第十二話 石鹸があったのに今日は無理でした
「石鹸、あるのかよ」
そう呟いたあと、俺はしばらくミーナを見ていた。
濡れた髪のまま。
身体もまだ半分しか拭かれていない。
湯浴みは諦めた。
今から湯浴み場を使えば、台所も洗い場も動くことになる。
湯を沸かす。
桶を運ぶ。
濡れた布を洗う。
使った湯を捨てる。
今朝の台所を見たあとでは、それを簡単に言えなかった。
だから我慢する。
湯浴みの日まで我慢する。
そう決めた。
決めたはずだった。
「ミーナ」
「はい、坊ちゃま」
「石鹸を見たい」
「今からでございますか」
「今から」
「お体を拭いている途中ですが」
「途中でいい」
「髪も濡れております」
「濡れてるから見たい」
ミーナは困った顔をした。
俺はもっと困っている。
石鹸があると聞いてしまった。
体を洗うものがある。
布を洗うものがある。
それなのに、俺は今、湯に通した布で拭かれているだけだ。
納得できるわけがない。
「マルタ様に確認してまいります」
「お願い」
ミーナは布を置いて部屋を出ていった。
――石鹸。
前世では当たり前に洗面台にあった。
風呂場にもあった。
台所にもあった。
けれど、この世界にはないと思っていた。
中世風の辺境。
井戸水。
薪。
煙の台所。
苔や古布の厠。
そんなものばかり見て、俺は勝手に諦めていた。ないと思い込んでいた。
でも、考えればおかしい。
中世でも石鹸はあったはずだ。
灰汁と油脂。
布を洗うもの。
体を洗うもの。
質に差はある。
高価なものもある。
誰でも好きに使えるわけではない。
それでも、存在しないわけではない。
しばらくして、ミーナが戻ってきた。
後ろにはマルタもいる。
マルタの手には、小さな木皿があった。
その上に、二つの塊が乗っている。
一つは薄い黄土色。
もう一つは灰色がかっている。
どちらも形は不揃いで、前世の石鹸みたいに綺麗な四角ではない。
黄土色の方からは、かすかに草の匂いがした。
灰色の方は、油と灰を混ぜたような匂いがする。
「坊ちゃま。こちらが湯浴み場の石鹸でございます」
マルタが黄土色の方を示した。
「こちらは洗濯場のものです。洗濯場のものは強いので、肌にはあまり使いません」
「二つあるんだ」
「はい。使い道が違います」
「使い道?」
「湯浴み場のものは、お体を洗う時に。洗濯場のものは、布や寝具を洗う時に使います。汚れの強いものには、洗濯場のものを使うことが多いです」
俺は木皿の上を見つめた。
石鹸だ。
前世のものとは違う。
匂いも違う。
形も違う。
たぶん、使い心地も違う。
でも、石鹸だ。
汚れを落とすためのものだ。
この世界にもちゃんとあった。
そう思った瞬間、濡れた髪が急に気になった。
指先にまとわりつく髪。
耳の後ろ。首のあたり。
温かい布で拭かれて、前よりはましになっている。
それは分かる。
でも、石鹸を見てしまったあとでは拭いただけの髪が急に耐えがたくなった。
「……これで髪も洗える?」
俺が聞くと、マルタは少しだけ困った顔をした。
「髪にはあまり使いません」
「どうして?」
「きしみます」
きしむ。
嫌な言葉だった。
でも、今の髪も十分に嫌だった。
「じゃあ、髪は何で洗うの?」
ミーナから聞いたばかりだった。
それでも、実物を前にするともう一度聞かずにはいられなかった。
「湯浴みの時には薄めた灰汁を使うことが多うございます。香草を入れることもございます」
「灰汁……」
「濃すぎれば肌を荒らします。薄すぎれば汚れが落ちません。ですので、髪を洗う時は湯浴み場で加減を見ます」
俺は自分の髪をつまんだ。
濡れた髪が指にまとわりつく。
石鹸がある。
でも髪にはあまり使わない。
髪には灰汁と香草。それらを湯浴み場で加減を見ながら流す。
つまり、髪だけ今ここで洗うこともできない。
また湯浴み場だ。
また台所と洗い場だ。
また現場だった。
俺は黄土色の石鹸を見つめる。
「じゃあ、体は?」
「お体には使います。湯浴み場のものは、そのための石鹸でございます」
「体には使うんだね」
「はい」
体には使う。
髪にはあまり使わない。
布には別の石鹸を使う。
少しずつ、この世界の石鹸の置き場所と使い道が見えてくる。
「――服は?」
「服……でございますか」
「服とか、毛布とか。これで洗ってる?」
「毎回ではございません。ですが、肌着や寝具、汚れが強い布には使います」
「……だからか」
「何がでございますか」
「服と毛布が、思ったより無理じゃなかった理由だよ」
俺は今さら気づいた。
この世界に来てから、布という布に全部叫んでいたわけではない。
肌に触れる服。
寝る時に包まる毛布。
あれは、ただ水で濡らして乾かしているだけではなかったのかもしれない。
洗濯場で、石鹸を使っていた。
