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潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、いつの間にか衛生改革になっていました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一章 小さな手洗い台

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第十四話 湯浴み場に行けたのに無理でした

 石鹸を手洗い台に置いた日の夕方、俺は湯浴み場へ連れていかれることになった。

 昨日からずっと身体を洗いたかった。

 湯に通した布で拭いてもらうのは前よりずっとましだったが、それでも拭くのと洗うのは違う。

 髪も首も耳の後ろも気になったままだった。

 けれど昨夜は我慢した。湯浴み場を使うには、台所も洗い場も動くことになる。

 湯を沸かす人がいる。

 桶を運ぶ人がいる。

 使った布を洗う人がいる。

 俺が無理だと叫べば誰かの仕事が増える。

 それをもう知っていた。

 だから今日は先に聞いた。

 父上に聞き、マルタが台所と洗い場に伝え、湯を用意できる時間を決めた。

 湯浴み場を使えるのは夕方になってからだった。


「坊ちゃま、本日は湯浴みでございます」


 ミーナがそう言った時、俺は少しだけ期待した。

 前世の記憶が勝手に浴室を作り始める。

 白い床。

 蛇口。

 シャワー。

 浴槽。

 湯気。

 泡。

 流れる水。

 排水口。

 全部が頭の中に出てきた。

 そして、湯浴み場を見た瞬間に消えた。

 愚かだった。

 ここはヴァイスベルクの屋敷だ。山の水を汲み、薪で湯を沸かす土地だ。前世の風呂があるわけがない。屋敷の奥にある湯浴み場を前にして、俺は呆然とした。

 床は青灰色の板石だった。

 きれいに水で流されている。

 汚れているわけではない。

 けれど濡れた石は暗く、継ぎ目も黒く沈んで見えた。

 白くない。

 それだけで、少しつらい。

 足裏に石の冷たさが伝わった。ひやりとする。湯気はあるのに床は冷たい。そのちぐはぐさが余計に落ち着かない。

 壁は木だった。古い板が並んでいる。よく拭かれてはいるのだと思う。変な臭いもしない。むしろ湯と木と灰の匂いが混ざっているだけだ。それでも前世の浴室とは違いすぎた。

 部屋の中央には大きな桶があった。いや、桶というより半分に切った樽に近い。その中に湯が張られている。肩まで浸かれる深さではない。俺なら入れなくもないかもしれない。でも大人が入るものではなさそうだ。

 浸かるための湯ではない。

 使うための湯だ。

 そばには小さな桶が二つと柄杓(ひしゃく)が一本あった。

 さらに布を入れる籠、石鹸を置いた木皿、灰汁の入った壺と山香草を入れた皿が置かれていた。

 物は多くない。

 むしろ必要なものだけが並んでいる。

 だからこそ目につく。

 どれを誰が使ったのか。

 どこまで洗われているのか。

 どこからが俺用なのか。

 考え始めると止まらない。


「坊ちゃま。こちらへ」


 ミーナは、湯浴み場用の前掛けをつけていた。

 白ではない。生成(きな)りの厚い亜麻布(リネン)だ。袖は肘の上までまくり、細い紐で留めてある。その下には灰茶色の長衣。髪は頭布の中に収められ、いつも頬の横に落ちている細い髪も見えない。飾りはない。全部、濡れても動けるための格好だった。

