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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、いつの間にか衛生改革になっていました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一章 小さな手洗い台

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第十三話 石鹸を置くにも許可が必要でした

 翌朝、俺は父上の書斎の前にいた。

 隣にはミーナがいる。

 少し離れてマルタも控えていた。

 昨夜、石鹸は部屋から出ていった。

 湯浴み場のもの。

 洗濯場のもの。

 体を洗うもの。

 布を洗うもの。

 この世界には、石鹸があった。

 けれど、リリアの部屋の前の手洗い台にはなかった。

 だから今日は父上に聞く。

 勝手には置かない。

 置きたいから置く――では、たぶん駄目だ。

 石鹸を置けば、それで終わりではない。

 使えば小さくなる。

 濡れたままなら早く減る。

 床に落ちたら、そのまま戻していいのかも決めなければならない。

 なくなったら誰かが新しいものを用意しなければならない。

 誰に使わせるのかも決めなければならない。

 使わなかった人をリリアの部屋に入れていいのかも決めなければならない。

 そこまで決めずに置けば、きっと誰かが困る。

 そして最後には、俺が一番騒ぐ。


「坊ちゃま。今日は泣いたり、叫んだりしないでくださいね」


 ミーナが小さく声をかけた。


「泣かないし、叫ばないよ」


「床にも座り込まないでくださいね」


「座り込まないよ」


「本当でございますか」


「――たぶん」


「たぶん」


 ミーナが小さく繰り返した。

 信用がない。

 正しい。

 三歳児の体は感情の制御が難しい。気持ちが昂ってくると、どうしても涙が出たり、叫んだりしてしまう。

 ミーナが扉を叩いた。

 中から父上の低い声が返ってくる。

 俺たちは書斎に入った。


 父上は机の前に座っていた。

 書類が何枚も広げられている。

 窓から入る朝の光が、紙の端を白く照らしていた。

 父上は顔を上げる。相変わらず怖い顔だった。でも、今はもう、ただ怖いだけの顔には見えない。


「――何だ?」


「お願いがあります」


「また何か増やすのか」


 言い方。

 完全に、俺が何かを増やす前提だった。

 間違っていないのがつらい。


「増えます」


 父上の眉が少し動いた。


「正直だな」


「でも、リリアの周りだけです」


「今度は何だ?」


「石鹸を置きたいです」


 父上はすぐには答えなかった。

 俺を見た。

 ミーナを見た。

 マルタを見た。

 それから、机の上に置いていた羽根ペンを置いた。


「――どこにだ?」


「リリアの部屋の前の手洗い台に」


「何のために?」


「リリアに触る前に石鹸で手を洗うためです」


「水だけでは足りぬのか」


「水だけより石鹸を使った方がいいです」


「――なぜだ?」


 俺は少し言葉に詰まった。

 前世では、それは当たり前だった。

 赤ん坊に触る前には手を洗う。

 できれば石鹸で洗う。

 手には目に見える泥だけではなく、見えない汚れがつく。前世では、それを菌と呼んでいた。俺は医者ではない。石鹸で何がどれだけ落ちるかをここで細かく説明できるわけではない。でも、知っている。水だけより石鹸を使った方がいい。特に、赤ん坊に触る前は。


