↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
潔癖症の俺には中世風の魔法世界が無理でした ~妹のおくるみが汚すぎて叫んだら、いつの間にか衛生改革になっていました~  作者: 織 航(しき わたる)
第一章 小さな手洗い台

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
20/24

第十七話 石鹸で手を洗って初めて妹に触れました

 手洗い台の前で俺は立ち止まった。

 小さな石鹸が皿の上に置かれている。

 青い紐の水壺。

 赤い糸の壺用前掛け。

 手を拭く布。床用の布。壺に使う布。

 少しずつ形が整ってきている。

 前世の洗面所とはまるで違う。

 それでも、ここまで来た。


「坊ちゃま。手を洗われますか」


 ミーナが言った。


「――洗う」


 俺は即答した。

 ミーナが水壺を持つと俺は石鹸を手に取った。小さい。少し歪んでいる。けれど石鹸だ。

 指の間にこすりつける。

 爪で手のひらをこする。

 手首まで洗う。

 泡立ちは前世のものほどよくない。それでも、水だけで流すよりずっといい。

 ただ、止めどころが難しい。

 もう一度、指の間を洗う。

 爪も洗う。

 親指の根元も洗う。


「――坊ちゃま」


「まだ」


「そこは先ほど洗われました」


「……気になる」


「洗いすぎると赤くなりますよ」


 俺は手を止めた。

 それは困る。

 手を綺麗にするために手を傷つけてしまっては意味がない。血が出たら終わりだ。妹に触れるどころではない。

 俺は石鹸を皿へ戻し、両手を前に出した。

 ミーナが水をかける。指先から泡が流れ、手首を伝って下へ落ちていく。

 洗い終えると俺は手洗い台の横に掛けられている手拭き用の布を見た。

 手を拭くための布だ。

 俺は布の下の方だけをそっと使い、手を包むように水気を取った。

 ミーナも近くの使用人に水をかけてもらい、手を洗ってから俺の隣に戻った。

 扉の前に着くと、また足が止まった。

 今ここで俺が触れば、さっき洗った手の意味が少し崩れる。……少しどころではないかもしれない。考え出すと全部崩れる。

 俺は両手を胸の前で固めた。


「――ミーナ」


「はい」


「開けて」


「かしこまりました」


 ミーナはそれだけ言うと扉を開けた。

 部屋の中は静かだった。窓から入る光が薄く、布越しにやわらかく広がっている。母上は椅子に座り、腕の中にリリアを抱いていた。

 リリアは眠っているように見えた。

 目が開いているようには見えない。まだ生まれたばかりだ。一日の大半を眠って過ごしているのだろう。ただ、静かに息をしている。それだけで、部屋の中の空気が少し違って見えた。


「……アルノ?」


 母上が俺を呼んだ。

 俺は一歩だけ近づいた。

 そこで止まる。


「手を洗いました」


「ええ」


「石鹸で洗いました」


「ええ」


「扉は触ってないです」


「――そう」


 母上は笑わなかった。

 ただ、俺の手を見て、それからリリアを見た。

 これまで俺はここで止まっていた。

 自分の手が清潔か分からなかった。水で流しただけでは足りないかもしれない。拭いた布が汚れているかもしれない。誰かの手から、何かが移っているかもしれない。

 考え始めると、手は出せなかった。

 リリアが嫌だったわけではない。

 触れたくなかったわけでもない。

 触れたいから、触れなかった。

 この手で何かあったら、と思うと息もできなかった。

 でも今日は違う。

 あれから手洗い台に石鹸を置いた。

 水壺と布を分けた。

 壺用前掛けも分けた。

 洗濯場のことも分かった。

 もちろん全部が分かったわけではない。まだ分からないことは山ほどある。けれど、今の俺にできるところまでは整えた。

 母上が、リリアの手を布の外へ少しだけ出した。

 頬ではない。

 手だ。

 それでも俺は動けなかった。

 小さすぎる。

 指も、爪も、全部が小さい。

 三歳児の俺の手でもすっぽりと覆えてしまうくらいだ。

 こんなものに触れていいのかと思った。触れたら壊れそうで、触れなくても溶けてしまいそうだった。

 俺は指先を近づけた。

 けれどどうしても途中で止まる。

 手を洗ったのは前世の洗面所ではない。水道もない。真新しいタオルもない。

 比べるなと思っても比べてしまう。

 近づけようとしてもまた止まる。

 ミーナは何も言わない。

 母上も何も言わない。

 急かされないせいで、自分の息の音だけがやけに大きく聞こえた。耳の奥で脈が鳴っている。

 その時、リリアの手が少し動いた。

 俺を見たわけではない。

 俺を選んだわけでもない。

 ただ、生まれたばかりの小さな手が、ふにゃりと動いた。

 その指先が、俺の指に触れた。

 温かかった。

 小さかった。

 やわらかかった。

 リリアの指が、俺の指先に引っかかる。握ったというほど強くはない。ただ、離れない。

 俺は息が止まった。

 ぞわりとはしなかった。

 嫌な感じもしなかった。

 ただ、温かかった。

 その温かさが、指先からゆっくり広がっていく。

 怖くないわけではない。

 不安がなくなったわけでもない。

 でも、手を引っ込めなかった。


「アルノは、良いお兄さんになるわね」


 母上が静かに言った。

 違う。

 そう言いたかった。

 良い兄なら、もっと早く触れたはずだ。布を見て叫んだり、水を煮ろと言ったり、湯浴み場で髪を死なせたり、洗濯場で濁った水を見張ったりしなかったはずだ。

 俺は良い兄ではない。

 ただ、怖かっただけだ。

 清潔か分からない手でリリアに触れるのが怖かった。

 リリアの指が、まだ俺の指先に触れている。

 触れないために分けてきたのではない。

 触れるために、分けてきた。

 俺はようやくそれを少しだけ分かった。

 リリアの手がもう一度小さく動いた。

 俺の指先から離れそうになって、また少し引っかかる。

 俺はしばらく動けなかった。

 良い兄になれるかどうかは分からない。

 でも、触れた。

 初めて、妹に触れた。

 リリアの指は温かかった。

 やがてリリアの指がほどけ、俺はゆっくり手を離した。

 離したあとも、その温かさだけがしばらく俺の指先に残っていた。

 これから何度手を洗ったとしてもこの感触だけは消したくないと思った。

ここまで読んでくださりありがとうございます。


ようやくアルノが、妹のリリアに触れるところまで来ました。

潔癖はただ拒むためのものではなく、触れるために整えるものでもある。

第一章は、そんな形でひとつ区切りになります。


続きが気になる。アルノをもう少し見守ってもいいと思っていただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。