第十話 台所が俺を嫌いになりかけました
食事の間で兄上たちに笑われたあと、俺はミーナに連れられて部屋へ戻った。
その途中で、リリアの部屋の前を通る。
扉の横には、作らせたばかりの手洗い台があった。水桶の中身が、ずいぶん減っていた。
「ミーナ」
「はい、坊ちゃま」
「水が少ない」
「はい。朝から何人か入られましたので」
「誰が?」
「マルタ様、イルゼ様、奥様付きの侍女が二人。それから旦那様も」
多い。
思ったより多い。
いや、考えれば当たり前だった。
リリアの部屋には赤ん坊がいる。
母上もいる。
世話をする人が出入りする。
父上だって様子を見に来る。
そのたびに手を洗う。
そう決めたのは俺だ。
水が減るのは、当たり前だった。
「補充しないと」
「はい。台所へ申し伝えます」
ミーナが水桶を運ぼうとした。
「ついでに俺の水も持ってきてくれ」
「承知しました」
そう言いながら、ミーナは少し困った顔をした。
嫌な予感がした。
「やっぱり俺も行く」
「台所へ、でございますか」
「うん」
ミーナはますます困った顔をした。
俺はそのまま、彼女について台所へ向かった。
廊下を進むにつれて、匂いが濃くなる。
焼いた肉。
パン。
灰。
濡れた布。
煙。
煮立つ湯。
いくつもの匂いが重なって、顔に貼り付いた。
「失礼いたします」
ミーナが台所の入口で声をかける。
中にいた女たちがこちらを見た。
一瞬、空気が緊張した。
「リリア様の手洗い台の水が、少なくなっております」
ミーナが言った。
手洗い台の水はただの井戸水ではない。
一度煮て、冷ました水だ。
だから台所へ頼むことになる。
年かさの料理番が顔を上げた。
「またかい。井戸から水を汲んできて!」
「はい!」
「空いている鍋はあるかい!」
「小鍋がひとつだけです!」
「それは奥様の薬湯に使う!」
「リリア様の湯はどうしますか!」
「そっちは火にかけたばかりだよ!」
声が重なった。
俺はその場で固まった。
どうして、こんなに忙しくしているんだ。
そう思ってから、すぐに分かった。
俺だ。
俺が忙しくさせている。
井戸から戻ってきた下働きの娘が、両手で桶を下げて台所へ入ってきた。
水が揺れて、桶の縁から少しこぼれる。
別の女が棚を開け、小鍋を探していた。
「これは空いています!」
「それは昨日、肉を煮た鍋だよ!」
「洗えば使えます!」
「坊ちゃま用なら、洗うだけじゃ駄目なんでしょう!」
その言葉に、台所の空気が一瞬だけこちらを向いた。
俺は何も言えなかった。
俺が言った。
水は煮て。
器は湯に通して。
布は分けて。
手を洗う水もきれいなものにして。
そのたびに、台所は鍋を探し、火を空け、水を汲み、湯を冷ましていた。
炉のそばでは、料理番が薪を押し込んでいた。
火は魔法でついた。
指先に赤い光が灯り、細い枝に移る。
そこまでは早い。
けれど、そこからが長い。
太い薪にはなかなか火が移らない。
白い煙がふくらみ、天井へ流れていく。
料理番が顔をしかめ、火掻き棒で薪の位置を直す。
炎が鍋の底に当たるように、何度も押し込む。
魔法で火はつく。
でも、水はすぐ湯にはならない。
「奥様の薬湯を先に!」
「手洗い台の水はどこで冷ましますか!」
「台を空けな!」
「そこはパンを切るところです!」
台所が動いていた。
俺の言葉で、動かされていた。
俺は一度、台所に来ている。
自分の水を煮てもらうために来た。
火も見た。
鍋も見た。
薪がいることも聞いた。
でも、あの時の俺は自分の水しか見ていなかった。
喉が渇いていた。
水差しが怖かった。
木の杯が怖かった。
井戸水が怖かった。
とにかく、飲める水が欲しかった。
だから、軽く言えた。
水を煮て。
器を湯に通して。
布で拭かないで。
前世なら、それは簡単だった。
蛇口をひねる。
鍋に入れる。
コンロに置く。
火をつける。
沸いたら冷ます。
湯は流しに捨てる。
濡れたものを置く場所も、洗う場所も、乾かす場所もあった。
でも、この世界では違う。
水は井戸から運ばれてくる。
鍋は料理にも薬湯にも使われている。
火は魔法でついても、薪がなければ続かない。
