第十五話 洗濯場が重すぎました
湯浴みの翌朝、俺はリリアの部屋へ行くつもりだった。
手洗い台に石鹸を置き、壺用の前掛けも分けた。
これでようやく俺も妹に触れられる。
そう思っていた。
けれど廊下へ出たところで、ミーナが大きな籠を抱えているのを見た。
籠の中には布が詰まっていた。昨日の湯浴みに使ったものだ。体を洗った布。髪を押さえた布。足を拭いた布。湯浴み場の床を拭いた布。壺用前掛けも小さく丸められている。
そのどれもが、俺が無理だと言ったあとに増えた布だった。
「ミーナ。それ、全部洗うの?」
「はい。洗濯場へ持ってまいります」
ミーナは当たり前のように言った。見るだけで重そうだった。
「……俺も行く」
「洗濯場へでございますか?」
「うん」
「それではこちらへ」
洗濯場は屋敷の裏手にあった。ぱっと見て、前世のキャンプ場にあった炊事場を思い出した。ただし蛇口はない。あるのは横に長い石の洗い台と、水を逃がすための細い溝と、その前に並んだ大きな木桶だった。
訊いたら、桶は用途ごとに分かれているそうだ。最初に汚れを落とす桶。石鹸で洗う桶。灰汁を薄める桶。すすぎの桶。どれも三歳の俺なら落ちたら出られないくらい深い。
井戸から水が運ばれてくる。二人がかりで桶を持ち上げ、大きな木桶へ注ぐ。水面が揺れ、沈んでいた布がゆっくり浮いた。
水を吸った布は別物みたいに重そうだった。女たちは両腕でそれを持ち上げ、石の洗い台へ落とす。跳ねた水が彼女たちの前掛けを濡らした。
布を揉み、石鹸をこすりつける人がいる。
灰汁の桶へと沈める人がいる。
すすぎの桶へ移す人がいる。
最後に、絞った布を干し場へ運ぶ人がいる。
同じ場所にいるのに誰も同じことをしていない。
洗い台の端から汚れた水が溝へ流れていた。灰色の水。泡の混じった水。布からとれた泥を含んだ水。それらが足元を通って外へ消えていく。
自然と目が追ってしまい、その先が気になったが、ミーナの小声が耳元でした。
「あちらがダリアさんです」
洗濯場を任されているのはダリアという年配の女らしい。
「……今日も多いの?」
俺はミーナについて、洗濯場の端を歩いた。
水の跳ねる場所を避けながらダリアのそばまで行く。皆の視線が一瞬、こちらに向いたがすぐに洗濯ものに戻る。この視線は見覚えがある。台所で感じたものだ。
「最近の洗濯日はこのくらいでございます。毎日洗うものもございますが、大きな布や数の多いものはまとめます。その方が水も石鹸も無駄になりませんので」
まとめ洗い。
前世なら洗濯機があった。ボタンを押せば水が入り、洗われ、すすがれ、勝手に止まった。ここにはない。水を汲んで運ぶ。そして桶に入れる。布を沈めてからは揉んで、叩いて、すすぐ。最後に絞ってから干す。全部、人の手だ。
俺が布を分ければ清潔になる。それは間違っていない。でも分けた布は誰かが洗う。俺が一枚増やすたびに、誰かが水を汲み、誰かが濡れて重くなった布を持ち上げる。
俺は大桶を見た。昨日の湯浴みの湯が頭をよぎった。前世には風呂の残り湯を洗濯に使う人がいた。知り合いにもいた。そういう使い方があることは知っている。
風呂に入ったあとの湯で服を洗うという発想は、できれば人生から削除したいが。
そこまで考えてすぐに駄目だと思った。湯浴み場から洗濯場まで誰が運ぶんだ。桶に入れて運ぶなら井戸から運ぶのと同じだ。むしろ湯をこぼしたら床が濡れる。余計に面倒になる。
申し訳ないと思った。
水がここで出ればいいのに。
火はすぐについた。台所で見た魔法だ。小さな火を出して薪へ移す。火はそれでよかった。
水を出す魔法があることも知っている。問題は品質だ。魔法の水は術者の能力が低ければ濁る。この時の俺はこの領地の外の事情までは知らなかったが、あとで聞いた話では澄んだ水を出せるのは王都でも一部だけらしい。
