幕間③ ミーナの赤い糸
食事の間を出たあと、ミーナはアルノの部屋へ戻った。
坊ちゃまは、まだ旦那様や上のお坊ちゃま方と食事を続けている。
ミーナが席を離れたのは、坊ちゃまが自分で食べると言い張ったからだ。
匙を持たせ、手拭きの布を近くに置き、水差しの位置を確かめたところでマルタ様に小さく呼ばれた。
『今のうちに、坊ちゃまの部屋を見ておいで。赤い糸も緩んでいないか確かめなさい』
そう言われて、ミーナは下がった。
坊ちゃまは小さなナイフを握ったまま、こちらを見ずに言った。
『大丈夫です。自分で食べます』
その顔が、あまりにも真剣だった。
自分で切ったパンを食べるだけで、あんなに真剣な顔をする三歳児をミーナは初めて見た。
廊下を歩いている間も二番目の坊ちゃまの笑い声が耳に残っていた。
『壺用だってさ』
そう言って笑っていた声。
ミーナは前掛けの裾を指でつまんだ。今つけている前掛けには赤い糸はない。壺用ではない。そう確認してから扉を開ける。
部屋の壁際には、小さな籠が置かれていた。その中に古い前掛けが一枚入っている。紐の根元には赤い糸が結ばれていた。
ミーナは籠の前にしゃがんだ。赤い糸は、結んだ時より少し緩んでいた。
壺を運ぶ時だけ使う前掛け。
終わったら外す前掛け。
坊ちゃまを抱かない前掛け。
食卓に近づけない前掛け。
リリア様の部屋には絶対に入れてはいけない前掛け。
決まりが多い。
とても多い。
正直に言えば面倒だった。
壺を運ぶだけなら、今までは抱えて運び、穴へ空け、壺を洗い、手を洗えば終わりだった。
それで誰にも叱られなかった。マルタ様にも、他の侍女にも、そう教わってきた。けれど坊ちゃまは言った。
手ではない。
服だ、と。
ミーナは赤い糸をほどきかけて指を止めた。昨日の坊ちゃまの顔を思い出す。寝台の上で毛布を握り、眉を寄せていた。怖がっていた。怒っているようにも見えた。けれど、怒鳴られたわけではない。ミーナが汚いと言われたわけでもない。
『ミーナが悪いんじゃない』
坊ちゃまは、そう言った。
壺が悪いわけでもない。
壺は必要だ。
悪いのは決まりがないこと。
ミーナは、その言葉を何度も思い返した。
知らなかったことを責められなかった。
今までやってきたことを汚いと切り捨てられなかった。
ただ、決まりがないと言われた。
それが不思議だった。
ミーナは十二歳だ。
見習い侍女として、この屋敷に入ってまだ長くない。
間違えれば叱られる。
遅ければ叱られる。
水をこぼせば叱られる。
布を取り違えれば叱られる。
叱られないために早く覚える。
叱られないために言われた通りに動く。
それが仕事だと思っていた。
けれど坊ちゃまの決まりは、少し違った。
叱るための決まりではなかった。
誰が何を扱ったのか、分からなくならないための決まりだった。
ミーナは赤い糸を結び直した。細い糸だ。強く引けば切れてしまう。でも、赤い。すぐ分かる。文字が読めない者にも分かる。忙しい朝でも、遠目に見える。
坊ちゃまはそれを聞いて、すぐにうなずいた。
あの時、ミーナは少し嬉しかった。
自分の出した考えが坊ちゃまの役に立ったからだ。
赤い糸を結び終えると指先に小さな跡が残った。
ミーナはその跡を親指でこすった。
ふと、弟のことを思い出した。弟は三つになる前に死んだ。屋敷へ来る前のことだ。
村の小さな家で熱を出した。
母は何度も弟の額を拭き、水を替え、布を絞り、寝かせ、抱き上げた。けれど弟は、朝になる前に息をしなくなった。
大人たちは言った。
弱い子だったのだと。
小さい子は、そういうことがあるのだと。
ミーナもそう思っていた。
そう思うしかなかった。
でも坊ちゃまは、リリア様を見ながら言ったことがある。
『死ななくてよかった子も、いるはずなんだ』
その時、ミーナは返事ができなかった。息が詰まった。弟の顔はもうはっきりとは思い出せない。
丸い頬。
熱で湿った髪。
小さな手。
それくらいしか記憶に残っていない。
けれど、死ななくてよかった子、という言葉だけは指に刺さった棘のように残った。
弟もそうだったのだろうか。
坊ちゃまは、リリア様の部屋の前に手洗い台を置かせた。
布を分けた。
水を煮させた。
壺用の前掛けまで作らせた。
食事の席で上のお坊ちゃま方に笑われても最後には言った。
リリアのことでは笑わないで、と。
ミーナは赤い糸の結び目をもう一度確かめた。
緩んでいない。
これなら、すぐ分かる。
やっぱり楽ではない。
けれど、弟が熱を出したあの夜にも、こんな印がひとつあったなら。
誰が何を拭いた布か。
誰がどこへ行った服か。
どれを赤子のそばへ持っていってはいけないか。
ひとつでも分かる印があったなら。
何かが変わったのだろうか。
ミーナは首を横に振った。
分からないことを考えても弟は戻らない。
赤い糸は、過ぎた日のためのものではない。これから間違えないためのものだ。
ミーナは前掛けを丁寧に畳み直し、籠の中へ入れた。籠の位置も少しだけ直す。壺に近すぎない。けれど、使う時に忘れない場所。坊ちゃまなら、たぶんそう言う。
扉の外から足音がした。
小さな足音ではない。
マルタ様だろう。
ミーナは立ち上がり、前掛けの裾を整えた。
赤い糸の前掛けが入った籠をもう一度だけ見た。
壺用の前掛け。
ミーナも、少しだけ笑いそうになった。
言葉にするとやっぱり変だ。
何度聞いても変だ。
でも、その変な名前の前掛けは、叱られないための印ではなかった。
誰かを守るための印だった。




