。
でも、口元が少し笑っている。
ミーナが俺を椅子へ乗せようとする。
俺はその前に、彼女の前掛けを見た。
赤い糸はない。
壺用ではない。
よし。
そう思った瞬間、次兄が身を乗り出した。
「――今、何を見た?」
「前掛けです」
「前掛け?」
「壺用じゃないか確認しました」
食事の間の空気が固まった。
次兄の口が開いた。長兄の手も止まった。
父上だけが、何も聞かなかった顔でパンを割っている。
「……つぼよう?」
次兄が聞き返した。
「壺用の前掛けです」
「壺用の前掛けって何だよ」
「壺を運ぶ時だけ使う前掛けです」
「食事の席で言うことか、それ」
「大事なことです」
「何が大事なんだ」
「壺を運んだ前掛けで俺を抱かないことです」
次兄はしばらく俺を見ていた。
それから、卓に額をつけた。
「だめだ。アルノがおかしい」
「前から少し変だったが、だいぶ変になったな」
長兄が真面目な顔で言う。
俺は答えた。
「失礼ですね」
「壺用前掛けの話を食事の席でする弟に、礼儀を求められても困る」
それは少し正しい。
俺は黙った。
黙ったが、間違っているとは思わない。
食事の席に着く前に確認しなければならない話だった。
ミーナは俺を椅子に座らせる。
屈辱だ。
だが、三歳の体では仕方ない。椅子に上がるだけでも足が届かない。けれど、それでも食事だけは自分でする。これは譲れない。
前に一度、ミーナに食べさせてもらったことがある。小さく切ったパンを匙に乗せられて、口元まで運ばれた。
「坊ちゃま、あーんでございます」
ミーナは真面目な顔で言った。
その瞬間、俺の中に残っていた前世の成人男性が死んだ。
静かに。
とても静かに。
尊厳という名の何かが音もなく倒れた。
だから食事だけは自分でする。
俺の前には、小さなナイフと匙が置かれていた。朝、湯に通してもらった俺用の食具だ。
長兄がそれに気づいた。
「それもお前のか」
「俺の……です」
「噂には聞いているが、また湯に通したのか」
「通しました」
「刃物を湯に通してから食うやつがあるか」
「ここに……」
「お前だけだ」
「だから俺用なんです」
次兄がまた笑った。
「ミーナに食べさせてもらえばいいだろ」
「嫌です」
「まだ三つだろ?」
「三つでも嫌です」
「何が嫌なんだ?」
「尊厳が死にます」
次兄が止まった。
長兄も止まった。
二人は顔を見合わせる。
「……そんげん?」
「尊厳です」
「人の名前か?」
「違います」
「じゃあ何だ」
「俺の中にある、最後の大事なものです」
「最後なのか」
「最後です」
「もうだいぶ失ってるな」
「うるさいです」
次兄が笑った。
長兄も口元を押さえている。
「父上、アルノの中の何かが死ぬそうです」
父上はパンを飲み込んでから、俺を見た。
「自分で食うと言うなら、やらせろ」
「こぼしますよ」
「こぼしたら拭け」
父上の声は低かった。
次兄は少し不満そうに口を尖らせた。
三歳の指は短い。力も弱い。パンをちぎろうとしても難しかった。だから俺は小さなナイフを握った。前世の感覚で動かそうとしてもパンはなかなか切れない。皿の上で逃げる。
次兄がにやにやしている。
「ほら、ミーナにやってもらえ」
「嫌です」
「尊厳のためか?」
「尊厳のためです」
「便利な言葉だな」
「便利じゃない。必要な言葉です」
ようやくパンが切れた。
小さい。
不格好だ。
でも自分で切った。
俺はそれを口へ運ぶ。
次兄がわざとらしく手を叩いた。
「アルノがパンを食べた」
「うるさいです」
「父上、アルノが自分でパンを食べました」
「見れば分かる」
「明日は肉も切れるかもしれません」
「黙ってください」
長兄が笑った。
次兄も笑った。
ミーナは後ろで困った顔をしている。
俺は腹が立った。
でも、少しだけ分かっていた。
俺はおかしい。
食事の席で壺用前掛けの話をする。
食具を湯に通させる。
三歳で尊厳と言う。
笑われても仕方ない。
仕方ないが、全部をやめるわけにはいかない。
「笑ってもいいです」
俺が言うと、次兄が目を丸くした。
「いいのか?」
「嫌です」
「どっちだよ」
「嫌です。でも、笑われるのは止められません」
俺はナイフを置いた。
「でも、リリアのことでは笑わないで」
次兄の顔から笑いが少し消えた。
長兄も俺を見る。
「リリアに触る前に手を洗って。使用人は、壺用の前掛けをつけたままリリアの部屋に入らないで。布を床に置かないで」
「多いな」
長兄が言った。
「多いです」
俺は認めた。
「でも、リリアは小さい」
「お前も小さいぞ」
次兄が言う。
「俺より、もっと小さい」
「それはそうだ」
「だから守る」
次兄は口を閉じた。
長兄は父上を見た。
父上はしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「笑うのは構わん。だが、リリアの周りのことは守れ」
食事の間が静かになった。
次兄は少しだけ目をそらす。
「……分かりました」
長兄も頷いた。
「リリアに触る前には手を洗います」
「使用人にも守らせろ」
父上が付け足した。
「壺用の前掛けをつけたまま、リリアの部屋に入れるな」
次兄が顔をしかめる。
「父上まで壺用と言うのですか」
「分かりやすい」
「アルノと同じことを言った」
「分かりやすいものは仕方ない」
父上はそう言って、またパンを割った。
俺は少しだけ口を開けた。
父上が壺用前掛けという言葉を使った。
いや、認めたのかは分からない。
でも、その言葉と決まりはこの場に残った。
次兄はまだ笑っている。
長兄も完全に分かった顔ではない。
それでも、リリアに触る前には手を洗うと言った。
俺は手元のナイフを握り直した。
兄上たちはまだ俺を見て笑っていた。
笑われてもいい。
守られるなら、それでいい。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次話は少し雰囲気の変わる幕間となります。
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