「……魔法の水は使わないの?」
目の前では何度も井戸水が運ばれていた。
見かねてつい俺は訊いてしまった。
洗濯場の手が少し止まる。一斉に見られた気がした。そんなことも知らないのか、と。三歳児に厳しいなと思ったが、原因は俺にある。
「以前、試したことはございます。井戸水を運ぶ手間を減らせないかと思いまして。ですが、布がくすみました。匂いも少し残りましたのでそれ以来使っておりません」
ダリアが濡れた手を前掛けで拭きながら答えた。
なるほど。
思いつかなかったわけではないのだ。
水を運ぶ手間を減らしたいと思った者は、ここにもいた。濁った魔法の水を洗濯に使い、布がくすみ、匂いが残り、駄目だと判断した。
それは正しい。
俺だって、濁った水で洗った布など使いたくない。
できれば話を聞いただけで距離を取りたい。
でも、ひとつ引っかかった。
「そのまま使ったの?」
「そのまま――でございますか」
「うん。魔法で出した水をそのまま桶に入れて洗ったの?」
「はい。水でございますので」
「出してすぐに?」
「はい」
俺はしばらく考えた。
すぐに何かを言うと、また変なことになる。最近ようやく学んだ。前世の感覚では普通に話しているつもりでも、今の体は三歳児だ。感情が昂ってくると勝手に涙が出る。声も大きくなる。叫んでいるつもりがなくても、周りには泣き叫んでいるように聞こえるらしい。
頭の中の俺と、体の俺がずれている。
だから一度、息を整える。
澄んでいても危ない水はある。むしろ、澄んでいるから怖い水もある。前にもそう言った。でも、その理由を詳しく話すのは別だった。目に見えないものが水にいる。見た目だけでは分からない。口に入れば体を壊すことがある。赤ん坊にはもっと危ない。
前世では、そういうものを細菌と呼んでいた。
けれど、この世界でそれをどう受け取られるのか分からない。大きな疫病の前と後では、人の考え方も変わる。神の罰に聞こえるのか。悪い精霊の話に聞こえるのか。それとも、見えないものを見ている子どもに見えるのか。
俺は石鹸のことでも思い込んだ。ないと思っていたものが、実際にはあった。ただ必要な場所に置かれていなかっただけだ。
だから今回は見える範囲でだけ話をする。
「濁ってるって、何が濁ってるのかな?」
「……水では?」
ダリアが首を傾げた。
「うん。そう見える。でも、水そのものが変なのか何か細かいものが混じっているのかは違うと思う」
俺は灰汁の入った桶を指差した。傍らの女が一瞬、びくりと肩を震わせた。
「たとえば灰が落ちた水は濁る。土が入った水も濁る。でも水が灰になったわけじゃない。土になったわけでもない」
「それは……そうでございますね」
「魔法の水も同じかもしれない。違うかもしれない。こればっかりは分からない」
「分からないのでございますか?」
「うん。分からない」
「――坊ちゃま」
ダリアが慎重に口を開いた。
「坊ちゃまは、水を煮ろと泣き叫んでおられたと聞いております」
「うん」
知っている。
だが、叫んでいるつもりはなかった。必死になると声が高くなり、喉が詰まり、勝手に涙が出る。前世の感覚では説明しているつもりでも周りには泣き叫んでいるように聞こえるらしい。
たぶん屋敷中が知っている。
下手をすると庭の鳥まで知っている。視線を上げると、ちゅん、と木に止まっている小鳥が鳴いた。
「その坊ちゃまが、濁った水を洗濯に使うおつもりなのですか」
「使うとは言ってない」
「ですが――」
「まずは調べてみる」
俺は大桶を見た。井戸から運ばれる水を見た。赤くなった指を見た。
「当然、飲む水にはしない。リリアにも使わない。食器にも使わない。体にも髪にも使わない。すすぎにも使わない。でも、洗濯する布の最初の汚れ落としになら使えるかもしれない」