 ちゃんとしている。

 仕事のための姿だ。

 それは分かる。

 でも、俺だけが裸だった。

 俺は服を脱がされ、乾いた布を肩に掛けられた。

 三歳児なので仕方ない。

 仕方ないが、仕方ないで済ませていい話ではない。


「湯浴みは尊厳を削る行為だったのか」


「何をおっしゃってるんですか。湯浴みは清潔にする行為でございます」


「言い方でごまかしてる」


「ごまかしておりません」


 ミーナは真面目な顔だった。

 真面目だから余計につらい。


「さあ、坊ちゃま。こちらへお座りください」


 示されたのは小さな腰掛けだった。

 木でできている。湯をかけられたせいで色が濃くなっていた。汚れてはいない。ぬめってもいない。けれど木目の間に何かが残ってそうで怖い。


「この腰掛けは?」


「坊ちゃま用にあらかじめ洗っております」


「――前に誰か使ったの?」


「みなさんお使いになられます」


「聞くんじゃなかった」


「お聞きになりましたので」


 正しい。

 俺が聞いた。

 俺が悪い。

 でも聞かずにはいられなかった。


「座るしかないんだよね」


「はい」


「立ったままは?」


「滑ります」


「床に直接は?」


「冷えます。それに床と腰掛けのどちらが綺麗に思いますか」


「――詰んだ」


「座ってください」


 ミーナは真面目だった。

 俺は負けた。

 腰掛けに座る。足の裏に石の冷たさが戻ってくる。

 湯気はある。

 湯もある。

 なのに下から冷える。

 前世の風呂ではありえない。

 

