第十一話 体を拭くだけでは無理でした
その夜、俺は身体を拭かれていた。
ミーナの手には、湯に通した布がある。
湯気はもうほとんど消えていたが、布はまだ少し温かい。
顔用。
体用。
足用。
床に落ちたものを拭く布ではない。
リリアの部屋で使う布でもない。
ちゃんと分けられている。
今朝の台所を見たあとだと、それだけのことにありがたさを感じられる。
水を汲む人がいる。
湯を沸かす人がいる。
布を通して、絞って、ここまで持ってくる人がいる。
「熱くありませんか?」
「大丈夫だよ」
「――では、今度はお顔を拭きます」
布が額を通り、頬を通り、顎の下へ下りる。
温かい。
悪くはない。
少なくとも、前よりずっとましだ。
用途も分けられている。
順番も守られている。
文句を言うところではない。
そう思った。
思ったのに、首を拭かれたあたりで限界が来た。
耳の後ろ。
腕。
胸。
腹。
脇に近づいたところで、俺は思わず身をよじった。
「くすぐったいですか?」
「――違う」
「痛かったですか?」
「――それも違う」
「では、どうなさいました?」
「……体を洗いたい」
俺がぼそっと言うと、ミーナの手が止まった。
「お体は拭いております」
「拭くのと洗うのは全然違うだろ」
「違うのでございますか?」
「違うに決まっている」
布が汚いわけではない。
ミーナが悪いわけでもない。
むしろ、ちゃんとやってくれている。
だから言いにくい。
でも無理だ。
前世の俺は、毎日風呂に入っていた。
湯船があった。
シャワーがあった。
泡立てて、洗って、流していた。
頭も、首も、脇も、足の指の間も。
全部洗って、全部流してから寝ていた。
毎日、濡れた布で拭く。
この屋敷では、それでも丁寧なことなのだと思う。
手を抜かれているわけではない。
それは分かる。
分かるのに、洗った感じがしない。
「坊ちゃま。それでは、湯浴みになさいますか?」
「湯浴み?」
「――はい。ただ、今夜は湯浴みの日ではございません。今からですと、台所にも申しつけることになります」
俺は一瞬だけ考えた。
この世界には湯浴みはある。
この屋敷にも湯浴み場がある。
桶に湯を張って身体を洗う習慣もある。
そこは、前世で見聞きした中世の暮らしとも大きく外れていない。
中世でも人が身体を洗わなかったわけではない。
ただ、現代の風呂とは違う。
蛇口をひねれば湯が出るわけではない。
浴槽に勝手に湯が溜まるわけでもない。
井戸から水を汲む。
どこかの火で湯を沸かし、桶や壺で運ぶ。
使い終わった湯も捨てる。
全部、人の手がいる。
風呂には入りたい。
ものすごく入りたい。
でも、今ここで言えば、また誰かがきっと走る。
「……今はいい」
「よろしいのですか?」
「よくない。……でも、今はいい」
「どちらでございますか」
「湯浴みの日まで……我慢する」
俺がそう言うと、ミーナは少し考えてからうなずいた。
「承知しました。――では、続きを」
「――待って」
いつも通りは困る。
俺は自分の髪に触れた。
一日分の汗を吸った髪が、指に少しまとわりつく。
身体より、むしろこっちが無理だった。
「湯浴み以外で髪を洗えないかな?」
「髪は湯浴みの時に洗うものです」
それはたしかにそうだ。
この際、水でも、と思った。
けれど水で髪を濡らしただけでは、皮脂が落ちた気がしない。
湯がほしい。
汚れを浮かせるものもほしい。
「ちなみにどういったもので髪を洗うの?」
「どういったもの……とは?」
湯で濡らすだけでは足りない。
前世の知識でも、中世の人間が髪をまったく洗わなかったわけではないはずだ。
灰汁とか、石鹸に近いものとか。
湯だけではなく、汚れを落とすものがあったはずだ。
「泡とか、汚れを落とすものだよ」
ミーナが少し考えた。
「泡……石鹸のことでしょうか。けれど、髪は石鹸ではあまり洗いません。湯浴みの時には薄めた灰汁を使います。香草を入れることもございます。石鹸は、体や布に使うことが多いです」
「――そ、そうか」
俺は絶句した。
頭の中で、朝に見た台所が煙を上げる。
水を煮た。
布を湯に通した。
器を湯に通した。
青い紐まで増えた。
それで――。
石鹸がある。
体や布に使うものがある。
湯浴み場に――。
洗濯場に――。
――ある。
「……坊ちゃま?」
俺はすぐには答えられなかった。
濡れた髪のままミーナを見た。
そして、ようやく呟いた。
「石鹸、あるのかよ」




