第十六話 濁った水にも使い道がありました
水を置いたあとも、俺はリリアの部屋へ行けなかった。
行かなかったのではない。
行けなかった。
洗濯場の隅に置かれた桶が気になって廊下へ出ても足が止まる。リリアの部屋へ向かおうとすると薄く灰色に濁った水が頭に浮かぶ。
沈むのか。
浮くのか。
匂うのか。
変わらないのか。
考えないようにすると余計に考えてしまう。
俺は結局、昼前にもう一度洗濯場へ戻った。
「坊ちゃま」
ミーナが小さく息を吐いた。
「リリア様のお部屋へ向かわれたのでは?」
「向かった」
「では?」
「戻ってきた」
ミーナは何か言いたそうにしたが、言わなかった。
言わない優しさが痛い。
洗濯場では朝と同じように水が運ばれ、布が揉まれ、石の洗い台へ落とされていた。その隅で、俺の桶だけが何もされずに置かれている。
桶の水は、出した時より少し落ち着いたように見えた。底はまだはっきりしない。上の方も綺麗とは言えない。けれど水面近くの灰色が、ほんの少しだけ薄い気がする。
「ダリア」
「はい」
「まだ使わないで」
「承知しております」
「触らないで」
「触っておりません」
「混ぜないで」
「混ぜておりません」
「倒さないで」
「倒しません」
ダリアが少し笑った。
笑うところではない。
「坊ちゃまは、本当に水の番をしておられるのですね」
「番じゃない」
「では?」
「気になっているだけ」
「水が?」
「そうだよ。水が」
言ってから、自分でも嫌になった。
昼を過ぎても水は大きくは変わらなかった。
ただ、底の方に薄く灰色が集まっているように見える。上の水はまだ澄んですらいない。飲めと言われたら泣く。リリアの近くに持っていかれたら叫ぶ。
でも、変わっている。
たぶん。
夕方になるとそれはもう少しはっきりした。
底に灰色のものが沈み、上の方は朝より薄い。澄んだ水ではない。綺麗な水でもない。ただ、出したばかりの時とは違う。
一日置けばもっと変わるかもしれない。
「今日は使わない」
俺が言うと、ダリアは桶を見た。
「明日まで置くのでございますか」
「うん。一日置く。それで明日の朝、上の方だけ見る」
ダリアはゆっくり頷いた。
洗濯場で水を一日置く。
かなり変なことを言っているのは分かる。けれど目の前で水は変わりかけている。
その日、俺は結局リリアの部屋へ行けなかった。
濁った水のせいで。
納得いかない。
納得いかないが、目を離せなかった。
翌朝、俺はまた洗濯場に向かった。
桶の底には、昨日よりはっきり灰色のものがたまっていた。上の水は澄んでいるとは言えない。それでも、出したばかりの時よりは透明に近い。
一日置けば少し変わる。
それは分かった。
「上の方だけ、そっと取れる?」
「底を揺らさぬように、でございますね」
「うん。混ぜたら元に戻る」
ダリアは木の椀を持ってきた。水面にそっと沈め、上の方だけをすくう。思ったより手つきが丁寧だった。試すのは、壺用前掛け、足を拭く古い布と床を拭いた布だった。
失敗しても困りにくい布だ。
最初の桶に、上の方だけすくった水を入れる。そこへ布を何枚か一緒に沈めた。一枚だけ洗えても意味がない。洗濯場で使うなら何枚かまとめて最初の汚れを落とせなければいけない。
ダリアが布を揉むとすぐに水が濁り、汚れが落とされていく。見ていて気持ちのいいものではない。けれど、布は少しずつ綺麗になっていくように見えた。
そこから先は井戸水を使い、一度すすぐ。それだけでは水が濁るだけなので、もう一度すすぐ。三度目で、ようやく息を止めずに見られるくらいになった。
すすがれた布は絞られ、干し場へ運ばれた。壺用前掛けの端。足用の布。床を拭いた布。どれも立派な布ではない。けれど、洗って乾けばまた使うものだ。
日が傾くころ、試した布が乾いた。
ダリアが最初に匂いを確かめて、それからミーナも確かめる。
洗濯場の女たちも順に確かめた。
全員が布を嗅いでいる。
前世なら距離を取る光景だ。
……今も少し取った。
「ひどい匂いはございません」
ダリアが言った。
「くすみは?」
「少しございます。ですが、以前そのまま洗った時よりは目立ちません」
「一日置いて、最後に井戸水ですすいだからだと思う」
「では――使えますか?」
すぐには答えられなかった。
ダリアが布を差し出す。
ミーナがこちらを見る。
洗濯場の人たちも、いつの間にか手を止めている。
俺は息を吸った。指先で、乾いた布の端に触れる。
ざらりとした。
少し硬い。
上等な布ではない。
けれど、ぞわりとしなかった。
俺はもう一度触った。
やっぱり、ぞわりとしない。
汚いものが肌に触れた時の、あの嫌な感じが来ない。
前世で俺は、家の中のものはちゃんと洗われていると思っていた。
田舎の古い家だった。