「先に髪を洗いますか?」


「うん。髪からお願い」


 即答した。

 昨日からずっと気になっている。

 頭。

 耳の後ろ。

 首のあたり。

 布で拭いてもらっても足りなかった場所だ。


「昨日、言っていた灰汁?」


「はい。薄めた灰汁と山香草を使います」


 ミーナが小さな壺を見せた。

 中には薄く濁った水が入っていた。


「何の灰?」


「よく乾いた木灰でございます。水に浸して上の澄んだところを取りました」


「それを薄めた?」


「はい」


 前世の知識から自然と言葉が浮かぶ。

 アルカリ性。

 三歳児が言う言葉ではない。

 だから言わない。

 言っても通じない。


「濃くない?」


「坊ちゃまの髪に使うものです。濃いものは使いません」


「本当に?」


「本当にでございます」


 信用したい。

 でも灰汁という時点で怖い。


「山香草というのは?」


「こちらです」


 木皿の上に湿らせた細い葉があった。

 青く乾いた匂いがする。その奥に花のような甘い香りが少しだけ混じっていた。前世で嗅いだラベンダーに少し似ている。嫌な匂いではない。むしろ少し安心する。


「自分で洗う」


 俺が言うとミーナはすぐに首を横に振った。


「危のうございます」


「髪くらい洗える」


「桶から湯を流すと床が滑りやすくなります。それに灰汁が目に入りますよ」


「入らないよ」


「坊ちゃまはまだ三歳でございます」


「知ってる」


「手も小さくてございます」


「それも知ってる」


「ではお任せください」


「知っていることと納得することは別だよ」


 ミーナは少しだけ困った顔をした。

 俺も困っている。

 前世なら自分で洗えた。

 髪を濡らす。

 泡立てる。

 頭皮を洗う。

 流す。

 それだけのことだ。

 たしかに三歳児の腕では後頭部には届きにくい。けれど、尊厳というものがある。


「できるところだけ自分でするよ」


「できるところだけでございますね」


「全部ミーナに洗われると俺の尊厳にかかわる」


「では尊厳が残る範囲でお手伝いいたします」


「絶対に残して」


「できるだけは」


「できるだけか」


「できるだけです」


 不安な言葉だった。

 ミーナが柄杓で湯をすくった。

 少しずつ髪にかけられ、頭に温かさが広がる。

 そこだけは悪くない。一瞬だけ前世のシャワーを思い出した。髪を伝い、首を伝い、床へ落ちる。


「目を閉じてください」


「――閉じてる」


 薄めた灰汁が髪に触れた。

 ミーナの指が頭皮をなぞる。

 山香草の匂いが近くなる。

 青い草の匂い。

 花に似た甘い匂い。

 匂いだけなら悪くない。

 頭皮も少しすっとした。

 汗が浮いていく感じがある。


「しみませんか?」


「しみない」


「痛みは?」


「――ない」


「では流します」


 湯がかけられる。

 灰汁が流れていくと山香草の匂いだけが少し残った。

 頭皮はさっぱりした。

 それは確かだった。

 確かだったのに、指を通した瞬間、俺は固まった。

 きしきしする。

 髪がきしきしする。

 灰汁で洗っても同じだった。

 汗は落ちた気がする。

 頭皮もましになった。

 でも髪が終わった。

 髪を守るためにはシャンプーとリンスが必要だと痛感した。

 指が引っかかる。

 細い髪がきしむ。

 俺の何かもきしむ。


「坊ちゃま?」


「髪が死んだ」


「死んではおりません」


「……死んだ」


「洗っただけでございます」


「洗った結果、死んだ」


「生きております」


「髪は生きてない」


「では死んでもおりません」


 正論だった。

 正論だったが今ほしい言葉ではなかった。


「次はお体を洗います」


 ミーナが湯浴み場の石鹸を手に取った。

 昨日見た黄土色の石鹸だ。濡らした布にこすりつけると、小さく泡が立つ。


「そこは自分でやる」


「どこでございますか」


「できるところだよ」


「では、お腹のあたりをお願いいたします」


「脇は?」


「お手伝いいたします」


「背中は?」


「もちろんお手伝いいたします」


「足は?」


「お手伝いいたします」


「尊厳が残る場所……少なくない?」


「お腹がございます」


「お腹だけか」


「お腹から始めましょう」


 ミーナは真面目な顔で言った。

 俺は布を受け取る。

 小さな手で握り、腹をこすった。

 泡が薄く伸びる。

 思ったより力が入らない。

 布もすぐずれる。石鹸の泡は前世のものみたいに増えない。腹を洗うだけで、もう怪しい。ミーナに布を渡してまた泡立ててもらう。

 これで全身は無理だ。

 三歳児の腕は短い。

 背中には届かない。

 首の後ろも怪しい。

 足の指の間なんて、片足を上げた瞬間に滑る未来しか見えない。

 桶。

 石の床。

 石鹸。

 全部、俺を転ばせに来ている。


「……ミーナ、続きをお願いします」


「はい」


 負けた。

 完全に負けた。

 ミーナは勝ち誇らなかった。

 それだけが救いだった。

 首を洗われる。

 腕を洗われる。

 胸と腹を洗われる。

 脇に布が入ったところで、俺は少しだけ固まった。


「くすぐったいですか?」


「違う」


「では痛いですか?」


「違う」


「では?」


「尊厳が減ってる」


「清潔になっております」


「同時に減ってる」


「そうでございますか」


 ミーナは真面目に受け止めた。

 受け止めないでほしかった。

 それでも石鹸の泡が肌を通る感覚は悪くなかった。

 昨日までの布拭きとは違う。

 ただ温かい布で汗を取るだけではない。

 泡が肌を滑り、湯で流されていく。

 首の後ろ。

 耳の下。

 腕の内側。

 指の間。

 気になっていた場所が一つずつ洗われていく。

 俺は天井を見た。

 湯気で少し白くぼやけている。

 何も考えないことにした。


「坊ちゃま」


「なに?」


「終わりました」


 ミーナが柄杓で湯をかけた。

 泡が流れる。

 足元を白っぽい水が通り、青灰色の床を伝って溝へ向かう。

 見ないようにした。

 でも俺は見た。見てしまった。

 石鹸も灰汁も俺の汚れも、同じ溝へ流れていく。

 そして壁の下へ消える。

 どこへ行くのか。

 どこに捨てられるのか。

 知る必要はある。

 いつかは。

 でも今ではない。

 今聞いたら、湯浴みどころではなくなる。

 だから今は体が洗えたことだけに満足しておく。

 乾いた布で体を包まれ、別の布で髪を押さえられる。

 湯浴み場は前世の風呂ではなかった。

 桶も床も排水も気になる。

 灰汁は少し怖い。

 道具の使い回しも全部気になる。

 それでも体は洗えた。

 そこだけは認めるしかない。


「いかがですか、坊ちゃま」


 俺は乾いた布に包まれたまま、しばらく黙った。

 綺麗になった。

 たぶん。

 体は。

 頭皮も。

 前よりはずっと。

 でも、指先に触れる髪はきしきししている。


「綺麗になったはずなのに、髪が死んだ」


 俺は小さく息を吐いて呟いた。

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