俺が知らなかっただけで。
「坊ちゃまは、服や毛布も気になっておいでだったのですか」
マルタは少しだけ眉を上げた。
「気になってないわけがない」
「そうでございましたか」
「そうです」
マルタは小さく息を吐いた。
呆れている。
たぶん呆れている。
でも、俺は悪くない。
いや、少しは悪いかもしれない。
知らなかったのだから。
知らなかったのに、ないと決めつけていたのだから。
「手を洗うときには使わないんだね?」
「……はい。そのようには、あまり使いません」
「なんで?」
「石鹸は、湯浴み場と洗濯場のものですから」
マルタもミーナも、当然のような顔をしていた。
俺は何も言えなかった。
ないのではない。
ある。
ただ、置き場所が違う。
使い道が違う。
手を洗うものではなく、体や布を洗うものとして扱われている。
この世界の人間は、汚れを落とすものを知らないわけではなかった。
服も洗っている。
毛布も洗っている。
体を洗う日もある。
髪を洗うやり方もある。
ただ、それらが赤ん坊に触る前の手順にまでつながっていない。
厠のあとにも、まだつながっていない。
石鹸はあるのに、そこにはない。
「坊ちゃま?」
ミーナが俺を呼んだ。
俺は木皿の上の石鹸を見たまま、やっと口を開いた。
「石鹸をリリアの部屋の前に置きたい」
「リリア様の部屋の前に、でございますか」
「手洗い台に」
マルタの顔が少し厳しくなった。
「坊ちゃま。石鹸は置けば済むものではございません」
「分かってる」
「濡れたまま置けば減ります。誰が管理するかも決めねばなりません。床に落とせば洗い直さねばなりません。湯浴み場の石鹸は数も限られております」
「分かってる」
「本当に分かっておいでですか」
「今朝、台所を見た」
マルタが黙った。
俺も黙った。
今朝の台所。
井戸から水を汲む声。
空いた鍋を探す声。
薪。
煙。
冷ます場所。
俺の一言が、誰かの仕事になる。
それはもう見た。
だから、簡単に置けとは言えない。
でも、置かないのも無理だ。
「全部じゃない」
俺は言った。
「まず、リリアの部屋の前だけ。小さいのを一つ。ちゃんと置く皿も決める。水に浸けない。落としたら使わない。減ったら、勝手に足さない」
「……勝手に足さない」
「うん。置くのはマルタに言ってからだ」
マルタは木皿の石鹸を見た。
それから俺を見る。
「旦那様に確認が必要です」
「父上に?」
「はい。湯浴み場の石鹸をリリア様の部屋の前へ移すのであれば、旦那様の許可がいります」
「分かった」
「ーーそれでは明日、お尋ねください」
「どうして?」
「今夜はもう寝る時間です」
「――今、そこにあるのに?」
「ここにあってもです」
俺は寝台の上で濡れた髪を握った。
石鹸が目の前にある。
あるのに、手洗い台には行かない。
今日も俺には使われない。
無理だ。
かなり無理だ。
けれど、今朝の台所を思い出すと押し切ることもできなかった。
「明日、父上に聞く。手洗い台に石鹸を置けるか」
「はい」
「あと、俺の体を拭く布は石鹸で洗える?」
「それは洗濯場に確認いたします」
「洗濯場に?」
「布を洗うのは洗濯場でございます」
「洗濯場……」
台所の次は洗濯場。
水を煮るだけでは終わらない。
布を洗うだけでも終わらない。
置く場所。
乾かす場所。
分ける籠。
誰が見るか。
続けられるか。
俺は石鹸を見た。
小さな塊だ。
前世なら、洗面台に置いてあって当然のもの。
この世界では、湯浴み場と洗濯場に置かれているもの。
あるのに、俺の必要な場所にはまだないもの。
「坊ちゃま」
ミーナが温かい布を持ち直した。
「今日は、続きを拭いてもよろしいですか。明日まで我慢できるようによくお拭きいたします」
俺は濡れた髪をつまんだ。
指にまとわりつく。
かなり嫌だ。
でも、明日になれば父上に聞ける。
洗濯場にも聞ける。
湯浴みのことも、もう一度聞ける。
そう思えば、ほんの少しだけ耐えられる気がした。
「――分かった」
「ありがとうございます」
「でも、髪は多めに拭いて」
「はい」
「耳の後ろも」
「はい」
「首も」
「はい」
「手は特に」
「はい」
ミーナが真面目にうなずく。
この世界には、この世界の置き場所と使い道がある。
それは分かる。
分かるのに、納得できなかった。
リリアに触る前に手を洗う場所がある。
でも、石鹸はない。
あるのに――。
ミーナが温かい布で俺の髪を拭く。
泡はない。
湯で流せもしない。
けれど、石鹸はあった。
この世界には最初からあった。
問題はそれをどこに置くかだった。
石鹸は、木皿ごとマルタの手に戻り、部屋から出ていく。
俺は濡れた髪のままそれを見送るしかなかった。
「あるなら、そこにいてくれよ……」
口から漏れた声に、ミーナが少しだけくすりと笑った。