「手には、見えない汚れがつきます。水だけでは落ちにくいものもある。石鹸を使った方が、ましになります」


「まし……か」


「はい」


 父上は少しだけ黙った。

 それから言った。


「どの石鹸を使う?」


「湯浴み場の――体に使う石鹸です」


「洗濯場のものでは駄目なのか」


「洗う力が強すぎると手が荒れるかもしれません」


「手を荒らしてまで洗うのでは意味がないな」


「はい」


 父上はマルタを見る。


「実際にそうなのか?」


「はい。洗濯場のものは、布や寝具の汚れに使います。手洗い台に置くのであれば湯浴み場の体用を小さく切る方がよろしいかと存じます」


「小さく切る?」


「大きいまま置けば減りが早く、落とした時にも困ります」


 父上は俺へ視線を戻した。


「置き場所は?」


「――手洗い台です」


「台のどこだ? 水桶の横か。布の横か。受け皿の上か」


「……水がたまらないところがいいです」


「そんな場所があるのか」


 ない。

 今はない。

 普通の皿に置けば水がたまる。水がたまれば石鹸が溶ける。ぬるぬるになる。手で取るのも嫌になる。

 俺は前世の洗面台を思い出した。

 白い石鹸置き。

 穴の開いた皿。

 細い溝。

 水が下へ落ちる形。

 石鹸が底にべったりつかないようになっていた。


「水が下に逃げる形がいいです」


「――ほう?」


「穴がある皿。溝がある皿。細い棒みたいなものを何本か渡して、その上に石鹸を置く形でもいい。石鹸を皿の底に直接つけない。下に落ちた水は、別の皿で受ける」


 父上が黙った。

 マルタも少し考える顔になった。


「穴のある皿か」


「はい」


「今すぐ用意できるのか?」


「……分かりません」


 俺は正直に答えた。

 前世では当たり前にあった。

 でも、この屋敷のことはよく知らない。


「ではどうする?」


「なかった場合は、今は……代わりでいいです」


「代わり?」


「欠けた陶器のかけらを二つ置く。その上に石鹸を乗せる。下に小皿を置く。石鹸が水に沈まなければいい」


 マルタが少し目を細めた。


「陶片を渡す――ということですか」


「うん。木だと水を吸いそうだから嫌です。できれば陶器。石でもいいけど、洗いやすいものがいい」


「欠けた陶器であれば、洗い場にございます。鋭いところを落として、湯に通してから使えばひとまずは――」


「ひとまず、か」


 父上が言った。


「正式なものは、陶工に頼めば作れるかと存じます。穴か溝のある小皿であればそれほど難しくはないかと」


 父上が俺を見る。


「――また増えたな」


「皿だけです」


「皿と受け皿と陶片だ」


「……増えました」


「正直だな」


 後ろでミーナが小さく息を止めた。

 笑ったのかもしれない。

 俺は振り返らなかった。


「誰が管理する?」


 父上が聞いた。


「マルタに言ってから置きます」


「置いた後だ。誰が減ったことに気づく? 誰が補充する? 誰が落ちた時の対処をする?」


 答えられない。

 勝手に足さない。

 それだけでは足りなかった。

 誰が見るかを決めなければ結局誰も見ない。


「――当面は私が見ます」


 マルタが言った。


「ミーナにも覚えさせます。朝と夕に、石鹸の大きさと置き場所を確認いたします。落ちたものは戻さず、別にいたします」


「別にしたものはどうする?」


「洗濯場に確認いたします。手洗いには戻しません」


 父上はミーナを見た。


「できるか?」


 背後で、ミーナの背筋がぴんと伸びた気がした。


「――覚えます」


「覚えるだけでは足りん。忘れるな」


「はい」


 ミーナの声が少し硬くなった。

 またミーナの仕事が増える。

 申し訳ない。


「使う者はどうする?」


 父上が続けた。


「リリアに触る人に使ってほしい」


「部屋に入るだけの者は?」


 俺は止まった。

 本当は、全員に使ってほしい。

 部屋に入るなら全員。

 できれば屋敷中。

 厠のあとも。

 台所の前も。

 食事の前も。

 全部。

 そう思う。

 でも、石鹸は無限ではない。

 水も人手も無限ではない。

 台所も洗い場も、俺のためだけにあるわけではない。


「……まずは、リリアに触る人だけ」


 俺は言った。


「まずは……か。広げる気だな」


「今は広げません」


「そうか」


 父上は重く息を吐いた。

 でも、話を切らなかった。


「マルタ」


「はい」


「お前の考えは――?」


「リリア様に触れる者。奥様の体に触れる者。布を替える者。その範囲から始めるのがよろしいかと存じます。部屋に入るだけの者まで広げますと、石鹸の減りが早くなります」


「入るだけなら水でよいと?」


「今は――でございます」


 マルタも今はと言った。

 俺は少しだけマルタを見た。

 マルタは俺を見なかった。


「まずは、リリアの周りだけだ。屋敷中には広げるな」


「はい」


「石鹸を切るのも、置くのも、補充するのも、マルタが決めろ。ミーナはその通りに動け。台所を止めるな。洗い場も混乱させるな」


「かしこまりました」


「はい」


 マルタとミーナが頭を下げた。

 父上は最後に俺を見た。


「アルノ」


「はい」


「――許す」


 俺は息を止めた。


「本当ですか」


「ただし、リリアの周りだけだ。使う者も限る。減りすぎるようなら止める」


「はい」


「それから、騒ぐ前にマルタへ言え」


「……はい」


「今、嫌そうな顔をしたな」


「してません。……いえ、少しだけです」


「正直だな」


 父上はそう言って、また書類へ目を落とした。

 話は終わりらしい。


 俺たちは書斎を出た。

 廊下へ出た瞬間、ミーナが小さく息を吐いた。


「よかったですね、坊ちゃま」


「うん」


 よかった。

 本当によかった。

 でも、同時に疲れた。

 石鹸を置くだけでこんなに考えることがある。

 どれを使うか。

 どこに置くか。

 誰が使うか。

 誰が管理するか。

 減ったらどうするか。

 落ちたらどうするか。

 水がたまらないようにするにはどうするか。

 リリアの周りだけにするにはどうするか。

 前世では、洗面台の横に石鹸があるのは当たり前だった。

 この世界では、当たり前の場所に置くために許可と手順が必要だった。


 その日のうちに、リリアの部屋の前の手洗い台に小さな受け皿が置かれた。

 その上に、湯に通した陶片が二つ。

 二つの陶片の上に小さく切られた石鹸が一つ乗っている。

 石鹸は皿の底に触れていない。

 下に水が落ちる。

 落ちた水は受け皿にたまる。

 前世の石鹸置きとは全然違う。

 不格好だ。

 小さくて頼りない。

 でも、意味は同じだった。

 石鹸を水に沈めない。

 使ったあとも、そこに戻せるようにする。

 それだけのための場所だ。

 水桶。

 受け皿。

 青い紐の水用壺。

 湯に通して乾かした布。

 そして、小さな石鹸。

 水だけだった手洗い台が、少しだけ前世の記憶に近づいた。

 ミーナが石鹸を見つめる。


「これで、また一つ増えましたね」


「うん」


「でも、今回は先に決めました」


「うん」


「少し……ましですね」


「少しだけ?」


「少しだけです」


 ミーナは真面目な顔で言った。

 俺はうなずいた。

 少しだけ。

 それでいい。

 勝手に置かなかった。

 先に聞いて先に決めた。

 それだけで前よりはましだった。

 リリアの部屋の前で石鹸は小さく置かれていた。

 俺はそれを見て、ようやく少し息を吐いた。

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