「嫌ではないのですか」
「嫌だよ」
即答した。
「すごく嫌だよ。でも、嫌だから調べるんだよ。もし使える場所が少しでもあるなら、この人たちの苦労が少し減るかもしれない」
洗濯場が静かになった。
増やした本人が何を言っているんだ。
そんな空気が少しだけあった。
分かっている。
俺が増やした。
でも、分けないわけにはいかない。
ダリアはしばらく俺を見ていた。
濡れた手を前掛けに押しつけたまま何かを考えている顔だった。
「……では、どうなさいますか」
「まず見る」
「見る……でございますか」
「うん。水を出して、すぐ使わない。しばらく置く」
「水を置くのでございますか」
「うん」
ダリアの顔に困惑が浮かんだ。
無理もない。
洗濯場では水は使うものだ。汲んで、運んで、桶へ入れて、布を沈める。わざわざ置いて眺めるものではない。
俺だって眺めたいわけではない。
濁った水をじっと見る趣味はない。
「置いたら何が分かるのでございますか」
「分からない」
「分からないのでございますか」
「分からないから見る」
また黙られた。
最近この顔をよく見る。
三歳児が妙なことを言い出した時の顔だ。できれば見慣れたくなかった。
「色が変わるか。匂いが出るか。ぬめるか。表面に何か浮くか。底に何かたまるか。そのくらいは見られる」
「それで使えると分かるのでございますか」
「全部は分からないよ。飲めるかも分からない。リリアに使えるかも分からない。そこは無理。でも最初の汚れ落としに使えるかどうかなら、少しは分かるかもしれない」
ダリアはまだ困っていた。
けれど反対はしなかった。
濁った水をそのまま洗濯に使うと言えば止めただろう。でも、置いて見るだけなら止める理由もない。
空の木桶がひとつ床に置かれた。
洗濯場で使う普通の桶だ。特別綺麗な桶ではない。飲むわけではない。リリアに使うわけでもない。今はただ、濁りがどうなるかを見るだけだ。
それでも俺は桶の内側を少し睨んだ。
睨んでも綺麗にはならない。
知っている。
でも睨まずにはいられなかった。
水を出せる者が呼ばれた。
桶の中に水が溜まっていく。
やはり澄んではいなかった。
薄く灰色に濁っている。
泥水ほどではない。
けれど井戸水とは明らかに違う。
俺は一歩下がった。
「無理」
「坊ちゃま?」
「見た感想」
「これから確認なさるのでは?」
「確認する。でも無理」
ミーナが口元を押さえた。
ダリアも肩を震わせている。
笑うな。
こっちは真剣だ。
真剣に濁った水と向き合っている。向き合いたくないのに向き合っている。
桶は洗濯場の隅に置かれた。邪魔にならない場所だ。俺は桶の前にしゃがんだ。濁った水は何も言わない。ただ濁っている。腹が立つ。水ならもう少し水らしくしてほしい。せっかく魔法なのに全然ありがたくない。
「坊ちゃまは、ここで見ておられるのですか」
「うん」
「ずっとでございますか」
「できれば」
「水は逃げませんよ」
「逃げなくても変わるかもしれない」
ダリアが少し笑った。
「では、水の番でございますね」
「番じゃない」
「では、何でございますか」
「見るだけ」
「水番でございますね」
「違う」
即座に言った。
水番。
嫌な響きだった。
三歳でそんな役を得たくない。得るならもっと別のものがいい。いや、三歳で役はいらない。
「坊ちゃま。リリア様のお部屋には?」
ミーナが遠慮がちに言った。
俺は桶を見た。
リリアの部屋へ行きたい。
でも目の前の水からも目を離したくない。
妹と濁った水。
比べるまでもない。
比べるまでもないのに、俺は立てなかった。
「……あと少し、水を見てる」
その日、俺はリリアの部屋へ行く前に、濁った水を見張ることになった。
そして危うく、洗濯場の水番にされかけた。
全力で断った。