皿は洗剤で洗っていると思っていたし、服も洗濯機に入れれば綺麗になるものだと思っていた。
でも違った。
皿は水でさっと流されるだけのことがあった。洗濯機に入れる洗剤も、思っていたよりずっと薄く、量も適当だった。洗濯機の中には黒ずみがあり、湿った匂いが残っていた。
ある時、着ていた服で肌が痒くなった。
それから家の洗濯のことを知った。
綺麗だと思っていた布が、本当に綺麗とは限らない。
それを知ってからだった。
きちんと洗えていない布が肌に触れると、ぞわりとするようになった。
食あたりのあとに匂いだけで箸が止まるように、一度体が覚えたものは、あとから頭で大丈夫だと言ってもなかなか消えない。
だから俺は布が嫌だった。
水が嫌だった。
見えない汚れが嫌だった。
でも今、指先に触れた布からは、あの感じがしなかった。
「坊ちゃま?」
ミーナの声で、俺は布から指を離した。
「……嫌な感じはしない」
洗濯場が静かになった。
俺の言葉をダリアは思ったより真面目に聞いていた。
「では――?」
「下洗いなら、使えるかもしれない」
言ったあとで、俺は桶の底に残った濁りを見た。
一日置けば、下にたまる。
上の方だけなら使える。
なら、もっと取れるかもしれない。
「布を借りてもいい?」
「布でございますか」
「水を通す。たまったものが布で止まるかもしれない」
ダリアは使い古した布を持ってきた。端がほつれ、ところどころ薄くなっている。洗濯場で雑に使うにはちょうどいい布だった。
別の桶の上に布を広げ、その上から水を少しずつ流す。
布は濡れ、水は下へ落ちた。
灰色の濁りも一緒に落ちた。
「……通ったね」
「通りましたね」
「うん」
通ってほしくなかった。
布で止まってほしかった。
この濁った水は布で濾せなかった。
けれど目の前の布は思ったより目が粗い。
「もっと細かい布は?」
「ございますが、洗濯場で使うにはもったいのうございます」
「重ねたら?」
「水が落ちにくくなります。絞れば通りますが、手間が増えます」
「その布も洗わないといけない」
「はい」
なるほど。
簡単にはいかない。
この世界の布は、俺が思っているほど細かくない。服として使える布でも、水の濁りを止めるには至らない。織り目が粗い。重ねれば少しは止まるかもしれないが、その分だけ水も手間も増える。
運ぶ水を減らすために、洗う布を増やす。
嫌な冗談だった。
「布で濾すのは、今は後にしよう」
「後でございますか」
「うん。良い方法が見つかるまでは一日置いて上の方を取るだけにする」
ダリアは頷いた。
少し残念そうにも見えた。俺も少し残念だった。布で濁りが止まれば話が早かった。
「壺用前掛け、足用の布と床を拭く布の下洗いだけになら使っても良いと思う。ただし魔法の水は出してすぐに使わない。一日置く。底を揺らさず上を取る。布でこすのは、今はしない。最後は必ず井戸水ですすいで。白い布、肌に長く触れる布、リリアのもの、食器に触れる布には使わない」
言い終えると、ダリアがゆっくり頷いた。
「前の日から水を用意する必要はございますが、それだけで井戸から運ぶ水はかなり減ります」
「かなり?」
「半分近くは」
「――半分」
俺は思わず大桶を見た。
何度も運ばれていた水。
二人がかりで持ち上げていた桶。
濡れて赤くなった手。
それが半分になる。
濁った水は嫌いだ。
今も嫌いだ。
でも、半分は大きい。
「助かります」
ダリアが静かに言った。
その言い方が、思ったより重かった。
俺は布を分けた。
綺麗にするために。
でも、その分だけ誰かの仕事が増えた。
なら、増やした分を少しでも軽くする方法を考えなければならない。
「坊ちゃまは、濁った水をお許しになったのですね」
「許してない」
即答した。
「では、何でございますか」
「最初の汚れ落としにだけ使えると分かっただけだ」
ダリアは少し考え、それからもう一度頷いた。
「では、これからは水の番は私どもで」
「――番じゃない」
「では、水の用意は私どもで」
「それならいい」
それから俺は洗濯場を出た。
廊下に入ると、水の音が少し遠くなった。
ようやくリリアの部屋へ行ける。
そう思ってから、俺は足を止めた。
「ミーナ」
「はい」
「マルタに報告だけはしておいて」
「魔法の水のことでございますね」
「うん。今回は増やしていないから事後報告でもいいよね」
「良いと思いますよ。あとでお伝えします」
ミーナが頷いた。
濁った魔法の水は、壺用前掛けと足用の布と床拭き布の下洗いには使えるかもしれない。
飲み水ではない。
綺麗な水でもない。
リリアの近くには、絶対に行かせない。
それでも洗濯場の水桶は明日から少し軽くなる。
無理なものが減ったわけではない。
無理だったものの置き場所が、ひとつ決まっただけだった。