薪は煙を出す。
煙は目にしみる。
鍋の底は煤で黒くなる。
沸いた水を冷ます場所も、空いた台も、すぐには出てこない。
俺は、それを忘れていた。
見ていたはずなのに、自分の怖さでいっぱいになっていた。
「坊ちゃま」
料理番が俺を見た。
「はい」
「水を煮ることで本当にきれいになるのなら、悪いことではございません。ですが、毎回となると台所が止まります。奥様の薬湯、リリア様の湯、坊ちゃまの飲み水、手洗い台の水。布を湯に通す鍋、器を湯に通す鍋。全部、同じ火と鍋を使います」
俺は何も言えなかった。
「鍋は増えません。薪もすぐには増えません。水もここまで歩いては来ません」
その通りだった。
あまりにも、その通りだった。
鍋に井戸水が注がれた。
水面が揺れる。
料理番が薪を火の奥へ押し込む。
別の女が濡れた布を籠へ分ける。
また別の女が、冷ますための台を空けようとして、切った野菜の皿を移している。
ミーナは水桶を抱えたまま、どこへ置けばいいのか分からず立っていた。
俺は、ようやく分かった。
水を煮るのは、一回ならできる。
器を湯に通すのも、一回ならできる。
布を湯に通すのも、一枚ならできる。
でも、それを毎日、何度も、何人分もやるとなると、話が違う。
「じゃあ……毎回じゃなくて」
俺は炉の火を見た。
薪の間から炎が上がり、鍋の底を黒く照らしている。
「朝にまとめて煮たらどうですか」
料理番の眉が動いた。
「まとめて、でございますか」
「うん。煮た水を、蓋のある壺に入れる。手や布は入れない。使う柄杓を決める。古くなったら捨てる」
「冷めた湯を取っておくのですか」
「湯じゃなくて、煮た水として」
「水は、使う時に汲むものです」
「でも、それだと毎回台所が止まるんですよね」
料理番は黙った。
俺は、今度は軽く言わないようにした。
水を煮ることが簡単ではないと、やっと分かったからだ。
「増やすんじゃなくて、減らしたい」
俺は言った。
「毎回沸かす回数を、減らしたい」
料理番はしばらく炉の火を見ていた。
煙が横へ流れ、彼女は少し顔をしかめる。
それから、台所の奥へ目を向けた。
「蓋つきの壺は、いくつかあります」
「使える?」
「漬物や油に使っていないものなら」
「洗って、湯に通して」
「また湯に通すのですね」
「最初だけ。たぶん」
「たぶんでございますか」
「今は、たぶん」
料理番は深く息を吐いた。
嫌そうだった。
でも、ただ嫌そうなだけではなかった。
考えている顔でもあった。
「坊ちゃまのおっしゃることは、分からないところも多くございます。ですが、毎回沸かすよりは、朝にまとめた方がましです」
まし。
その言葉に、俺は少しだけ救われた。
良い、ではない。
正しい、でもない。
まし。
今はそれで十分だった。
「ただし、壺を用意するのも、洗うのも、蓋をするのも、印をつけるのも、誰かがやります。水を捨てるのも、また誰かがやります。手洗い台の水がなくなれば、結局、運ぶ者もいります」
「はい」
俺は一度だけうなずいた。
背中が重くなった。
俺の決まりは、誰かの仕事になる。
そのことを、今さら思い知らされている。
「それと、リリア様の部屋の前の布も増えております。手拭き、台拭き、床に落ちたもの、リリア様用、奥様用。分けるのはよろしい。ですが、洗う時も分けるなら、洗い場にも置き場が要ります」
布。
そうだ。
布も来る。
水だけではない。
手洗い台は、水桶だけでできているわけではない。
受け皿。
布。
台。
汚れた水。
濡れた布。
全部、台所か洗い場に戻ってくる。
「今日は、水の決まりだけにします」
俺が言うと、料理番が少し目を見開いた。
ミーナも同じ顔をしている。
俺はむっとした。
「何ですか」
「いえ」
ミーナが首を振った。
「坊ちゃまが途中で止められたので」
「俺だって止めます」
「はい」
「今、少し疑ったでしょ」
「少しだけ」
「正直ですね」
「申し訳ございません」
ミーナが頭を下げた。
料理番の口元が、ほんの少し動いた。
笑ったのかもしれない。
馬鹿にした笑いではなかった。
ほんの少し、台所の空気が緩んだ。
その時、背後から低い声がした。
「何をしている」
父上だった。
台所の入口に立っている。
台所の女たちが慌てて頭を下げる。
ミーナも下がった。
俺はその場で固まった。
「父上」
「台所まで来ていたのか」
「はい」
「また何か増やしたのか」
言い方。
完全に、俺が厄介ごとを増やす前提だった。
間違っていないのがつらい。
「増やすんじゃなくて、減らしたいです」
父上の目が少し細くなった。
「何をだ」
「水を沸かす回数を」
父上は俺ではなく、料理番を見た。
「どういうことだ」
料理番は手短に説明した。
リリアの部屋の手洗い台の水。
母上の薬湯。
リリアの湯。
俺の飲み水。
布や器を湯に通すための鍋。
そのたびに水を汲み、火を使い、鍋を使い、冷ます場所を使っていること。
父上は黙って聞いていた。
それから俺を見下ろした。
「アルノ」
「はい」
「正しいかどうかではない」
俺は顔を上げた。
「続けられるかどうかだ」
台所の熱の中で、その言葉だけが重く落ちた。
続けられるかどうか。
手を洗え。
水を煮ろ。
布を分けろ。
壺用の前掛けを作れ。
俺は言う。
でも、誰かが毎日やる。
誰かが汲む。
誰かが沸かす。
誰かが冷ます。
誰かが洗う。
誰かが捨てる。
誰かが覚える。
誰かが間違えないようにする。
俺が怖いと言うだけで、その全部が増える。
父上は台所の女たちを見た。
「リリアとエレオノーラを優先しろ」
「はい」
「アルノの分と手洗い台の分は、続けられる形にまとめろ。できない時は後に回せ」
「承知いたしました」
後に回せ。
胸が少し痛んだ。
でも仕方ない。
俺はリリアより小さくない。
母上より弱っていない。
怖くても、待てる時は待たなければならない。
父上は俺を見下ろした。
「台所を止めるな」
「……はい」
「増やすなら、減らすことも考えろ」
「はい」
父上はそれだけ言うと、背を向けた。
去っていく背中は大きかった。
怖い。
でも、話を聞かない人ではない。
そして、俺の都合だけを通す人でもない。
ミーナがそっと俺の横に立った。
「坊ちゃま、お部屋へ戻りましょうか」
「うん」
台所を出る前に、俺は振り返った。
料理番が小さな鍋を火からずらしている。
別の女が、空いた棚を拭いていた。
たぶん、煮た水の壺を置くためだ。
「青い紐でよろしいですか」
料理番が言った。
「え?」
「水用の壺です。赤い糸は壺用の印なのでしょう?」
俺は少しだけ固まった。
壺用。
台所でまで言われた。
人生で聞きたくない言葉が、また広がっている。
「……青でいいです」
「では、青にします」
料理番は淡々と言った。
でも、その口元は少しだけ緩んでいた。
「坊ちゃま」
「はい」
「次に何か増やす時は、先に台所を見てからにしてください」
「……はい」
「見てからなら、少しはましになります」
「少しだけ?」
「少しだけです」
それは褒め言葉ではなかった。
でも、叱られているだけでもなかった。
俺はうなずいた。
「次は、先に見ます」
「お願いいたします」
料理番がそう言うと、台所の奥で誰かが小さく笑った。面倒な坊ちゃまに、少しだけ慣れたような笑いだった。
手間は増えた。
でも、火にかけっぱなしの鍋は減るかもしれない。
何度も台所へ走る回数も減るかもしれない。
それが本当にうまくいくのかは、まだ分からない。
でも、少なくとも今日は分かった。
水を煮ることより、手を洗うことより、難しいものがあった。
それを毎日続けることだった。
そして、続けるためには、俺ひとりで怖がっているだけでは駄目だった。
台所には台所の順番がある。
火の都合がある。
鍋の都合がある。
人の手の都合がある。
俺はそれを一度見ていた。
でも、自分の怖さでいっぱいになって、忘れていた。
次は、見てから決める。
聞いてから決める。
それでも無理なものは無理だと言う。
完璧ではない。
全然、完璧ではない。
けれど、青い紐のついた水用の壺がひとつ増える。
それだけで、明日の台所は今日より少しだけましになるかもしれない。
俺はそう思うことにした。




